読書と音楽の愉しみ



●井上章一著「京都ぎらい」を読む

 9月末に発行、11月末には6刷なので、結構売れてます。帯に「千年の古都のいやらしさ全部書く」とあるのがインパクトになってるようで、なかなか上手いコピーです。そして、中身もイヤミ満載でした。


著者、井上氏は京都のはずれの嵯峨で生まれ育ち、仕事でも京都を離れることがなく、もっかの住まいは宇治市。つまり京都人であります。
 なのに、なぜそんなに京都ぎらいなのか。そのワケをいろいろ書いてありますが、根本は洛中人の洛外人に対する差別意識です。要するに、洛中以外の出身者、生活者は京都人を名乗る資格がない田舎もんと差別扱いされている。嵯峨野や宇治や伏見に住んでる人は京都人を名乗る資格ナシ、みんな田舎もんやと。


著者が、かくも激しい怨念を抱くのは、若い頃、京大の大先輩である、杉本秀太郎氏(仏文学の権威)や梅棹忠夫氏(文化人類学者)から直に見下げられた経験があるからです。むろん、井上氏個人に対する悪意ではなく、ナチュラル?な差別意識による言葉だった。それだけ根が深いということになります。

 
では、洛中人とはどこに住む人なのか。具体的に言うと、中京区の全部、上京区の一部、右京区の一部、左京区の一部・・要するに昔の洛中、道路が碁盤の目になってる中心部とその周辺少しが現代の洛中人を名乗れるエリアです。祗園なんか、ハズレすれすれの位置になります。


駄目男の解釈を加えれば、ピュアな京都人とは、祇園祭に係わってる人たち、と言えます。伏見や宇治の人が祇園祭に係わることはない。(アルバイトは別です)わしらが、千年の都を守る、守ってきた、という土着人の自負や誇りが優越感になり、ヨソ者を見下げるようになった。
 しかし、現実は土着人だけでなく、ヨソ者がいっぱい住んでいる。近所どうしでもめないのか。差別意識を露骨に表すようではピュア京都人の資格なしであります。そこんところの間尺の測り方もトレーニングされている。その象徴がよく知られた「ぶぶ漬け」かもしれないが、京都人のイケズは他府県人にはなかなか分かりにくい。


十数年間、かなりピュアな京都人のつくる「K」という会に在籍していたときは、少数派の新米京都人の愚痴をよく聞いたものでした。駄目男が唯一の大阪人(ヨソ者)だから話しやすかったという事情があります。新米京都人と言ったって、10年前に越してきた、なんてのではなく、明治時代半ばに祖父が若狭小浜から移住してきたTさんが、町内会では未だにアウトサイダーであること、というような愚痴です。この伝でいえば、たとえば、東京都民の9割は田舎者になるでせう。


28頁に書いてある話が面白い。著者はある酒席で三十過ぎた独身女性と知り合った。中京で老舗を営む大店の令嬢であるが、三十過ぎると結婚相手のレベルがだんだん下がってくる。著者は彼女に「では、どんな縁談がくるようになったのか」と尋ねる。すると、こんな返事が返ってきた。

 「とうとう山科の男から話があったんや。もう勘弁してほしいわ」
経済的な水準が下がったというのではない。地理的な条件が落ちたのだという。嵯峨生まれを見下げられていた著者は彼女の一言で落ち着きを失った。なじるように問い糾した。「山科のなにがあかんのですか」


これに彼女がなんと答えたか。「そやかて、山科なんかいったら、東山が西の方に見えてしまうやないの」この意味、関西以外の方には分かりにくいかもしれない。東山は洛中の東にあるから東山なのであって、それを西側に見るなんて耐えられない、ということだ。相手の人格や収入より、東山を東に望めない場所に住むことがアウトだという。笑ってしまいますか? でも、彼女は100%本気です。JR京都駅から5分、東山トンネルをくぐった次の駅が山科。そこは洛中人には耐えがたいド田舎なのです。


他にも、坊主の芸子遊びなど、悪口がいっぱい書いてあって、当事者が読めばムカつくこと多々でありませう。むろん、嫌われること覚悟の上で書いている。巻末には「七は「ひち」である」と今どき「しち」と読ませることへの不満を述べ、これを聞き入れなかった出版元の朝日新聞社に噛みついている。しかし、陰険にならないところが著者のキャラクターで、文句タラタラであっても告発本ではなく、あくまでエッセイ仕立てであります。(2015年9月 朝日新聞出版 発行)


京都きらい



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