●泉鏡花著「高野聖」を読む
恥ずかしながら、泉鏡花の作品をよんだことがなかったので、文庫本を借りて「高野聖」と「義血侠血」の代表二作を読む。明治時代の作品だから、当時の常として全文ルビつき、但し、本書は、かな遣いは現代という編集であります。ルビ付きにすると、なんだか目がチラチラして読みにくいけど、それでも「まんま現代文」で読むよりずっと味わい深い。
読む前は、単純に泉鏡花の作風はロマンチック・・と思い込んでいたけど、読めば、二作品ともロマンチックを通り越しておどろおどろしく、中身の濃ゆ~い幻想文学作品でありました。当時にこんな強烈な個性をもった作家がいたことに驚いた次第です。この作風を駄目男は支持しますが、純粋に文学の見地からみれば、ややキワモノ的な見方をされるかもしれません。
「高野聖」
修行中の僧が飛騨の山奥の滅多に人が通らない難路を進むと、待ってましたとばかりに大量の山蛭が僧を襲う。まるで雨が降るように蛭が降ってきて彼の全身にまといつき血を吸う。その描写がすごくリアルで、蛭にやられた経験がある人ならもうムズムズ、チクチク、たまらん不快さを思い出すでせう。僧は必死のパッチで通り過ぎ、命拾いした。その先で一軒家を見つけた。そこにはこんな山奥にはありえない妖艶な美女と白痴の男がいた・・。ここからが本筋で、幻覚なのか、リアルなのか、なんともいえない、わやわや風の展開になるのであります。
「義血侠血」
そうだったのか、この作品は・・。なんだか東映映画みたいなヤクザっぽいタイトルでありますが、これぞ、あの新派の代表作「滝の白糸」の原作です。これを書いた当時、泉鏡花は尾崎紅葉の門下生だったため、紅葉は「ここはあかん、ここも変えな」といっぱい添削をして原作のイメージと違う作品になってしまった。ゆえに、世間では、尾崎紅葉作「滝の白糸」で知られる作品になった。さらに、この「滝の白糸」というタイトルは当時、有名だったエンタテイナー、川上音二郎が勝手につけたもので、これで芝居化し、大ヒットしたので世間に定着してしまった。尾崎センセは川上にイチャモンつけたけど、まあ、どっちもどっちです。(滝の白糸は、水芸人の芸名)
本書は原題である「義血侠血」で書かれているので内容もオリジナルのままかと思いきゃ、そうでもないらしい。ラストシーン、検事の村越欣弥が自殺する場面で、泉鏡花の原作はあまりに凄惨で舞台上演が難しい?ため、ごく普通の自殺に変えられた。その文章で描かれているので、これは尾崎紅葉が書き換えた文になります。なんか、ややこしいなあ。(文庫版 昭和29年 角川書店発行)
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本文のはじめに、この時代の作品はルビつきの古い文章を読んだほうが味わい深いとかきましたが、本書の一頁を紹介します。滝の白糸が金持ちの老夫婦を出刃包丁で殺害する場面です。ルビがなければ読めない単語がたくさんあります。
3行目の頭の「渠」は「彼(かれ)」と読みます。男女共通で「かれ」です。5行目の「こはそもいかに」の漢字表現は生まれてはじめて見ました。こんな難しい字をつかうのか、と感心。