FC2ブログ

犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
****************

71) 床屋

 我が家の隣りのブロックにある「床源」さんが行きつけの床屋さんだった。床屋へ行くのは大嫌いだった。何しろ痛いのだ。床源さんが下手なのか、それともバリカンの切れが悪いのか、しょっちゅうピッピッと髪を引っ張られる。当時のバリカンは勿論手動式で、ぐっと握って髪を切り、緩めるとバネで元に戻る式のものだったが、それの何処が悪いのか兎に角痛くて嫌がるので、床屋へ行くたびに後で玩具を買って貰う事になった。全くどちらが高くついたか知れたものではない。


所でバリカンは英語かなと思って辞書を見るとフランスのメーカーの名だった。ホッチキスと同様である。こちらもメーカーの名前で品物の名はステイプラーである。この事を知らなかった日本人の留学生がホッチキスを買うべくホッチキス、ホッチキスといくら言っても通じなかったという笑い話だか苦労話だかがある。いやこれは余談でした。

戦前の床屋の店構えの例
道明 床屋

(72) 電話局・郵便局

 局番がある以上何処かに電話局があるはずだが、さて何処にあるのか何をしているのか現実に見る事はない。以下は局番もダイヤルも無かった時代の話。勿論、電話がある以上、番号はあった。我が家のそれは271番だった。そして我が家の西隣が一つの棟を真ん中で仕切って我が家側が電話局、向こう側が郵便局だった。


電話を掛けるには、受話器を取って出てきた交換嬢に話したい相手方の番号を言うと繋いでくれる。町外にも掛けられたのだろうが掛けた事も掛かってきた覚えもない。その電話局の前を通った時、偶々窓が開いていて中が見えた事があった。数名の交換嬢がコードのような物を持ってうろうろしていた。大きなボードのような物も見えたが、一体何をどうしているのやらさっぱり分からなかった。


さて郵便局。説明の要もないようだが、まだ貯金も扱っていたとだけ言っておこう。私の関係するのは貯金だけ。貯金を始めると通帳がもらえる。お金を持ってゆくと通帳に年月日と金額を書いて朱印を押してくれる。その朱印貰いたさに毎日一銭ずつ持って郵便局に日参した。仮に五銭持っていても一度に貯金せず、一銭ずつ五回に分けて貯金した。朱印も欲しかったが窓口が感じのいい青年で近所の子供たちの間でもなかなか人気者だった。というのも、子供らが「蛸の真似して!」とせがむと別に嫌がりもせずに口を尖らせて真似てくれる、その様が本当に蛸によく似ているので忽ち「蛸さん」の愛称で有名になった。なぜか西巌という名前まで知ってしまった。残念な事に戦争(日支事変)が始まると程なく召集令が来てその後は音信不通である。戦死などせずに無事に帰国して欲しいと願うのみだ。


手動交換式の電話局。戦後しばらくはこのシステムが続いた
道明 昔の電話局




スポンサーサイト

プチ・ケチの研究


●効果ある?・・レジ袋の有料化

 環境問題という視点から、政府はレジ袋の有料化を義務づけることを考えているらしい。消費者の反応は賛否なかば、または有料化賛成がやや多いという感じです。また、スーパーでレジ袋を有料にしたら、マイバッグの持参者が7割くらいに増えて削減の効果があるという。本当に有料化イコール石油資源の節約、環境問題への貢献があるのでせうか・


単純に考えれば,効果アリですが、レジ袋が無くなれば、消費者はこれに代わる「ゴミ袋」を用意する必要があります。調査では、レジ袋をゴミ扱いして捨ててしまう人はほとんでいなくて、95%くらいは生ゴミなどのゴミ袋として再利用している。ならば、レジ袋に代わるゴミ袋を購入する必要がある。無料レジ袋-有料ゴミ袋の差が本当の節減量になります。


なかなか計算しにくいかもしれませんが、この本当の節減は環境問題に貢献云々といえるほどの量になるのか、疑問です。大巾に節減出来るのなら関連業界に売上げ低下で倒産続々の状況が生まれるはずですが、そんな気がしない。そもそも、打撃を受けるメーカーからレジ袋有料化反対の声が上がっていないし。業者にすれば、売り先が流通業者から消費者へ変わるだけで、売上げの大巾減少への危機感なんかもっていないのではないか。


レジ袋有料化による逆効果も懸念されている。その一番は万引きの増加。マイバッグ持参が普通になれば確実に増える。この被害額はレジ袋削減効果より大きくなるかもしれない。これを防ぐために警備員や監視カメラを増やさねばならないが、これは全部店の負担、政府は知らん顔です。店の従業員の負担も増える。特にコンビニのレジ係は憂鬱でせう。お客にいちいち「レジ袋つけますか」と確認しなければならない。要る、と言われたら金額を追加する。客もレジ係も鬱陶しい。セブンイレブンの社長さんは有料化に取り組むと述べているが、ぜんぜん現場のこと分かってませんね。


コンビニ店が客にマイバッグ持参を奨励するのは万引きを勧めるのと同じだから、レジ袋有料化なんてなんのメリットもない。・・というわけで、スーパー、コンビニのレジ袋を100%再利用している「プチ・ケチ研究」家、駄目男は有料化に反対であります。

レジ袋








犬町・猫町情報



●マレー沖海戦の美談は報道されなかった?

