閑人帳



●第24回 上方歌舞伎会鑑賞

義経千本桜から
下市村椎の木の場・鮨屋の場

 ふだんは捕り手役や通行人など端役を演じてる無名に近い役者が、この会だけは主役になれる・・というので、当然皆さん張り切っています。 厳しい稽古のお陰で芝居の運びはスムース、セリフをとちったりする凡ミスはありません。普段はセリフなどない端役だから、舞台で喋ること自体が非日常的体験であり、同時に大変なプレッシャーになります。


毎回、皆さん、本当に一生懸命の姿勢が表れて、これだけで拍手したくなります。一流役者とそっくりに演じて、素人目には全然引け目を感じない。だったら、もう完成された演技者なのか、というと、そうではないのですね。何が違うのか、といえば、あいまいな表現になりますが、オーラのある無しだと思います。理屈では説明しにくい「差」です。


天性の資質と経験の積み重ねによって醸し出されるオーラ。立ってるだけで絵になるのはこのせいでせう。べつに歌舞伎に限らず、アーティストのすべて、また、政治家や学者でもこれを発揮できる人が一流です


さて、本日のメイン「鮨屋の場」ですが、何度も見たけど、最後の場面、いがみの権太が父親に刀でブスリと腹を刺されて死ぬところ、くどくど長い台詞が続いて「ここんとこ、なんとかなりません?」と言いたくなります。話を作り過ぎて今までの顛末がややこしくなり、それを死に際の悪人に解説させるのですが、いかにも長い。せめて5分くらいで終えて死んでほしいのに、20分近くかかるので閉口します。


しかし、これは脚本の不出来だという声が無いので、江戸時代からずっと踏襲しています。古いファンは納得でせうが、若い人には退屈な長台詞にしか聞こえないでせう。むしろ、簡略化して浄瑠璃で語らせたほうが良いのではと思ったりします。


・・と、まあ、こんなことグチグチ書いても歌舞伎に無縁な人には、それこそ余計な言いぐさにしかなりません。(8月24日 国立文楽劇場)



上方歌舞伎







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