読書と音楽の愉しみ



木村茂光(編)「歴史から読む 土佐日記」を読む

 「土佐日記」を読むのはこれで三冊目。前回読んだのが、林望著「すらすら読める 土佐日記」。現代語訳が上手なので、本当にすらすら読めました。原文がすらすら読めない者には有り難い本です。

◆女のフリして「土佐日記」を書いたわけは?
 閑人とはいえ、なんで三冊目も読んだのか。それは「紀貫之は何が目的で土佐日記を書いたのか」という素朴な疑問の答えを知りたかったから。それで本書をひもといたのでありますが、学者が寄ってたかって研究したのに「よう、わからん」のが本書で得られた答えでありました。
 そもそも、紀貫之自身が女のフリして「男もすなる日記といふものを、女もしてみむ、とて、するなり」と、もったいぶって、ミエミエのウソをついて書かねばならない事情とは何だったのか。


単細胞駄目男は「女のフリして書くなんて、いちびりとちゃいまっか」と単純に考えたのでありますが、これが正解なら、世に学者、研究者はいらんでせう。しかし、100%、ハズレではない。動機の5%くらいは「いちびり」の可能性があります。


紀貫之の名を知らぬ人はいないにしても、当時の宮廷ではB級貴族だった。年をとってから、四国・土佐を治める支店長になり、なんとかソツなく仕事をこなして本社(平安京)へ帰任する。その、土佐から都までの船旅の様子を記したのが「土佐日記」。女のフリして書いてるので、ひらがな交じりだけど、文脈から実は男が書いたこと、簡単にばれてしまう。本人もそれを承知で書いたふしがある。


各論を読んで、そこそこ納得できるのは以下の説であります。当時は男が日記をつけるのは普通のことだった。しかし、それは一部のA級貴族に限られ、書く内容も宮廷の業務に関することに限られ、私的なことを日記として書き留めることはなかった。文章は当然、漢文で書かれた。


よって、紀貫之が公人として旅行記のような内容を日記に残すことはアウトであります。しかし、書きたい。しかも、単なる旅日記でなく、日記というフォームに託して自前の歌や「歌論」を書きたかった。これが本来の目的である。う~む、ならば、紀貫之の名前を消し、女のフリして書いてみるか。ものすごく単純に記すとこんなことになります。


かような案配で、紀貫之はリアルな旅行記を書く気がなかった。だから、自然の描写や、航海の苦労、同乗者の人物描写などの記述はすくなく、分かりにくい。それでも、土佐から都近くまで、小さな船で55日もの日数をかけた船旅の辛さは想像できる。まして、季節は真冬なのだから、
寒さに耐えるだけでもいかに難儀だったか。

◆土佐日記ツアーを企画したら?
 いつぞや、豪華客船のことを書きましたが、土佐日記で利用したのはどんな船だったのか。これも興味があります。紀貫之は船の構造など何も書いていないけど、想像すれば、全長は十数メートルの船で、航海は「櫂を使う」「帆を張る」「ロープで引っ張る」を組み合わせて進んだらしい。ロープを使うのは海や川の浅いところで櫂を使えず、帆も張れないところは乗組員が陸に上がって、えんやこらと引っ張った。海路をゆくには何ともお粗末な船であるため、55日の行程のうち、いわゆる「順風満帆」ふうに航海できたのは数日しかなかった。


日記に記された地名によって、船の航路はほぼ特定できる。とにかく、陸から離れ過ぎると遭難のおそれがあるから、へばりつくように進んだ。高波を恐れて、同じところに五日間も停泊したこともある。また、占いによって「×」の日は天気に関係なく航海をやめた。最後のコースは住吉から旧淀川を山崎まで遡るが、これに一週間くらいかかっている。これは波風が怖いからではなく、冬の渇水期で淀川の水量が減り、船底が河底につかえて進めなかったから。この様子からも船のサイズが想定できる。


古典文学の素養皆無の駄目男にとっては、文学的興味より旅そのものへの興味が大きい。「土佐日記」が生まれてから1000年後のいま、この旅を一泊二日か、二泊三日くらいの旅にアレンジして再現したら楽しいのではないでせうか。100トン~の船を使い、泊まりは、淡路・洲本と大阪・天保山(船を乗り換えるため)ゴールの山崎は接岸できないので枚方にします。参加者は「土佐日記」を通読した人に限る。終了後に各人が「平成楽ちん土佐日記」を記せば、ユニークな思い出になるかもしれません。(2010年5月 東京堂出版発行)


土佐日記の航路
土佐日記 


こんな船で航海したのか。帆柱は倒してある。(北野天神縁起絵巻)

tosanikki


土佐 


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