 10月17日掲載の「(69)余談・・マレー沖海戦の知られざる美談」について、なぜ、当時の日本人が知らなかったのか、新聞を調べた限りでは、記事が見つからなかった。(調べたのは朝日新聞と各社の総合縮刷版だけ)。英国の戦艦を撃沈したのが12月10日、弔いの花束投下が18日なので、この日以後、年末までの記事を調べましたが、美談のニュースはなかった。しかし、12月26日の朝日新聞記事で、香港において英国の将官が降伏を申し出たので、日本軍関係者は彼を丁重に遇し、ペニンシュラホテルに宿泊させた。これはわが軍の武士道精神による処遇云々、という、海戦とは関係の無い事案での報道があります。


海戦の美談が無視されたのは、そもそも記事にするほどの「事件」ではないという記者の判断かも知れませんが、それより、新聞各社の当時の戦意高揚をあおる記事の羅列を見ると、敵国人に哀悼の意を表すようなヤワイ出来事を報じる雰囲気がなかったという印象です。よって「報道しない自由」を発揮した・・と書けば、これは現代のマスコミにもきっちり当てはまる。自社の思想に合わない事案は報道しない、ということです。


美談


当時は、軍事政権とマスコミは一心同体といってもよいくらいの身内意識があって、軍政に対する批判など一切しなかった。むしろ、マスコミが積極的に戦争を煽ったというのが正しい。この戦争礼賛の報道は各社の販売部数のアップにとても効果があったので、ブレーキがかからなくなってしまった。大げさな見出しは今のスポーツ新聞のセンスと同じです。大本営発表のデータがウソと分かっていても、知らん顔して記事にした。仮に、勇気を出して、正しい、客観的事実の報道をすれば「国賊」呼ばわりされ、何より読者の契約打ち切り=部数減が怖くてできない。


下の「軍用機献納資金」 記事は、朝日新聞社の発案で、軍用機(戦闘機や爆撃機)の量産をバックアップするために、新聞社が国民から寄付金を募った、という話。日米開戦の4年前からスタートさせたのだから、ハンパなゴマスリではありません。現代に置き換えたら、自衛隊が最新型の戦闘機やオスプレイをたくさん調達できるように、新聞社が国民から寄付を募って政府に寄付するという話になります。信じられないでしょうが、ホントにあった。この記事では,最高一万円から、下は二十銭までの寄付者の名前が掲載されている。こんな新聞社が当時の軍事政権を批判する資格があるのか、笑ってしまいます。


美談




犬町・猫町情報


小学生時代の思い出    作:DH
****************

(70) 風呂屋

 風呂屋。銭湯ではない。あれは東京語。我が家から半町ほど西に、みんなが「ちょうざ」と言っている風呂屋があった。どんな意味か、どんな字を書くのか未だに分からない。小さい時「うかじのばあ」(よく遊びに行った家のお婆さん。多分その家の屋号が宇賀治だったのだろう)に連れられてこの風呂屋へ行った。勿論、女湯の方だ。これは子供にとっては災難だった。なにしろ湯船に入ったら百まで数えろと言う。年寄りはなかなか温まらないが、子供は違うという事が分らないらしい。五十も数えればこちらはもう充分茹だっているのに、まだまだと言う。七十、八十となってくるともう地獄の責め苦である。それでも出させてくれない。やっと上がってからも耳の後ろやら足の指の間まで、それこそ徹底的に洗われる。もう勘弁だ。


もう少し大きくなると、一人で今度は男湯の方に行く。何をするかと言うと、まず眼を閉じ息を詰めてズブズブと湯船の底まで沈み、しゃがみこむ。息がつづかなくなってプアーっと湯から出ると今度は湯船の縁の腰掛に坐って何をするでもなく、ぼやーっとして過ごす。それで終り。まず洗わない。これで家を出てから帰るまでが約30分。いつもこんな具合だった。


この風呂屋は割と大きな風呂屋で、真四角な浴室の真ん中に真四角な湯船があり、浴室の床も浴槽の縁もすべて花崗岩作りというと、すごく豪華に聞こえるが、惜しい事に湯が汚なく、白く濁っていて底が見えない。理由もはっきりしていて、いつも湯船の七、八割しか湯を入れないからだ。しかし、風呂と言えばそこしか知らないから別段汚いとも思わず、こんなものだと思っていた。大人たちも文句も言わずに入っていたから、恐らくほかの風呂屋も似たり寄ったりだったのかも知れない。風呂代は小人で2銭。餡パンも2銭だったからよく覚えている。


風呂屋のイメージ
道明 風呂屋 






犬町・猫町情報



●11月例会 ご案内
 
イラスト 梅本三郎

10月中旬 九州 九重の法華院温泉にて
 「何と読む モミジの天ぷらか 紅葉か」

イラスト11月2018  



********************

西除川ウオーキング 第2回  (担当 小西)

■11月1日(木) 雨天の場合2日(金)
■集合・・・10時40分 近鉄河内松原駅 改札口 
 参考ダイヤ・・阿倍野橋発10時24分
                    河内松原着10時33分
                    橿原神宮行準急 料金260円
 駅から10時48分発バス「松原市民運動場前」下車
■コース・・・市民運動場(T)~法雲寺~大池公園(昼食・T)
       ~北野田駅 約7キロ 平坦路 弁当持参要

***************************

第1回コースから、南さんのスケッチ<北新町大池公園風景>
南さんスケッチ 

***************************
以後の予定
第3回 11月15日(木) 雨天16日(金)7,5km
第4回 11月29日(木) 雨天30日(金)9,0km
***************************

くちまめ例会
■11月8日(木)予定
 プランは追ってお知らせします。


     


読書と音楽の愉しみ


●大越哲仁著「マッカーサーと幣原総理」
  
~憲法九条の発案者はどちらか~ を読む

 以前から興味をもっていた問題に答えてくれそうなこの本に出会い、さっそく読み始めるも、まあ、なんとややこしい話であることよ。3頁読み進んでは1頁後戻り・・という感じで、これは著者の文章力が拙いせいではなく、語られる問題が複雑すぎるせいであります。どの時点で、誰がああ言い、其れがこう言う、さらに別の某はかく言った・・と、そこは混乱しないように書かれているのですが、それでも頭がこんがらがってしまう。


そんなゴチャゴチャは全部端折って著者が言うのは「憲法九条は幣原総理の発案である」という説であります。かなり説得力があります。マッカーサーとの交渉をそばで見ていたような書きぶりのせいでもありますが。ところが、この説にどっこい待ったをかけた人物がいる。それが幣原総理の長男、幣原道太郎なのだから、ガチョーン(ふる~~)であります。これじゃ話が前へ進まない。


