ウオーキング・観光



●長崎ぶらぶら 2泊3日 ~その3~ (3月11日)

「島原大変肥後迷惑」の町を訪ねる
 今回、島原に来たのは、200年前に起きた大災害「島原大変」の町を訪ねて見たかったからです。火砕流よりもっとえげつない「山体崩壊」が起きて、先年の東北大震災に匹敵するような人命被害が起きました。噴火している火山が危険なことは誰でも分かります。しかし、噴火などしていない町の裏山が、ある日突然山頂から山麓まで一気に崩壊するなんて想定外もいいところです。

 大阪近辺に置き換えていえば、六甲山が山頂から突然崩壊して、御影~芦屋の街があっという間に埋まってしまい、海へなだれ込んだ土砂が津波を起こし、大阪湾対岸の岸和田や泉大津の市街地が津波に呑み込まれて全滅・・という、コワーイ光景になります。


Wikipediaの解説を抜粋して引用すると・・・
 1792年(寛政4年)群発地震が収まりかけたかに見えた5月21日の夜、2度の強い地震が起こり、眉山の南側部分が大きく崩れ、3億4000万立方メートルに上る大量の土砂が島原城下を通り有明海へと一気に流れ込んだ。眉山崩壊の原因については、眉山の火山活動によって直接起こったものか、雲仙岳の火山性地震によって誘発されたものであるかは、現在でも定かではない。


山体崩壊で大量の土砂が有明海になだれ込んできた衝撃で10メートル以上の高さの津波が発生し、島原の対岸の肥後天草にも襲いかかった。大量の土砂は海岸線を870メートルも沖に進ませ、島原側が高さ6〜9メートル、肥後側が高さ4〜5メートルの津波であったと言う。肥後の海岸で反射した返し波は島原を再び襲った。死者は島原で約10,000人、対岸の熊本で5,000人を数えると言われている
 肥後側の津波の遡上高は熊本市の河内、塩屋、近津付近で15〜20メートルに達し、三角町大田尾で最高の22.5メートルに達した。島原側は布津大崎鼻で57メートルを超えたとの記録がある。(引用終わり)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E5%A4%A7%E5%A4%89%E8%82%A5%E5%BE%8C%E8%BF%B7%E6%83%91




有明海をはさんで左が島原、右が津波に襲われた肥後(熊本)
島原大変 


左奥が平成新山、右手前が山体崩壊した眉山。崩壊の跡がよく分かる。平成新山の大火砕流では眉山が壁になって、島原の町は直撃を免れた。
タイヘン 



青い線で囲んだ部分が崩壊。ピンク部分が土砂でできた土地。黄色は流れ山
タイヘン 



眉山を正面から見たところ。町並みは崩壊、流出した土砂の上につくられた。
タイヘン 



小さな島は、土砂が流れ込んでできた小山。流れ山という。海の浸食作用でだんだん小さくなっている。
タイヘン 



島原城の隣に市立図書館があるので寄り道すると、島原大変当時の古文書の展示会をやっていたので撮影させてもらった。下の図は、山の崩壊した様子と山麓や海に散らばった「流れ山」を描いている。
タイヘン 



この図は、平面と立面を一緒に描いてるのでわかりにくいが、ダークブルーは海岸線で、土砂が海になだれ込んだ様子を描く。中央下の長方形は島原城の外殻である。この大災害でも島原城は直撃を免れた。
タイヘン

200年の間に二度の大災害に見舞われた島原。しかし、今、現地を訪ねると「保存現場」を除いては災害の痕跡を見つけるのは難しいくらいです。平成新山の大火砕流の後は、もう復元が絶望ではないかと思うくらいの惨状だったのに、土石流の跡は徹底的に土砂の排出、川の浚渫が行われて、何事もなかったのかとカン違いするくらいです。

 自然の破壊力はすさまじいけれど、人間の復元力もスゴイものだと感心します。こんなにエライ目に遭わされて、だからとこの故郷を捨てて移住した人がどれほどいるのか。ほとんどいなかったのではないでせうか。災害は怖いけど、恵みも魅力も大きい土地なのでせう。





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