ウオーキング・観光



●「神武東征」の不思議 (その2)

 神武東征は各地にたくさんの伝承を残して今に伝えています。大阪近辺では、上陸地になった生駒山麓と泉州地方にあり、試みに、自宅から行きやすい泉南市の神社を訪ねてみました。


■男神社(おのじんじゃ)
 神武天皇(イワレヒコノミコト)の軍が大阪湾から生駒山麓へ上陸したとき、敵の待ち伏せに遭い、神武の兄、イツセノミコトが流れ矢で負傷する。やむを得ず、撤退。一行は大阪湾を南下して和歌山へ向かうが、その途中、傷の手当てのために一旦上陸したのがこの地だった。


傷口を洗い、手当をするが血は止まらず、重傷である。イツセノミコトは不覚をとったことが無念で「ぐやじい~~」と叫んだ。よって、ここを「雄叫びの杜」とし、「男神社」となった。・・などと、古事記に書かれているらしい。よって、当地は「男里(おさと)」という地名になり、男里川という川もそばを流れている。


当神社の摂社「浜宮」は南海電車の線路際にあり、ここが上陸地点だという。石碑と粗末な社以外、何も無い原っぱだが、昔はここが波打ち際だった。現在は海岸まで800mくらいあり、海は見えない。


■茅渟神社
 南海電車の樽井駅下車、南へ歩いて15分くらい、昔ながらの集落の面影を残す静かな住宅地にあります。台地のゆるやかな傾斜の途中にあり、ここも昔は海べりに建つ神社だった。
 茅渟をチヌと読める人は大阪近辺の人だけかもしれない。(海釣りの好きな人は全員読めますね)大阪湾になぜか多いクロダイをチヌという方言で呼ぶが、原語は「血沼(ちぬま)」というのだから、なんかオソロシイ。負傷したイツセノミコトや兵隊がここで傷口を洗うと、水は血で染まって真っ赤になった。だから血沼。


口伝による伝承を、ようやく普及しはじめた漢字に当てはめたとき、血と沼という字を選んだ可能性がある。昔は血を「穢れ」とする概念がなかったので、別にオソロシイ表現でもなかった。それにしても「チヌの海」が元は「血沼の海」だったというのは、感覚的に受け入れがたい。
 何気に口にしている「チヌ」という名称が、1300年のあいだに、
「血沼」→「血渟」→「茅渟」→「チヌ」と変遷した。ひとつ、賢くなった気がします。


イツセノミコトは結局、亡くなる。その亡骸は和歌山市南部の「竃山神社」境内の御陵に祀られている。数年前に訪ねたことがあるけど、管理の行き届いた立派な御陵です。宮内庁が世話をしているのかもしれない。
 神武軍団はさらに南下して熊野へ向かうのですが、合理主義思考でいうなら、和歌山まで来たのなら、なんで紀ノ川を遡って大和を目指さなかったのか。このルートのほうがずっと近道で安全ではありませんか。


近道で安全? そんなもん、あかんに決まってるやないか。そもそも神武軍の戦闘コンセプトは「太陽を背にできる位置、方角で戦う」ことである。紀ノ川を遡ったら、また西から東へ、つまり太陽を正面にして進むことになる。だから、紀ノ川コースはアウトであります。太陽神信仰が紀ノ川コースを許さないのでした。合理主義、死ね!っちゅうねん。


男神社拝殿
男神社


神社周辺の町並み
男  


浜宮境内
男神社


浜宮 雄水門表示
男神社


茅渟神社
茅渟神社 


チヌの海(岡田浦)
男神社 
 




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