半分くらい読み進んで、ようやく九条発案の輪郭が見えてきた。幣原総理が憲法案づくりにおいて一番頭を悩ましたのは天皇の位置づけだった。戦勝国の中には天皇は有罪である、処罰するべきという意見があり、この要求を呑まされると日本の歴史がひっくり返り、大混乱に陥る。で、これだけは避けたい。そこで、天皇は象徴として権力から離れ、憲法で国民主権を謳う。その代わり、戦争に関わる問題では武力放棄をうたい、世界に前例のない非武装国として再出発する・・。この国民主権と非武装の考えはマッカーサーの要求に十分応える内容である。もう一つの要求、華族制度の廃止も受け入れた。


つまり、天皇の存在自体を守るために、平和を謳う思想は自虐精神満点の、諸外国に土下座するようなへりくだった案をもってマッカーサーと会談した。終戦後、まだ日本への憎悪、侮蔑の感情に満ちていたマッカーサーとの交渉が対等であるはずがない。日本を、二度と白人社会に刃向かわせる国家にしないために叩きのめす、との思いは欧米すべての国に共通する感情だった。


著者のこの説によれば、憲法案に関する重大な交渉を幣原総理一人で交渉したことになる。当時の録音やメモがないので、実際はどんなやりとりがあったのか分からない。しかし、この交渉のあとでGHQが憲法の原案をつくり、これを議論して憲法案がまとまってゆく。
 日本には再軍備させない・・という強い意志で支配を続け、憲法九条に戦争放棄をうたわせたたマッカーサーだが、なんという皮肉か、数年後に朝鮮戦争が勃発すると、一転して日本に再軍備を要求した。以後、九条は空文化してまもなく70年になる。(2018年 大学教育出版発行)


マッカーサー 


<参考>憲法第九条
一項・・日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二項・・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。




プチ・ケチの研究



●冷凍庫が満員

 調理の手間を省くため、使い残しのムダをなくすため、冷凍保存を増やすうちに冷凍庫が満員になり、逆に冷蔵庫はガラ空きです。誰かに聞いたところでは、この状態のほうが電力消費が少なくて済むそうなので、満員御礼でいいかと。しかし、大型の冷蔵庫でこれをやると、どこに何をしまったのか忘れてしまうかもしれず、かえってムダが生まれるかもしれない。10種類くらいが目が行き届いて良いかも、と勝手に納得しています。年中絶やさないのは「枝豆」。


かぼちゃ
冷凍野菜


ブロッコリー
冷凍


ニンジン
冷凍


砂ズリ(砂肝)のコリコリ感が好きで常備品です。5分ほど茹でて保存。丼ものにも使います。
冷凍 


出汁は「ヒガシマル」の「ちょっと どんぶり薄口」を愛用
冷凍 





大阪日暮綴


●巨大物流センターを見学

 Mさんの案内で茨木市にあるヤマトグループの物流センター「関西ゲートウエイ」を見学しました。宅急便の集配の要になる最新型の施設です。敷地が無茶広いと感心したら、そこはかつての松下電器テレビ工場の跡地でした。ヤマトが使う敷地が6万4000平方メートル、隣接して同じくらいの広い土地をアマゾンが使っています。


見学者用の施設がはじめから整備してあって、ガラスで遮断された空間から、装置の一部を見ることができます。専門のガイドさんがわかりやすく説明してくれます。私達がなにげに送ったり、受け取ったりしている宅急便の荷物がここで仕分けられている。とにかく、最高の効率、スピードを追求しての設計だから、見ているだけで目が回りそうです。物流倉庫というより、ハイテク工場のイメージ。


昔昔は、配達先のコード番号(数字)をプリントしたシールを、目で見分ける、それが進歩してハンドスキャナーで読み取るというシステムでしたが、ここでは、ベルトコンベアを流れるなかでセンサーが読み取り、それぞれの行き先のエリアのベルトコンベアに仕分けます。そのスピードがすごい。本線から支線へ、また、支線から本線へ合流するときは、あまりスピードが早いと荷物が振り落とされてしまうのですが、そこが、合流、分流する、ほんの一瞬だけ減速する。さらに、荷物がベルトの中心からずれると、それを判断して,一瞬で真ん中へ寄せる。大きな段ボール箱も、A4サイズの封筒もしっかりベルトの中心へ置かれます。


では、どんなモノでもこの高速コンベアで処理できるかというと、それはムリで、スキー道具やゴルフバッグはサイズ的に無理だそうです。(別扱いになる) もう一つ驚いたことは、電化製品などの修理を引き受けていることや、医療器具の洗浄など、輸送とは直接関係ない仕事を取り込んでいることで、メーカーとユーザーの間を往来しては時間の無駄が生まれる。だから、中間の輸送業者でこの仕事を増やして収益を増やす。付加価値を高めるのが狙いです。モノを運ぶだけが仕事ではないのです。(10月16日)


関西ゲートウエイ
ヤマト運輸








犬町・猫町情報



(69)余談・・マレー沖海戦の知られざる美談

 太平洋戦争の緒戦にマレー沖海戦がありました。海戦と言っても、イギリスの東洋艦隊の主力である戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と「レパルス」の二隻を日本の航空隊が襲撃して撃沈したもので、実際には空対海の戦闘でした。「レパルス」は老朽艦でしたが「プリンス・オブ・ウエールズ」は最新鋭艦で、世界一の海軍国と自負しているイギリスが「不沈戦艦」と豪語していたものだけに、そのショックは大きかった筈です。


