閑人帳


●Nスペ「本土空襲・全記録」を見て

 8月12日のこの番組、80歳以上で、戦時中の空襲の記憶がある方が見ておられたら「そうだったのか」と70年ぶりに合点したかもしれない。合点といってもいささか腹の立つ合点でありますが。
 戦争末期、米軍は全国66都市でのべ2000回の空襲を行い、民間人に多数の死者を出した。そのことはすでに知られているが、爆撃による殺戮だけでなく、戦闘機による銃撃(機銃掃射)でも多くの民間人が殺された。米軍にとっては戦果とは言いがたい殺人なのに、なぜ執拗に無抵抗な民間人を殺したのか。


米国の資料の一つにその意図が記されている。targets of opportunity 字幕には「臨機目標」と訳された言葉が出たが、普通にいえば「都合のよいように標的を決める」なにを標的にするかはパイロットの自由裁量とするという意味だ。まったくええ加減なことでありますが、こういう指示があり、それを実行したという。ひどい話だ。


1945年も7月になると、日本の防空戦力はガタガタになり、無抵抗状態に陥った。それまではB29などの爆撃機は戦闘機群の護衛によって安全に爆撃をしていたが、日本の迎撃がなくなると戦闘機は護衛という仕事が不要になってしまった。敵を全部やっつけたので、親分は子分のガードがなくても自由にかっ歩できる、という状態だ。これじゃ子分である戦闘機は失業状態だ。 


そこで取った苦肉の策が前記の「臨機目標」である。もうB29の護衛はしなくてよい。君たちは自分で目標を探して仕事をして来なさい。要するに、フリーハンドになった。帰投時間さえ守れば、どこで何を攻撃するかはあんたの自由、であります。しかし、その一方で軍は意地悪もした。機銃の引き金と連動するカメラ「ガンカメラ」を装備したのだ。つまり、誰某はいつ、どんな仕事をしたか記録に残ってしまう。嗚呼、なんとイヤミな仕打ちでありませう。パイロットの技量とやる気が試された。


番組の映像では様々の機銃掃射場面が映された。都市部だけでなく、のどかな田園や海浜で歩行者を狙う場面が出てくる。ローカル線の汽車も襲う。田舎では戦闘機一機の襲撃では空襲警報なんか鳴らないから、住民はびっくり仰天である。都会ではもちろん効率よく殺せた。振り向けば背中の赤ちゃんの首がなかった、というレポートは機銃掃射による殺戮であった。


旭区の「千人塚」のある河川敷では爆撃から避難した市民千数百人が戦闘機の機銃掃射で亡くなった。橋の下に逃げ込んでも、川沿いに超低空で射撃すれば橋はガードにならなかった。爆弾は空から落ちてくるが、機銃の弾丸はほぼ水平で飛んでくるからだ。このように、爆撃機の護衛という本来の任務をはなれて戦闘行動できる余裕があったことになる。


あまりに犠牲者が多すぎて氏名確認もできず、その場に穴を掘って埋め、爆撃で壊れた家財を燃やして荼毘に付した。焼くのに三日かかった。いま、城北公園北側の河川敷には千人以上の人骨が埋まっていることを知る市民がどれほどいるだろうか。(千人塚は堤防の上に移されている)
 空襲による死者のほとんどは爆弾と焼夷弾によるものだが、数千人は機銃掃射で亡くなった可能性がある。爆弾と違い、のどかな農村、漁村でも犠牲者がでている。遺族はその運の悪さをどれほど嘆いたことだろう。


NHKスペシャル 「本土空襲・全記録」から
Nスペ空襲



Nスペ



nスペ 


<臨機目標>海岸で銃撃されて逃げ惑う人。(ガンカメラの撮影)
機銃掃射 



機銃掃射が笑い話のネタになった
 敗戦間際の米軍の機銃掃射にはそんなウラがあったのか。番組の情報が正しければ、一応は納得できます。パイロットの多くがチームワークをせず、単独行動だったこともそれを裏付けることになる。上官の指示をいちいち聞かなくていいだけでもどんなに楽ちんか。


敗戦まで一ヶ月を切った7月下旬、6月の空襲で家を無くした駄目男家族は東住吉区田辺の親類の家に身を寄せていた。ある日の昼頃、母親に連れられて近くの理髪店に行く。店は今の南港通りに面していた。(当時は十三間通りといった)バリカンを入れてしばらくすると爆音が聞こえた。戦闘機が近くを飛んでいる。やがてそのエンジン音が低音から高音に変わる。急降下するときの音だ。店のおばちゃんはバリカンの手を止め、椅子から降ろして店奥へ移った。


直線道路の東から西へ、路上に人影や車があれば銃撃しようとしたのか、急降下して地表すれすれを通過する。一瞬、機体の影が路面を走った。しかし、何事もなく、すぐ静寂が戻る。そのすぐあと、駄目男は店の外へ出た。そのときの光景が頭にこびりついている。真っ青な空、真上からカッと照りつける太陽。銀色に輝く路面。そして全くの無音、人影のない街・・。阿鼻叫喚の大混乱が記憶に残るのではなく、何も起きない、静止画のような街の風景が6歳のアタマに刷り込まれた。


そのまま、店の内外をウロウロしたらしい。頭は虎刈りのままである。その、散髪中を忘れて虎刈りのままうろつく様がよほど可笑しかったらしい。母とおばちゃんがゲラゲラ笑い転げていた。帰宅してそれを祖母に話して、またゲラゲラ笑う。この、本人には全然面白くないことが3~4年は笑い話のネタに使われた。駄目男が思い出せる機銃掃射に関わるシーンはこの「よしもと新喜劇」みたいな一件だけであります。


当時の理髪店が残っていた!
 もう72年も昔のことだ。理髪店は無くなってると思い込んでいた。しかし、気になるので現地へ行って確かめることにした。場所は東住吉区役所の南100m、南港通り交差点の北東側。無いと思っていた店があった。「理容 永橋」しかし、火曜日なのに営業していない。廃業・・?いや、店があっただけで嬉しい。自分の6歳時の記憶が間違ってなかったのだから。(あとで電話帳調べたら名簿に無く、廃業したらしい)


というわけで、大阪の空襲の話は以前にも書いたけど、昭和20年、敗戦間際のばらばらの記憶をせめて時系列だけでも整理して、再度、ボケかけた頭にインプットしておきたい。べつに難儀なことではなく、資料と記憶を照合するだけで済む。空襲とか、戦時中の記憶がある人は、常識では昭和15年生まれ、終戦時で5歳が限界でせう。


無いと思っていた理髪店が残っていた(但し廃業)
理髪店


現在の南港通り。戦闘機が向こう(東)から急降下してきた。
理髪店





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