読書と音楽の愉しみ



●中九兵衛著「甚兵衛と大和川」を読む

 かねてより、大和川の付け替え工事のドキュメントを読んでみたいと思っていたところ、図書館で本書に出会い、興味深く読みました。著者の中氏は甚兵衛の末裔で自ら多くの文献資料を所蔵しているため、内容の正確さでは他書より優れています。実際、著者は巷間に普及した間違った情報の訂正、広報にも力を入れています。


古代の河内は潟湖、泥質地で水は自然の流れに委ねられていたけど、住民が増えるにしたがい、堤防工事など人手が加わって川と田畑の整備が進むようになりました。しかし、川幅は狭く、また、土砂の堆積が早くてしょっちゅう氾濫しました。江戸時代半ばまでは、大和川は大阪城の東側で淀川に合流しており、その淀川も度々洪水に見舞われたので当然、大和川もスムースに流れない。さらに、堤防のかさ上げをくり返しるうちに大和川水系はほとんど天井川になってしまった。ひどい所では河底が田畑より3mも高くなった。


毎年のように洪水に襲われ、小規模な土木工事を繰り返しても根本的対策にならないとして「大和川付け替え」という、誰もが目を剝くような大胆なプロジェクトを企画したのが中甚兵衛だった。石川との合流点あたりから西へ、海までどど~んと新しい川を開削する。延長約14キロ、巾は100間(180m)というトンデモ規模の大工事であります。
 甚兵衛は大坂の奉行所へ陳情しますが、むろんアウト。ならば、直接江戸幕府に訴えようと江戸へ下りますが、当然、江戸でも玄関払い。しかし「さよか、あきまへんか」で退くような甚兵衛ではない。父の意志をを継いだ二代目甚兵衛は陳情を繰り返すために十数年間も江戸に住み着いた。ものすごい執念であります。

陳情40年、工事はたったの八ヶ月
すったもんだの挙げ句、遂に幕府は甚兵衛の計画の正しさを認め、工事を許可する。陳情開始から40年以上経っていた。むろん、この期間、河内一帯はずっと洪水に悩まされ続けた。人命、作物の被害、計り知れない。とにもかくにも念願の工事に着手できた。今なら、国土交通省~
近畿地方整備局~ゼネコン~下請け~孫請けというラインで仕事しますが、当時は、江戸幕府~藩主(ここでは姫路藩ほか)~大坂奉行所~地元頭~農民というラインで工事を進めます。下命を受けた藩は費用は自前なので大弱り。


14kmもの長い川をつくるのだから測量も精密にしなければならず、ビミョーな傾斜で流れをスムースにする。こういう地味なポジションで優れた仕事をした人がたくさんいるはずですが、彼らの名前は残らない。工事は1704年2月末にはじまり、10月に終了。たった八ヶ月というのが信じられない。この快挙は動員人足数が240万人というすごい人海作戦で達成された。単純計算では一日一万人を動員したことになります。人力を侮ってはいけません。


これで万事めでたく解決・・ではなかった
 この大工事で洪水の悩みはほぼ解決されたが、実際には新しい川でも溢水や小規模な洪水、橋の流失という災害は起きた。百点満点は難しい。
さらに、新大和川は流域の産業に変化をもたらした。川周辺の土壌は砂の多いものに変わり、米づくりに不向きで、代わりに木綿の栽培が盛んになった。大坂の産業構造に変化をもたらした。
 もう一つ、難儀なことが起きる。新しい川が吐き出す大量の土砂が河口にたまり、堺の港の存立を脅かすことになる。浚渫や堤防づくりに追われるが、結局、港は大型船が出入りできないまでに衰退した。さらに、川の開削が住民に微妙な意識の変化をもたらす。摂津と泉州の境界は、昔は市内中心部の大小路だったが、大和川が出来て川が境界になった。地続きだった時代に比べて住民の意識も変わり、昔は堺の人が主役だった住吉大社の祭りが大阪の祭りになってしまった。


川の開削ですべてがすっきり分けられた・・と思いきゃ、そうでもなく「遠里小野」という町名は大阪市住吉区と堺市の両方にあるし、平野区の「瓜破(うりわり)」の町の一部は大和川の南側にある。微妙、かつ、ややこしい。堺市にとっては、大和川の開削は良いことばかりではなかったようです。(2004年 中九兵衛発行)

甚兵衛







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