さて、沈められた2艦の生き残った乗組員がボートで救助を待っている所へまたもや日本の航空機がやって来たので、てっきり生き残りを目当ての機銃掃射のためと慌てふためいていた所、沈められた両艦の跡へ花束を投げて帰りました。この事が英米人の間に「日本に武士道精神あり」と称揚され、美談として語り継がれて、今でも大抵の英米人なら知っている話だと、在米久しい私の長男が会社の仲間から聞かされ「お前知ってるか?」と問われて「知らないよ」と答えたら「そんな事信じられない」と言われたと。以上は久しぶりに日本に立ち寄った長男から聞かされた、誠に結構な話ではあるのですが、こんな結構な話を知らぬは日本人ばかりなり、では何とも癪な話なので、一つ「快道・・」ででも紹介して戴ければと思った次第です。

************************************************

 駄目男がこの美談の真偽を調べたところ、長男さんの話とは小さな差異はありますが、真実でした。「マレー沖海戦」でぐぐって見ると、たくさんの情報が出てきます。しかし、DHさんのように、ほとんどの日本人は知らず、むしろ、敵方だった英米人のほうがよく知っている。その理由は恐らく、当時のマスコミの判断のせいではと思いますが、後日、裏付けの調査をしてみます。まず、この花束投下事件のあらましを井上和彦氏の文で紹介します。(青色文字)


英艦隊壊滅後にみせた日本海軍航空隊の“武士道” 
  《私は独(ひと)りであることに感謝した。戦争の全期間を通じて、これほどの強い衝撃を受けたことはなかった》 英国のチャーチル元首相は戦後、著書『第二次世界大戦回顧録』で、マレー沖海戦の大敗北をこう回想している。

 1941年12月10日、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は、マレー半島東岸のクワンタン沖で、日本海軍航空隊75機によって撃沈された。英東洋艦隊は開戦3日目で壊滅したのである。この海戦に世界中が震撼(しんかん)したのは、世界で初めて航空機が高速航行中の戦艦を沈めたからだった。米国は3日前に自ら体験した“真珠湾の悪夢”が、単なる偶然や奇跡でないことを思い知らされた。


マレー沖海戦は、日本海軍のパーフェクト・ゲームだった
 参加した一式陸上攻撃機および九六式陸上攻撃機合わせて75機が、英軍の新型対空火器「ポムポム砲」の弾幕をかいくぐり、高速で回避運動中の戦艦に魚雷49発を放って20発を命中させた。命中率は40・8%だった。高度な誘導武器や火器管制システムもない時代に、海面すれすれの低空で肉薄し、かくも高い命中率を記録したというのは、まさに“神業”であり、厳しい訓練のたまものといえよう。これだけの大戦果にもかかわらず、何と日本海軍航空隊の損害はわずかに3機(戦死者21人)でしかなかったのだ。


この一戦には知られざる美談がある。
 日本海軍航空隊の猛攻を受け、洋上のたいまつと化した「レパルス」に、駆逐艦「バンパイア」と「エレクトラ」が生存者救出のために急行した。他国軍ならば、この駆逐艦も沈めるが、日本軍はそうではなかった。日本軍機は、英駆逐艦に以下のように打電した。
 「ワレの任務は完了せり。救助活動を続行されたし」
次なる標的となった「プリンス・オブ・ウェールズ」が炎に包まれ、駆逐艦「エクスプレス」が生存者救助のため横付けしたときも、日本軍機は攻撃を止めて、その救助活動を助けたのだった。日本軍人が苛烈な戦場で見せた“武士道”だった。この正々堂々たる姿勢は、英海軍将兵を感動させた。


海戦後、1機の日本軍機が現場海域に飛来し、海上に2つの花束を投下して飛び去った。散華した僚機3機の乗員と、最期まで勇敢に戦った英海軍将兵と戦艦2隻に手向けられたものだった。日本海軍航空部隊は、卓越した技量だけでなく、戦場での紳士度も世界一だったのである。
(別の情報によれば、花束投下は海戦8日後の12月18日、投下したのは
海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐)

引用元
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160622/dms1606221140006-n1.htm  (ライター 井上和彦)

海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐のこと
https://ameblo.jp/zero21nk/entry-11726974646.html


戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」
マレー 


沈みゆくウエールズから救助の駆逐艦エクスプレスに乗り移る乗員。この戦いで英軍は800余名の戦死者を出した。同乗の提督と艦長は救助可能だったが拒否して艦とともに沈んだ。
マレー沖海戦





ウオーキング・観光


●ひさしぶりに「快道マップ」づくり

 「お好み散歩道」以来、4年ぶりに「西除川」コース地図を制作中。なにしろ「快道」の乏しいエリアなので、なんとかカッコつけようと苦労しています。それに、コースの区分も難しい。しかし、それだけ作りがいがあるとも言え、下見で、なんやかんや70キロくらい歩いてしまい、おかげさまで、ええ運動になりました。第1回のコース地図は、コース表示しかない未完成地図になります。

今回ははじめてA4サイズでデザインします。従来の大きな地図に慣れた人には文句言われそうです。但し、原図はA3でつくっていますので、サイズの融通(拡大)は可能です。 デジタル時代に敢えて紙の手作り地図づくり、アナログじじいのしょーもないレジスタンスです。


西除け川地図






読書と音楽の愉しみ



●有栖川有栖著「幻坂」を読む

 書店員が選ぶ「本屋大賞」にはローカル版があるそうで、本書は昨年の「大阪ほんま本大賞」を受賞した。よって、本の中身は大阪がテーマで、幻坂とは天王寺七坂のことであります。その坂ごとに短編小説を書き、別にオマケ?なのか、芭蕉の終焉を描いた「枯野」と藤原家隆の日想観を描いた「夕陽庵」が添えてある。


七坂の物語で一番面白いのは「天神坂」。死んだことになっている中年女と私立探偵がこの坂を訪れ、客席わずか五席の小さな割烹を訪ねる。「ははん、あれやな」大阪人読者の半分くらいは気づくかもしれない。この店主が浪花割烹の親方、上野修三さん。「㐂川」の元オーナーであります。一度引退して、ここにある自宅の一部を改装し、小説のように、五、六人しか入れない小さな割烹を開いた。その店のありさまが描かれる。えも言えぬ味わいに舌鼓をうっていた女は、死んだことを忘れて?生気を蘇らせる・・という話。しかし、上野さんはこの店をたたんで、今は幻坂の幻の店になってしまった。


