読書と音楽の愉しみ



●梅原猛著「怨霊と縄文」
 法隆寺監修「救世観音」を読む

 拙ガイド「太子快道」の原稿を書くとき、聖徳太子に関する本を30冊くらい読んだけど、中でも一番刺激的だったのは、梅原猛「隠された十字架」だった。「怨霊と縄文」には、この本の著作の裏話的なことが書いてあり、懐かしい思いで読んだ。なつかしい・・といっても、10年ばかり前のことでありますが。


本職は何屋さんですの?と訊きたくなるほど、梅原センセイの仕事は多岐にわたっていて、哲学者、歴史学者、宗教学者、芸術評論家、作家、歌舞伎戯作者・・ほんま、マルチ学者であります。逆に言えば、この道一筋の学者ではないわけで、それが読者にとっては魅力なのですが、専門家からみれば、梅原流新説も「門外漢の見識」に映るらしい。


「法隆寺は怨霊の寺である」というのが「隠された十字架」の主軸になっていて、法隆寺に潜むナゾの数々は太子一族の怨霊を鎮めるために生まれたと説きます。しかし、学者からは反論がなされ、当の法隆寺は「怨霊の寺」と書かれたことに反発している。世界文化遺産の寺を「怨霊」のイメージで語られてはかなわんなあ、ということでせう。
 怨霊の寺、だけでもイメージは悪くなるのに、「聖徳太子は実在しなかった」なんて本もあるので、法隆寺も「困ったこっちゃ」と頭が痛い。


ともあれ、駄目男程度の貧しい予備知識をもって法隆寺を拝観しても、ナゾが多い、印象は暗い、とネガティブな感想をもつ人が多いのではと思います。その象徴が「救世観音」です。太子自身の姿を写したとされる、2m近いサイズの仏像ですが、第一印象は「こわ~~」でありました。仏さま見て、こわ~~なんてバチ当たりな表現ですが、正直、美しいとか慈悲に満ちた顔つきという印象をもつ人はいないでせう。仏さまよりも人間を感じてしまうのです。仏像だから、当然、抽象表現になるのですが、なんか、妙にリアルなんですね。どこが、と言われてもナンですけど・・。


観音さまなのに「こわ~~」の印象は、俗物駄目男だけでなく、1400年まえにつくられたときからもたれていたらしい。せっかく拝みにきたのに、なんだか目をそらしたくなるような仏像。
 そんな印象が昔からあったためか、普通に全身を拝む仏像ではなくなり、顔を隠したり、厨子のなかに納めたりして拝観者から遠ざかった。そして、元禄の頃には全身を長い長い木綿布でくるまれてしまった。有り難いのに見たくない・・ヘンな仏像になってしまった。そして、約200年後、明治の開花期にフェノロサや岡倉天心の手によって布が解かれ、公開された。このときは法隆寺は強硬に反対し、布を解けば、天変地異が起きると恐れた。


法隆寺は昨年から拝観料を1000円から1500円に値上げしました。こちらのほうが「こわ~~」実感でありますが、しょーもない映画に1000円投じるよりはネウチがあります。「隠された十字架」を読んだ人はぜひ訪問して梅原「怨霊説」をたしかめてみませう。救世観音の公開は春と秋の二回のみなので、日程を確かめて訪ねて下さい。(怨霊と縄文 1979年 朝日出版社発行・救世観音 法隆寺髙田良信監修 1997年 小学館発行)


救世観音 撮影・土門拳
法隆寺


法隆寺






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