閑人帳



●「神武東征」の不思議 (その1)

 石田俊雄さんからお借りした「海道東征をゆく」を読んで、古代日本国家の成り立ちのイロハをおさらいした。中学生でもわかるムックスタイルの本で、本書では高千穂から浪速までの「東征」を、各地の伝承を紹介しながら紀行ふうに描いている。これ以上分かりやすい「東征記」はないでせう。ただ、神サマの名前がえらく読みにくいのが難儀だけど仕方ない。


戦後の教育では、GHQの指示もあって、この神話はつまらないインチキ物語として全面否定され、カリキュラムから除かれている。このため、日本人の9割以上は知識も興味も持ち合わせていない。
 神武東征記の話がウソかホンマかといえば、ウソですね。神話の中身がロジックできちんと裏付けできるのなら神話ではありません。ギリシャ神話は事実か、と問うのと同じくらいにアホらしい。なんせ、コトは神サマの話ですからね。


それはさておき、神武東征の話が99%ウソだとしても、1%が引っかかる。全部デタラメなら「東征記」は書けたのか、という疑問です。
 地理、地図が好きな駄目男が昔から不思議に思ってることの一つは、東征記のネタになった「古事記」「日本書紀」成立の8世紀はじめにおける権力者の地理概念です。この時点で記紀のライターたちは日本国のカタチ、広さをどれほど把握していたのか。国境の概念はあったのか。


東征のラスト近く、神武軍団は明石海峡~大阪湾から河内湖を経て生駒山麓に着き、上陸作戦となるが、待ち構えた地元の蛮族(西部劇に出て来るインディアンみたいな感じ)にボコボコにやられ、退却する。そして、大阪湾を南下、紀伊半島を半周して熊野で再上陸し、八咫烏をガイドにして大和を目指す。途中、宇陀あたりでも蛮族を掃討して進む。


紀伊半島を大きく回り込んで熊野で再上陸し、大和を目指す、のであれば、紀伊半島の地形と大和の位置の認識がなければならない。私たちは、ハハン、ここからここへ向かうのね、と地図をイメージして難なく理解できるけど、せいぜい山頂から風景を見渡すくらいしか出来なかった時代に、紀伊半島のスケールと「大和」の位置を認識するのはきわめて難しい。


神武東征が記紀のライターによる捏造だとすれば、彼らに地理的概念があったはずだけど、宮廷の舎人にそんな知見があったとは思えない。そうではなく、昔からの口伝を聞いて舎人が文章化したのであれば、その口伝者に地理的知識があったことになる。しかし、一定の土地に定着して農業中心の生活をした古代人が数百キロ四方の地形をイメージする必要などなかったし、出来なかった。熊野灘海岸に上陸して北へ進めば、大和に至るということを誰が知っていたのか。しかも、その大和とは、生駒山の向こう(東側)にある大和と同じであることを知った上での熊野~大和コースである。


熊野発、大和行き、といえば、私たちは「ああ、奈良交通の日本一長距離路線バスのコースね」と言いたくなる。これを神代の時代に知ってたなんて・・。(注)東征記のコースは熊野川沿いのコースでは無い。


もっとも、記紀が成立する100年以上前に遣隋使や遣唐使がシナとの往来をしており、もっと昔、神功皇后の時代には三韓征伐の話もあるのだから、世界は広いという漠然とした空間認識はあったでせう。しかし、それらの国際情報は外国人がもたらしたものであり、日本人の発想ではない。それなら、九州北部から瀬戸内海を通って大阪~大和に達するのは、熊野~大和コースよりはやさしい。


神武東征記がまるきりインチキというなら、古事記、日本書紀もインチキ文献になる。まあ、実際、インチキが多いとしても、それなら、東征記に関わる各地の伝承も全部ウソであって、それらはインチキ話に基づいて、記紀執筆の後の時代に捏造された伝承、インチキ史跡である、ということになる。つまり、みんな8世紀以後に生まれた伝承になる。


では、そのインチキ情報をどうして各地に伝えたのか。コピーを配布して「日本書紀には、あんたの村には〇〇岩という大岩伝説があると書かれているので、それらしい岩を用意してカッコつけて下さい」とお触れを出したのか。もし、8世紀以後に、そんな伝承を捏造したら文字記録に残る可能性大であります。そもそも、当時の宮廷に地方の末端まで指図、命令できる力はなかった。記紀の記述に合わせて各地に伝承をつくるのはかなり難しいのではないか。


鶏と卵の関係のように因果関係が分かりにくい。はじめに伝承があって記紀が生まれたのか。それとも、記紀が成立したあとで伝承がつくられたのか。なんとも言えないが、「海道東征をゆく」を読むと、はじめに伝承ありき、のほうが説得力がある。「ま、なんや、よう分からん」というのがホンネでありますが。


神武東征のコース
東征 


東征 


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