天神坂にはもうひとつ幻の店があった。芭蕉ファンなら誰でも知っている「浮瀬」(うかむせ)であります。芭蕉ファンでなくても、この店への憧憬をもつ人は多い。現に、下の写真のように当時の絵が残されているので、もし、元祖とされるこの料亭が再現されたらどんなに素晴らしいかと夢を描く。当時の浪花の文人たちが集っての宴会風景はどんなものだったのか。料亭の跡地は星光学院が買い取り、保存しているが、非公開なのが残念であります。


この店の主が俳人という縁で芭蕉は招かれた。大勢の弟子たちに囲まれて宴会になるが、この宴の意図は芭蕉の弟子どうしの不和を仲裁するためという鬱陶しいものだった。本当は大坂なんかに来たくなかったのだ。この「義理の旅」が結果的に「死の旅」になってしまった。

この席で二句を読んだ
 
此道を行く人なしに秋の暮れ
 此秋は何で年よる雲と鳥

華やかな宴席でも体調はよくなかったが、以後、医者の手当ての甲斐もなく、下痢が続いて体力衰え、一人でトイレにも行けなくなる。死を悟ったうえで最後に詠んだのが「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」浮瀬の宴会から半月後、10月12日に亡くなった。(平成28年 角川文庫発行)


幻 


天神坂にある案内板の画像「浮瀬」
幻坂 

幻






閑人帳



●花も嵐も踏み越えて・・・

 ときどきここで紹介する田代さんが産経「朝の詩」に三回目の入選を果たしました。今月から、選者が新谷和江さんから八木幹夫さんに変わったけど、早々の入選です。早速、新聞を切り取り、数枚のコピーとともに郵送。彼女は新聞を取っていないので、駄目男が知らせないと入選が分からないのであります。


ただ今94歳。この年齢なら、八割、九割は要介護の状態が普通ですが、まあ、元気なものです。近々「おはぎ作るからおいで」の連絡ありそう。一体、何が元気のモトなのか、よく分からないけど、意地っ張り、割り切りの良さ、くよくよしない・・タイプの人。前回、訪ねたときは、昔、子育てで忙しいさなかに座右の書として親しんだのが、カール・ヒルティの「幸福論」だといわれて少し驚いた。自分は読んだことがないけど、昔々、渡部昇一(故人)が書いた「知的生活の方法」という本のなかで紹介されていたことは覚えている。本人はあまり言わないけれど、決して順風満帆の人生を送ってきたのではない。家庭が嵐のときに、縋る思いで「幸福論」をくり返し読んだのかもしれない。


前にも書いたと思うけど、この「朝の詩」には、もっとすごい先輩がいた。99歳?で詩集「くじけないで」を出版した、柴田トヨさんだ。ここで入選の常連になり、なにかのきっかけで大ブレークした。上には上がいるものです。有名、無名を問わず、表現者であるという気概が元気のモトかも知れません。


田代さんの詩 



閑人帳



●永谷園の「かに玉」をつくる

 何ヶ月か前に試したのは、イオンがどこかのメーカーに作らせた「トップバリュー」商品。今回はCMでおなじみのものを試してみました。いずれの品も「卵3ケ使って二人前」というのが煩わしい。二人前つくって半分こに分けると「あん」がうまく分けられなくて見苦しいことになる。さりとて、一人前のレシピをつくるのも難しそうなことは想像できます。要は、ある程度のボリュウムがないと作りにくいということ。


それはさておき、味はこの永谷園製のほうが優れている。かに玉の調味料と「あん」の味でイオン製より勝っています。インスタント感がないということですか。数回繰り返したら、見栄えも包装袋のようなプロっぽい仕上がりになるかもしれません。



DSCN9498.jpg 


かいたま







犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
****************

(67)泉州銘菓「村雨餅」「時雨餅」「村時雨」

 いろいろ名が出たがみんな同じものである。店によって名が違うだけの事で或は商標権の絡みかも知れない。銘菓であるかは兎も角、珍しい、それも他に類例のない珍菓と言っても良いと思う。我が家では簡単に「村雨」と言っていたので、以下そういう事にする。製法は想像だが、小豆と糯米の粗い目の粉に砂糖を加えて、大きな蒸籠で蒸しただけのものと思う。こうして 出来上がった御菓子は小豆色のそぼろ状で固めたりしていないから、やわらかく、壊れやすい。


これを手頃な大きさに(丁度 虎屋の羊羹を分厚くした程度)切って、底と上にお菓子と同じ大きさの経木を置き、竹の皮で包み、同じく竹の皮の紐で二三か所を縛って出来上がりである。食べる時は、包を開いた後、上の経木を刃物代わりにして好みの厚さに切って口にする。甘さも控えめでなかなか上品な味だ。ただ生菓子だから余り日持ちがしない。精々二三日が限度である。竹の皮はなかなか風情があるが、今は手に入らないから竹の皮の模様を印刷したビニール紙かなんかでパックされている。味気ない事だ。


和菓子の基本は餡と餅である。餅に餡を塗っただけのものが「赤福」であり、餡を餅で包んだものが「羽二重餅」である。饅頭の皮も餅の一種と見れば、和菓子の九割以上はこれらのヴァリエイションに過ぎない。最初に珍しい菓子と言ったのはこの点で「村雨」は小豆を原料にしているが餡ではない。糯米を使ってはいるが、餅でもない。「村雨」の「村雨」たる所以で、是非、皆様にもお試しをと言いたい所だが、どうも高島屋でも売ってそうもない。かと言って、これだけのためにわざわざ泉州くんだりまでご足労願う訳にも行かず、誠に残念だが、まあ幻の珍菓があるとだけご承知いただければ有難い。


