読書と音楽の愉しみ
読書感想文
●波多野聖著「本屋稼業」を読む
2017年最後の読書は紀伊國屋書店の誕生、発展物語で主人公は田辺茂一。創業社長にして有名文化人だったので知る人は多いはず。文化人といえば聞こえがよいが、酒飲みで女たらし、数字にからきし弱い社長だった。こんな駄目社長を支えたのが東大出身で陸軍軍人あがりという松原治。、田辺とは正反対の数字に強い男で後に社長になった。社長にして粋人というタイプはおそらく田辺あたりが最後で、何よりも効率や生産性を求められる現在、こんな人物はさっさと排除されてしまう。
父親は薪炭商。小学生のとき、父に連れられて入った「丸善」のえも言えぬ文化的な雰囲気が大好きになり、将来は本屋になると決める。二十歳すぎに小さな本屋を開業するが、成長するまえに戦時色が強まり、東京大空襲ですべて灰燼に帰した。しかし、終戦後まもなくにバラック小屋のような店をつくるとものすごく繁盛し、雑誌「文芸春秋」発売の日は長蛇の列が出来た。みんな貧しくても活字情報に飢えていた。当時は出版社から書店への配送は自転車や荷車が主で、荷台に本を満載してピストン輸送した。後年、大出版社になった角川書店も角川社長自ら自転車を漕いで本を届けた。入荷する尻から本も雑誌も売れる・・夢のような繁盛を経験し、この時代の大もうけが発展のもととなる。
本屋の標準サイズは25坪と言われた時代に、新宿でどでかい本店をつくり、ビル内に紀伊國屋ホールという劇場までつくった。酒飲み女たらしは休まないでの大文化事業。そして、国内二店目は大阪梅田の阪急梅田駅再開発にともなう出店で面積は700坪、若き駄目男もドヒャーと驚いたバカでかい書店でした。しかも、設計は当時、丹下健三と並んで人気トップの前川国男。これは今まで知りませんでした。(新宿本店も前川の設計)開店は昭和44年12月。大阪万博開催の4ヶ月まえだった。
1981年、田辺社長は76歳で亡くなる。本屋が一番景気の良かった時代だった。仕事と遊びの境目が分からないという人生は最高に幸せだったといえる。読書離れ、出版不況に悩む現在の業界では想像もつかないハピーな時代だった。年商1000億に達した紀伊國屋だけど、この先も順風満帆の保証はない。ちなみに、紀伊國屋というブランドは紀伊國屋文左衛門とはなんの関係も無いという。(2016年 角川春樹事務所発行)
今年は40冊
大晦日に40冊目駆け込みです。今年もいろんな本を読みましたが、印象の強い作品をあげれば「日の名残」「蜜蜂と遠雷」「泥の河」くらいでせうか。読むのに苦労したのは「村上海賊の娘」。長すぎます。ジャンルは、間口広く何でも読んでるように思われそうですが、好き嫌いははっきりしていて,例えば佐伯泰英のシリーズ本なんかタダでもらっても読まない。単に好き嫌いの問題です。