●安徳天皇?の陵墓を訪ねる
前回記事「野間の大ケヤキ」から西へ、徒歩30分ほどの山中に安徳天皇の墓石がある。ぜひ訪ねてみたいというSさんの希望もあって、二人で山道をたどった。
「読書と音楽の愉しみ」3月21日の記事で「能勢初枝著「ある遺書~北摂能勢の安徳天皇伝承~」を読む・・と書きましたが、これの現場確認です。下に全文を再掲載しますので、興味ある人は読んで下さい。
さて、この本と地形図を頼りに、野間の大ケヤキから山あいの田んぼを進み、岩崎神社前から道標にしたがって小道を進み、200mほど先から細い山道を登ります。5分ほどで石標があらわれ、これは安徳天皇の世話人代表にして、問題の遺書を綴った藤原経房の墓石です。ここからさらに山道を登ると山頂とおぼしきところに真新しい石標が二つあり、手前が陵墓を案内するもの、後ろの頂部が丸い石が天皇の埋葬地を表しています。経房や家来の末裔の方が自費で建立されたのではと察します。
地形図では、独標268mのポイントがここかもしれず、傍らに「来見山(くるみやま)」の板の表札があります。山道も、この山頂も草刈りはきちんとしてあり、荒廃感はないけど、この御陵がホンモノであれ、ニセモノであれ、天皇の御陵としてこれほど侘びしいロケーションはない。ホンモノであれば、天皇は、戦場を逃れて折角生き延びたのに、母(徳子・建礼門院)との再会もかなわず、従者に見守られながら八歳の人生を終えた。そして、秘匿のためとはいえ、人家から遠く離れた、こんな寂しい山中に埋葬された。伝承に過ぎないとしても、もし皇族関係者がここを訪ねられたら、いかほどショックを受けられるか。
ことの真偽はともかく、歴史の好きな人、古跡を訪ねるのが趣味の人にはとても興味深いテーマだと思います。「平家物語」の一番悲しい場面をどんでん返しにする話ですからね。 駄目男とSさんは、この伝承のホンモノ説信者になりました。
静かな里山風景のなかを歩いて・・
藤原経房の墓石
さらに山道を登る
山頂の安徳天皇陵墓 奥の方が墓石
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3月21日記事の再掲載
●能勢初枝著「ある遺書~北摂能勢の安徳天皇伝承~」を読む
安徳天皇は生きていた!?
一月ほど前、Sさんから手紙をいただいた。同封されてた史跡案内のチラシに 来見山「安徳天皇 御霊跡地」の題があり、内容を読むと、かの源平合戦の最終戦、壇ノ浦の戦いで幼い安徳天皇は祖母とともに入水(無理心中)され亡くなったとされているが、実は・・・生き延びて摂津能勢の山奥で暮らした。しかし、わずか一年後に病死した。同行した供のものが弔い、御陵をつくったとあります。その同行者、藤原経房が後世に事実を伝えるために遺書として顛末をしたため、厳重に封をして屋根裏に隠した。
600年後、江戸時代に発見され、大騒ぎになった。事実か、偽書か。いろんな人が謎解きを試みたが真偽判定できず、今に至っている。平成の今、改めて詳細に調査して可能な限りの情報を集め、まとめたのが本書であります。著者の能勢初枝氏は1935年生まれ、奈良女子大国文科出身のインテリおばさんで郷土史研究がライフワーク。
各地に伝わる平家落人伝説や義経伝説と同じようなマユツバ物語だろうと思い、しかし、無視するのもSさんに悪いので、念のためにネットで情報を探してみたら、この本が見つかったのであります。初版は500部しか刷らなかったというマイナーな出版物。しかし、興味をもつ人がたくさんいて品切れになり、再発行したという。
読めば実に面白い・・だけでなく、真摯な調査姿勢により、リアリティも十分。歴史の裏側を詮索するのが好きな人にはぜひ読んでほしいスグレモノです。ただし一回さらっと読んだだけでは理解しにくい。人脈相関がとても複雑で、しかも似た名前が多いので誰が誰やら覚えきれない。
平家一族の主要メンバーフル出場といった感じです。平清盛、経盛、敦盛、重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡、清房、維盛、資盛、淸経、有盛・・・さらに藤原一族の俊成、成親、成経、定家・・プラス、それぞれの女御、恋人。歌舞伎ファンなら、知盛や敦盛、成経の名前はおなじみですが、いったい誰が清盛の兄弟なのか、息子なのか、孫なのか、知らないのが普通でせう。しかもなおややこしいのは、主人公、藤原経房と同姓同名の別人が同じ時代に実在したことが分かり、話がいっそうこんがらがってきます。でも、面白い(笑)。
遺書によると、壇ノ浦で入水したのは安徳帝の身代わり、知盛の次男で、安徳帝はどさくさに紛れて上陸し、数人の供と山中に逃れる。(その一人が経房)艱難辛苦、一ヶ月半かけて、石見、伯耆など、山陰まわりで必死の逃避行の末、能勢にたどり着いた。ここに落ち着き、ボロ小屋を建てて仮の御所とし、農民と同じ生活をはじめる。しかし、もともと虚弱な体質だった帝は、一年後、風邪をこじらせて?亡くなってしまう。享年八歳。
経房は悲報を帝の母(清盛の娘、徳子。出家して建礼門院となる)に伝えるべく都へ行こうとするが、年長の供の者に諫められ、出かけなかった。幾星霜を経て、仲間の者が次々に亡くなり、経房50歳になったとき、この遺書をしたためた。日付は健保5年(1217年)。発見されたのが江戸時代の後期、文化14年(1817年)だから、ちょうど600年間、農家の屋根裏に秘匿されていたことになる。
本物か、偽書か。著者、能勢氏は願望も込めて本物説の立場です。その根拠は、当事者しか書けない内容だからで、経房ほか当事者が実在の人物であったかどうかの検証に多くの頁が費やされている。外部の人間なら、壇ノ浦の戦での無名人を含めた「乗船者名簿」など分かるはずがない。これらの人物のアリバイ証明が大きな説得力になっている。
よって、駄目男を含めた読者の多くは「本物とちゃうか」気分にさせられるのであります。残念ながら、遺書の原本は失われているが、発見時に多くの人が写本をつくっており、江戸時代に内容がねつ造された可能性はない。さらに、現地に物証(遺跡・遺品)があり、地元農家の家系や伝承、地名など傍証になる情報も多い。もし経房以外の人物による偽書であれば、創作は13世紀でなければつじつまが合わない。源平時代に貴族や僧侶以外で、そんなヒマジンにしてインテリがいただろうか。
ちなみに、安徳天皇の御陵というのは各地にあり、宮内庁では、山口県下関市にある赤間神宮の安徳天皇阿弥陀寺陵を御陵としている。他に鳥取県、長崎県、熊本県、さらに遠く鹿児島県の硫黄島にも陵墓がある。
(2011年 個人発行 能勢初枝で検索すると情報が出ます)
■安徳天皇の生涯(Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E5.AE.AE.E5.86.85.E5.BA.81.E7.AE.A1.E7.90.86.E3.81.AE.E5.A4.A9.E7.9A.87.E9.99.B5