道明 


(68)最中屋(もなかや)

 この記憶はかなりあやふやだが、我が家の西隣の家の角を南へ曲がって半町ぐらいの突き当りにその店はあった。重い障子戸を開けて「ごめん」と入って行くと土間を隔てて向かいの部屋に坐っていたご主人が「よう おこし。お幾らにしまひょ」と、いきなりこれだ。他の菓子を置いてる気配もないので余計な事は聞かない。「30個」と、こちらも子供の使いでぶっきらぼう。「少々お待ちを」と早速作りにかかる。とにかく一種類しかないのだから、あれかこれかと聞く必要もない。左手に最中の皮を持ち、右手に持った箆でさっさっと餡を詰めては表の皮で蓋をしてゆく。30位はあっという間で「お待ち遠さま」と出来上がった最中を箱に詰めて渡してくれる。注文生産だ。


確かにこの時点では最中の皮はパリパリで、じなーっとしけてはいないが、さて食べる時にはどうだろうか。予め作られた最中だとどうしても皮がしけがちだ。しけていないという事がそれ程大事な事かどうか鈍感な私にはどちらでもいいように思えるが。しかし、パリパリの最中を評価する人が多いと見えて 皮と餡とを別にしてお客さんが好きな時に いつでもパリパリの最中が食べられるようにして売り出した近江八幡の「たねや」が大ブレイクで[高島屋]にまで進出するようになった。但しここの最中は丸くなくかなり細い長方形である。


最中の形なんかどうでもいいようなもので、別段気にする訳ではないが、そもそも「最中」は「最中の月」から来ている以上丸いのが原型である。最近はそんな小うるさい事は言わず四角い最中も多くなった。わが町 佐野の菓子屋「むか新」の最中「いろは蔵」も四角で、しかも真ん中に縦の割れ目が入っていて二つに割りやすい。割った半分が二口で食べられる割と小振りな最中だ。それに皮が薄いので、かなりしけている。これに比べると、私の好きな「百楽」は大きな正方形だが皮が厚い所為か出来合いでも しけた感じがない。たまには煎茶で最中もいいものだ。


道明 村雨







プチ・ケチの研究


●知らなかった・・バナナを長持ちさせる方法

 毎日のように食べるのに、保存がきかないため、一房ずつしか買ってなかったバナナ。きれいに長持ちさせる方法はないかとネットで調べたら、ちゃんとありました。もっと早く調べればよかったとハンセー。


方法は簡単、バナナを一本ずつ、ポリ袋にくるんで冷蔵庫の野菜庫で保存する。これだけです。さっそく試してみました。バナナが変色しやすいのは、ナントカというガスを自ら出すためだそうで、これを防いだら長持ちする。説明ではポリ袋又はラップでくるむとありますが、これだと使い捨てにしてしまうかも知れないので、紙(古新聞やチラシ)にくるんで、さらにポリ袋に入れました。新聞の使い道発見です(笑)


結果は下の写真の通り。普通なら3~4日でかなり変色しますが、この方法では10目でもほとんど変色なしです。つまり、二房(8~10本)を買って、一日一本ずつ食べても10日は美味しく食べられます。流通、販売業者で成熟、劣化を防ぐ工夫ができたら、こんな手間はいらないし、
廃棄量はうんと減るでせう。(例えば、包装袋に劣化を遅らせるガスを注入するとか、包装後に袋の空気を吸い出して密閉度を高めるとか)
高級品ならコストアップを吸収できるので、トライする価値はありそう。・・もう、とっくにやってるかも知れませんね。


日ごろ愛用、一房4~5本で98円の安物バナナでテスト
バナナ保存


4日目(購入の翌日を一日目とする)
バナナ


6日目
バナナ


8日目
バナバ


10日目 全然問題ありません
バナナ おわり





犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
****************

(65)漬物(沢庵)

 漬物屋もあるにはあったが各家庭でも作っていた。我が家も沢庵は自作で、まず大量に買ってきた大根を軒に吊るして十数日陰干しする。いい加減水分が抜けてしわしわになってきた処で、やおら漬物樽を持ち出し、底に糠と塩をたっぷり敷く。菜っ葉を除いた大根をできるだけ隙間の出ないように首と根を交互に組み合わせて底一杯に並べる。これが一番底の段。次にそれらが見えなくなる程度に糠と塩で埋める。その上に二段目の大根をを下の段の大根とは直角になるように並べて又もや糠と塩。これの繰り返しで、全部漬け終ったところで蓋をして重石を置く。


この状態で放っておくと蓋の上にどんどん水が上がってくる。塩と重石でまだ大根に残っていた水分が出てきたものだ。この水を何回か捨てて殆ど水が出なくなれば一応の出来上がりである。但しこの段階ではまだ色も白く味も浅い。日と共にだんだん黄色くなり,やがて黄褐色へと変わり、色も味も濃くなってくる。大根そのものも小さく萎びてくる。そして、食べ終わるころにはまた新たに漬ける季節になっている。

 余談だが私どもの地方では沢庵とは言わず、「こーこ」または 「おこーこ」と言っている。極く希だが「親に孝行(こーこー)、親に孝行」と呼びながら沢庵を売り歩く人を見る事もある。
道明 たくあん


(66)なすび (=水茄子)

 昔からこの辺では「茄子」の事を「なすび」と言い慣わしている。「水なす」なんて聞いた事もなかった。それが いつのまにやら全国版の「泉州名産 水なす」と言われるようになってしまって、何だかその辺がむずむずするような、変な気がする。昔は余程の特産品でない限り流通する事が無かったから、茄子と言えば「なすび」しか知らず、茄子紺と言われるような綺麗な細長い「茄子」の実物は見た事も無く、絵で知るのみだった。その立派な「茄子」と比べると形はずんぐりむっくりで、お世辞にもいい形とは言い難いし 色も良くない 何の取柄もない「なすび」だが皮の薄いのが取柄で「浅漬け」にして食べると誠においしい。


