読書と音楽の愉しみ
読書感想文
●V・E フランクル著 「夜と霧」を読む
若いころから、いつかは読まねばと気にしつつ幾星霜、ふと気がつけば半世紀も経っていたのであります(笑)。しかし、ぐずぐずして良かったことがある。著者が原稿に手を入れて版をあらため、訳者もチェンジして、巷の評価ではとても読みやすくなったとある。実際、池田香代子の新訳はとても読みやすい。翻訳文にありがちな、まわりくどい、もったいぶった表現がなく、スイスイ読めます。
フランクルは、フロイトやアドラーの指導を受けた精神科医。オーストリア生まれのユダヤ人。1942年、ナチスの強制収容所に入れられ、妻、二人の子供、父母は収容所のガス室等で殺された。本書は三年足らずの収容所体験をいかにも精神科医らしい思考、判断で綴ったもの。明日、殺されるかもしれないという状況でも、人間とはなにか、何が出来、何ができないか、冷静に見ていた。ノートや筆記具なんかないから記憶だけが頼りで、ゆえに、出来事の時系列ははっきりしない。(いっとき、紙くずに速記用語でメモしたこともある、という記述はある)
収容所の劣悪な環境は心身の弱者を自動的に選別した。ガス室に入れなくても勝手に死んでゆく。栄養失調状態で、昔の繁盛山小屋のように、タタミ一畳に二人、三人、というような生活が続けば、次々に死ぬ。ゆうべ言葉を交わした隣の男が、朝、死んでいた。こんな状況で人間らしい感性は麻痺し、感情の起伏さえ失われてゆく。のみならず、死んでまだ体温の残ってる身体から服をはぎとって自分が着る。どうせボロ靴なのに脱がせて交換する。全員がポーカーフェイス。誰も悲しまない。
著者自身、飢えや寒さや疲労のあまり、幻覚を起こしたりするが、まだ、自己と他者を認識できる精神力は残っていた。99%の絶望的状況にあっても「まぎれもない自分」でありたいと思う。「人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ」この個人の尊厳だけはナチスも奪うことはできない。
「行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」(青色文字は引用文)
ナチス(ドイツ人)に対する怨念の強さ、いかばかりかと思うのですが、1945年の解放時にはこんなことがあった。ただ一人、人間味を失っていなかった収容所長(こっそり、みんなに薬品やたばこを差し入れてくれた)には穏便な扱いをするように連合軍の兵士に頼み、その通りにさせた。普通なら、被収容者全員で掴みかかって殴り、踏み殺してもおかしくない場面である。この場面、全員の意志のように書かれているが、訳者は著者、フランクル個人の計らいだったのではと書いている。
もう一つ、訳者が驚いたと書いていることがある。新版の本文で「ユダヤ人」という言葉は二回しか出てこず、旧版では一度も使われなかったという。これは、ナチス(ドイツ人)=加害者、ユダヤ人=被害者、という図式ではなく、ユダヤ人でなくてもあり得るホロコーストであることを言いたかったのではないか。実際、被収容者のなかには、同性愛者、ジプシー、社会主義者もいた。戦後70年以上経って、現在のイスラエルのありさまを考えると、どう見ても「やられっぱなしのユダヤ人」ではない。被害者感覚ではアラブ人のほうがずっと強い。
ホロコーストの規模(犠牲者数)においては、スターリンや毛沢東のほうがずっと悪質だと思うが、ドイツのそれは、言い訳はともかく「国民の合意」があったことが最悪である。いや、日本だって、戦時中はマスコミと軍部が一丸となって戦争を煽ったではないか、ナチスと変わらない、という見方もあるけど「民族浄化」なんて恐ろしい発想はなかった。ソ連や中国の大虐殺は、憎き敵国人を殺したのではなく、自国民を殺した。なのに、毛沢東が「建国の英雄」として尊敬の対象になってるのは笑止千万であります。(2002年 みすず書房発行)