読書と音楽の愉しみ



●朝井まかて著「阿蘭陀西鶴」を読む

 Tさんより恵送いただいてタダ読みの幸せ、深謝。朝井作品は、去年から今年にかけて「すかたん」「花競べ向嶋なずなや繁盛記」「先生のお庭番」も読んでいて、これらも全部タダ読み(借り読み)。朝井さん、出版社さん、売上げの足引っ張ってスビバセンです。


本書は井原西鶴の半生を、盲目の娘、おあいの視点で描いたもの。帯に「ほんま、はた迷惑なお父はんや」とあるように、わがままでええかっこしいの西鶴に振り回される日々の暮らしぶりから、西鶴の人物像と江戸時代の大阪の風俗を描写している。しかし、西鶴自身は自ら出自を語るようなことがなかったために、未だに不明な点が多いらしい。


刀剣商いの家業を人に任せて自分は若くして気ままな隠居暮らし・・といえば、八百屋を弟に任せて隠居した伊藤若冲に似ているけど、若冲のようなマジメさは無く、得意の俳句の講師みたいなことしてメシの種にした。さりとて大坂でナンバーワンというほどのレベルでもない。


そこで、世間の注目を集めるために矢数俳諧というイベントを企画した。一定の時間内にいかに多くの俳句を詠むか、を公開の場で実演する。はじめは一日で千句で評判をとったが、ライバルが現れて抜かれてしまい、負けてはならじと生魂神社で四千句を詠んで見せ、大評判になった。(後年、住吉神社で23,000句という記録もつくった)ま、サーカス的俳句づくりと言うのでせうか。質より量もええとこです。


西鶴を歴史上の人物にしたのは、俳句ではなく浮世草子(娯楽読み物)。この転向が大成功して文壇のトップになる。「好色一代男」「好色五人女」「日本永代蔵」「世間胸算用」とヒット作を量産、今でいえば、週刊文春、アサヒ芸能、週刊実話、のような肩の凝らない読み物で人気を博した。決して芥川賞的文学作品を書いたわけではない。でも、江戸時代、ほかにこのような類いの出版物がなかったのだから人気を独占できた。同時代の松尾芭蕉が純文学の才人としたら、西鶴は大衆文学の雄、ということになりますか。両者は顔を合わせる機会がなかったが、西鶴は芭蕉を嫌っていたらしい。


では、大ヒット連発で、西鶴は大もうけして金持ちになったのか、といえば、そうではなかった。著作権の概念がなかった時代だから、最初の原稿料だけが収入で、定価の何パーセントという印税収入はなかった。生涯、豪邸で暮らすリッチマンになれなかった。残念。
 おあいは元禄五年、26歳で亡くなった。後を追うように、西鶴は翌年、52歳で亡くなった。法名は「仙皓(せんこう)西鶴」

 著者は「大坂文学学校」の出身だけど、卒業後、プロになった作家の中では、実力、知名度では田辺聖子に次ぐナンバー2になったのではと思います。まだ50歳代だから、これからが円熟期、遠からず田辺聖子を抜いて、関西でトップの女性人気作家になるでせう。(2014年9月 講談社発行)


西鶴本


西鶴の住んだ町を訪ねる

 講釈師、見てきたようなウソを言い・・朝井作品の良いところは、生活空間の細部や飲食の場面がとてもリアルに描かれていることで、本書でも、西鶴を訪ねてくる客におあいがお茶を出す場面が何度もでてくるが、同じ表現にならないように気遣いが見られるし、盲目の娘が料理するときの手の動きを、まるでそばで見ているようにリアルに描写する。こういう細部描写の積み重ねが作品に厚みをもたせている。


さて、西鶴は大坂のどこで暮らしていたのだろうか。大谷晃一著「西鶴文学地図」という本を借りて現地を歩いてみた。一番長く暮らしたのは、今の中央区槍屋町で、町名は当時と同じまま。谷町3丁目交差点の西300mくらいだろうか。NHK大坂放送局の西、1キロといったほうが分かりやすいか。オフイスやマンションの混在した街で、江戸時代なら、大阪城に近い庶民の町といえる。


もう一つ、西鶴終焉の地、という場所があって、これは石碑があるから分かりやすい。谷町3丁目交差点、東南角から南へ50m、居酒屋の前に碑がある。ここの町名は錫屋町といったが、現在は残っていない。ついでに墓を訪ねる。上本町西4丁目の「誓願時」という寺の奥にあるけど、かなり転々とした挙げ句にここへ落ち着いたらしい。都市計画や空襲などで町の区割りが変わってしまったのだから仕方ない。「仙皓西鶴」の文字があるだけのシンプルな墓石で、これは西鶴の弟子、団水の文字とされる。


あと「恋歌」(直木賞受賞作)を読めば、朝井まかてワールドのおおかたが会得できそうなので、図書館か古本屋でさがしてみませう。


槍屋町の通り(西から東を見る)
西鶴


左の青い自販機のあたりが西鶴の住まいだった
西鶴


西鶴終焉の地を示す石碑
西鶴


誓願寺山門
西鶴


西鶴の墓石
西鶴


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