専用の小振りの糠床に、夕方数個の「なすび」を放り込んでおき、翌朝取り出して刃物は使わず指で割いて食べる。この時は醤油ではなく「もろみ(醤油にする前の液状の味噌)」を使う。これまた甚だおいしい食べもので、これだけをおかずにして御飯をたべても、却って食がすすむ程の代物である。そんな訳で「なすび」と言えば浅漬け、浅漬けと言えば「なすび」だが、もう一つ「じゃこごうこ」という食べ方もある。これは「じゃこ」と称する地で獲れた小エビと「なすび」をかなり辛い目に味付けした煮物だが「じゃこ」がいい出汁になって、これまた一倍食のすすむおかずだ。一体に御飯のおかずには塩辛いものが適しているようで、昔は御飯と塩だけで3年過ごした剛の者も居たとか聞いた事もある。 

道明 なすび







大阪日暮綴



●全治三ヶ月の重傷・・・長居植物園

 21号台風の被害が大きくて臨時休業していた植物園が9月15日から営業再開しました。何ヶ月ぶりかで訪ねてみると、園内通路はきれいに掃除も行き届いていますが、敷地の3分の1くらいは「立ち入り禁止」になっています。倒木の片付けがすすんでいないのが理由です。全部で700本くらいが倒れたそうですが、現場で2mくらいに切り、重機で搬出するけど、搬出は遊歩道を使うので休園日しか作業できない。


そんなわけで、3ヶ月くらい・・12月はじめ頃までかかるそうです。風で倒れた樹木のうち、駄目男が一番ショックを受けたのは、大池のほとりにあるセンダンの木が根元近いところで切り捨てられていたことです。(写真参照)池端の風景をつくってきた「絵になる大樹」だったのに、無残な姿になっていました。その東となりのクヌギの大木も枝をほとんで切り落とされて坊主状態です。う~ん、残念ですが、仕方ない。


倒れ方は二つあって、根こそぎ倒れたもの、地上1,5mくらいのところで折れたもの、のいずれかですが、折れたものの方が多いかもしれない。倒れなかったけど、枝をほとんど吹き飛ばされてしまったメタセコイアやラクウショウを見ると、最大風速は50mくらいあったのではと想像します。普通に想像する「強風」では、枝が幹から吹きちぎられるなんてない。折れたのではなく、千切られた、と見えます。そして、枝が無くなってしまうことで、倒れることを免れたのではと考えました。園内では一番多いクスノキがもっとも被害が少ないように見えました。葉もしっかり残しています。なんか「打たれ強い」木なのでせうか。


紅葉が楽しめるナンキンハゼやモミジバフウは7割がた葉っぱを吹き飛ばされてしまい、今年の紅葉見物はアウトです。これも仕方ありません。
・・というわけで、長居植物園は大きなダメージを受けましたが、入園、見物にはなにほどの障害もないので、敬遠する必要はありません。屋内、屋外のカフェも営業しています。(月曜は休園です)

秋は黄葉もきれいだったセンダンですが・・・3年くらい前に撮影
センダン 


あちゃ~・・消えてしまいました。
センダン 


近寄るとこんな感じで、三主幹のうち、二本が根元からカットされた
センダン 


メタセコイアの無残な姿。枝が吹き飛ばされた。
メタセコイア 


山積みされた倒木。園内全部で4トントラックで20台分くらい?と想像。
廃材集積 


死んでたまるか・・はや、再生をはじめた木も。もしやアキニレ?
秋ニレ? 





閑人帳

 

●東山魁夷展鑑賞 ~京都国立近代美術館~

 混雑を想定して午後3時半に入館。以後、客はどんどん減って鑑賞に支障はなかったけど、まあ、この画家の人気ぶりに感心しました。外国人の姿もたくさん目についたのは京都のせいかしら。
 自分のお目当ては唐招提寺御影堂の障壁画。この作品を見るのは四回目で、二回はデパートでの展示展、一回は唐招提寺での特別公開展。正直に感激の度合をいえば、今回がビリでした。その理由の第一は照明を落としていたから。水墨画の「桂林月宵」や「揚州薫風」は暗くても気にならないが、独特のブルーが見せ場の「山雲涛声」は暗さで色が冴えない。完成当時の昭和50年ごろは今ほど照明を落としていなかった(照明による作品劣化への気遣いが少なかった)ので、あの独特のブルーが鮮やかに見られたけど、今回はくすんでしまっている。しかし、それで文句を言っても仕方ない。四回目、恐らく人生最後の鑑賞は少々期待外れにおわりました。


会場を一巡すると、小品を除くほとんどの作品は見覚えがあることに驚きましたが、これは画家のベストヒット作品を網羅するのが企画のコンセプトだったせいかもしれない。あるいは、何度も画集を見ているので、なんとなく覚えてしまっていたのかも。それに、あちこちの美術館巡りをしたさいにもたくさんの東山作品に出会っている。美術館にしたら、人気が落ちないと言う点で無難なコレクションでもあります。


それはさておき、唐招提寺障壁画を見てつくづく思うことは、霧を絵に描くことにおいては日本画の画材が最高であり、リアルに描く腕前では東山魁夷がトップでありませう。西洋の油彩は雲は描けても霧は描けない。霧の絵は、外国人鑑賞者にはかなりのカルチャーショックを与えるのではないでせうか。(10月2日) 本展は10月8日まで。


唐招提寺障壁画 「山雲涛声」
東山 

東山魁夷 


東山



************************


●プーシキン美術館展 鑑賞 ~国立国際美術館~

 「風景をありのまま描く」なんて、当たり前のことだと思うのは現代人の感覚。16~17世紀頃までの西洋絵画にそんな概念はなかった。風景は主役たる神や聖人の像の背景として、オマケ風に描かれていた。リアルである必要はなく、適当に、画家の想像で描いた・・と解説で述べています。なるほど、そういえば、あの「モナリザ」の絵だって、背後の風景はダ・ビンチが想像で描いたもので、アトリエからあんな風景が見えたということではありません。


プーシキンのコレクションの中から、フランスの風景画に絞って歴史をなぞるのがこの展覧会。なので、最初の数十点の作品は先記したように、リアルに見えても実は想像の風景を描いたものが多い。神殿が水没してる風景なんてのもある。こんな絵、誰が注文したのか、と素朴な疑問が湧きます。しかし、年月を経て風景画は商品価値を獲得します。さらに、印象派なんて新スタイルが広まると、人物画より風景画のほうがもてはやされる時代になる。シスレーやセザンヌやコロー、モネなど、おなじみのブランド画家の作品が並んで、鑑賞者はようやく「そうや、こんなのが見たかってん」と納得、エンディングに至るのであります。ヨカッタ。(本展は10月14日まで)


国立国際美術館の北隣では新しい大阪市立美術館の準備工事が始まった。
プーシキン







犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
****************

(63)腹立たしい思い出

 思い出と言っても必ずしも懐かしいもの、楽しいものばかりとは限らない。これはその腹立たしいものの一つ。何年生の時の事だったか、何とかの宮が来られるというので、その歓迎のためにみんな日の丸の小旗を持って道路の片側に並んでお迎えした。そこそこ待ち草臥れた頃、やっと宮様が見えたというので一同最敬礼の号令がかかった。頭を下げている我々の前を車が通ったような気配が感じられるまでにも可なりの時間があった。最敬礼が解けたのはそれから大分経ってからの事である。


結局、我々は長い時間を潰して頭を下げただけの事で宮様の来られる所も、また通り過ぎられた後も車の影も形も見ずじまいだった。いくら皇族だって、また、幾らこちらが子供だって、これは余りにも人を馬鹿にしている。あれから約80年も経ったいまだに覚えている位だから、あの時はよっぽど腹がたったのだろう。

 小学校時代の話はまだまだ続くが、この辺で一寸一服して目先を変え、当時の生活に話を変えてみたい。


(64) 井戸

 一日の生活は起床、洗顔から始まる。いまなら水道の栓を捻ってジャーだが昔はそうはいかない。まず井戸から水を汲み、一旦それをバケツに溜め、そこから柄杓で水を洗顔用の金盥に移す。これだけの事をしないと顔も洗えない。と、字で書くと大変煩わしいように思えるが、馴れてしまえばさしたる事でもない。


さて、井戸。勿論、釣瓶で水を汲みあげるのだが、その方法も時代と共にどんどん進歩する。最初は多分縄の先に釣瓶を縛り付けてドボンと放り込んだのだろう。次いでは竿の先に釣瓶を縛り付けたもの。千代女の「朝顔に釣瓶とられて貰い水」はこれである。その次は「撥釣瓶(はねつるべ)」。柱の上に横木を渡し、一方の端に重しを もう一方の端に釣瓶を付けたもので これだと余り力が要らずかなり楽になる。


我が家のそれは両端に釣瓶を付けたロープを滑車に掛けたもので、エレベーターのように一方が水に浸かっている時は 他方が上に上がっている式のもので、これも余り力が要らなかった。それに我が家の井戸は近辺では一番深い方で水の涸れた事がなかった。浅い井戸だと雨が降ると水が浸み込んで濁るが、深いからそれもなかった。更に地下水の温度は年中一定しているから夏は冷たく冬は暖かい。水道のように結氷する心配もないし、夏は一種の冷蔵庫となり よく西瓜を冷やしたものだ。この時は容器に入れて吊るさないと直接 水に漬けると味が薄くなる。


井戸にもメンテが必要で、年に一度「井戸替え」と言って 溜まっている水を掻き出し 井戸の底を掃除して新しい綺麗な水が流れるようにしていたが、水道の普及と共に「掻き出す」人足が絶滅職種となりメンテが出来なくなった為、今はモーターで洗濯用と表の植木鉢と撒き水にだけ使っている。


井戸と水道についてこんな話がある。都会の子供が田舎の従兄妹の家に遊びに行った。田舎の子が井戸から水を汲むのを見て、都会の子が街では栓を捻ればいくらでも水が出てくると一寸田舎を馬鹿にする。田舎の子は悔しがるが、その中、水道にはお金がかかると聞いて、なんだ ただじゃないんだと田舎の方がいいように思う。これは大正末期に発行された児童専門誌「赤い鳥」に出ていた話だ。


以上とは違い「釣瓶」のない「手押しポンプ」型の井戸もある。詳しい構造は知らないが、読んで字の如く、把手をギッコンギッコンと上下させると反対側の蛇口から水がジャージャー出てくる式の至って簡便なものだ。ご近所には今もこれを専ら撒水用に使っているお宅がある。


更にその上を行く「掘り抜き井戸」という物もある。言ってみれば人口の泉のようなんもので地下の水脈とパイプで直結して、年中、水が出っ放しという何だか勿体ないような代物だが、地下水はどちらにしろ、何処かへ流れて行くのだから途中で多少汲み上げようが、どうしようがどおって事も無いのだろう。この辺の水には微量ながら鉄分が含まれていると見え、井戸から流れ出る水路は永年のうちに鉄錆色になってしまう。


ずっと昔の話になると、都の随身院の外郭に「小野小町の井戸」と称されている、いかにもインチキ臭い井戸がある。かなり広い長方形の地面を階段状に掘ったもので、その一番底の部分に溜まった水を汲んで壁にくっついた階段のような所を運び上げる式のものだ。


いずれにせよ、何処を掘っても水が湧くという事は、皮膚の何処を突いても血が出るのと同じで、地下一面に水脈があるという事になる。血液は体内を循環するが水は低きにしか流れない。しかし、必ず循環する筈となると、どんな地下水脈もいずれは海水の中に流れ入らねばならないという結論になる。

釣瓶式の井戸
道明 井戸


手押しポンプ式の井戸
道明 井戸



電動ポンプ式の井戸
道明 井戸