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ウオーキング・観光

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04 /04 2021
 

「亀の瀬地滑り資料室」見学
 人混みなしのウオーキングを、にぴったりの超地味見学記。大阪と奈良の境界、大和川沿いの山腹で起きた大規模地滑りの記録を公開する小さな資料室を訪ねました。普段は非公開なので事務所に「開いてますか」と確かめて出かけます。こんなとこ知ってるのは相当の物好きです。

 しかし、この地味施設が脚光をあびることになった。亀の瀬での長年にわたる自然の脅威との戦いの歴史が令和二年「日本遺産」に選ばれたのです。と書いても大方の人は「なんのこっちゃねん?」でありませう。地震や台風に比べたら「地滑り」って自然現象は地味でニュース価値が乏しい。しかし、この亀の瀬の地滑りは規模が大きく、タチが悪い点で日本一かもしれない。それを人間の知恵と技術でどう克服したか、に興味がありました。

 過去数百年間、大きな被害を生んできた地滑り対策工事のあらましを知ることができます。1960年から50年間かけての大規模土木工事で費やされた費用は何千億円というオーダーになる。しかし、もっぱら、ひたすら地中の工事なので地表を見ても何をどうしたのか想像ができない。このたびの「日本遺産」選定は何より困難な工事に携わった技術者や作業員への畏敬の念の表れだと思いたい。

 現場はJR大和路線の河内堅上駅と三郷駅との中間で両駅間の道はハイキングコースに適した静かな田舎道。但し、途中に休憩できる公園やトイレがない。今回の日本遺産指定でそういう観光施設の整備が進めばよいのですが・・。

線路沿いの道を進む
亀の瀬
 
地滑りで亀裂ができた山腹の果樹園の写真
亀の瀬

地中に浸透した水を集め、流す排水トンネル
亀の瀬

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03 /13 2021
 

満開・・淀の河津桜並木
 京阪淀駅から西へ10分ほど歩くと細い水路があり、その岸に河津桜の並木がのべ300~400mくらいあります。地元の有志が育てているもので、まだ20年くらいしか経っていないから大木はないけど、色彩が派手なぶん、見栄えがします。見物人はほぼ地元の方ばかり?で至って地味な存在。住宅街だから駐車場がなく、徒歩か自転車でくるしかない。「河津桜の名所」として宣伝すれば地元住民とのトラブル発生必至です。

 なのに・・です。現場に一時間ほどいた間に少なくとも10人の外国人に出会った。半分くらいが中国人の若いカップル。みなさん、どうしてこんな超マイナーな観光スポット情報を見つけたのだろう。「桜」を入力するだけでここが出てくるのだろうか。ただいま入国制限中だから在日の学生や労働者かもしれないけど、関西で「河津桜並木」は珍しいから良い思い出になったと思います。

淀さくら







淀さくら

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02 /25 2021
 
満開・・・大阪城公園梅林
 昨年と一昨年は夏の猛暑が災いして花が咲かず、見物客をがっかりさせましたが、今年はほぼ順調です。満開のピークは27~28日ごろと思われます。それに、数年ぶりに見物客がほぼ日本人オンリーの状態になりました。外国人は1割未満でせう。コロナのせい? コロナのお陰? う~ん・・。

 今年はメジロの数が多くて、なんだかメジロ撮影会みたいな光景があちこちで見られました。全然人間を怖がらないというか、最短50センチくらいで撮影でき、ガラケーの人は大喜びです。望遠レンズ持ってる人はカッコイイ写真がたくさんとれたと思います。(2月24日)


梅林2021  

梅林


梅林


梅林 


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01 /14 2021


沢木耕太郎が語る<旅の魅力>論を紹介

 コロナ禍のせいで日本全国旅行禁止みたいな風潮になってしまいました。当面、リアルな旅はしにくいなか、ネットで出会った新潮社のPR記事を紹介します。沢木耕太郎の「旅のつばくろ」刊行に際してのインタビューです。
引用元 https://www.shinchosha.co.jp/book/327521/
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 つばめのように軽やかに。人生も旅も――。沢木耕太郎、初の国内旅エッセイ

編集者―この作品は、日本国内の、とりわけ北の地方を歩いて書いたエッセイ集ですが、沢木さんの「はじめての旅」をなぞるようなところがあるのが印象的です。十六歳、高校一年生の春休み、国鉄の東北均一周遊券と三千円ほどのお金を持って出かけた旅でした。

沢木 当時ちょっとしたアルバイトをしていて少しお金が貯まっていたんです。それを使って、ザックに毛布を詰めて上野駅から奥羽本線に乗り込みました。でも、長い年月のあいだに、どこをどう歩いたのか、記憶が曖昧になっていたんです。いつかその旅を「再構築」してみたいという気持ちはずっと持っていたんですが、折よくJR東日本の「トランヴェール」という車内誌が、旅のエッセイを書いてくれないかと声をかけてくれました。はじめての旅から五十年以上がたった今、新たに北の土地を歩いてエッセイを書くことで、はじめての旅を再構築できるかもしれないと思いました。十六歳のときの旅が蘇るかもしれない。あるいは全然蘇らないということがわかるかもしれない。はじめての旅の記憶がひとつの層としてあり、そこに新しい旅をして生まれる層を重ねて書いたら面白いんじゃないかと思ったんですね。

司馬遼太郎の旅
――旅を重層的に書くということですか?

沢木 司馬遼太郎さんが『街道をゆく』という一連の作品を書いていますよね。司馬さんの旅というのは、出版社が何もかもお膳立てして、記者や編集者、挿絵画家、その土地に詳しい人なんかがマイクロバスに乗って大勢同行するというものです。それじゃあ旅というよりは「大名行列」じゃないかなんて、ちょっと冷ややかに見ていた(笑)。

 だけどある機会があって、青森を歩いて書かれた『北のまほろば』を読み返してみて、印象が変わったんです。そんな単純な話ではないぞと思って。この作品の一番の表層は、もちろんその大勢の同行者たちと土地を歩いて取材していくというものですが、そのすぐ下に司馬さんが産経新聞の記者だった頃に取材をしたり、会った人々の記憶の層が加わる。青森出身の棟方志功と一度だけ会った時の印象なんかが語られるわけです。さらに作家として生きてきた時間の中で交わった、作家や文化人とのかかわりから生まれてきた記憶の層がある。
 たとえば直木賞の選考委員だった今日出海やその長兄の今東光。二人も青森に縁の深い人で、素敵なお母さんの話が出てくる。そして司馬さんが小説を書くために取材をし、勉強もした、戦国時代から幕末、明治に至る歴史の層がある。最後に「仮説の証明」という層も加わってくる。縄文時代に青森を中心とする北の国に豊かさや美しさがあったという司馬さんの仮説がいろいろな形で明らかになっていく。あるいは自分自身で深く納得していく……。

 『北のまほろば』という作品はこうした五つの層が豊かさを生んでいるんです。それに比べると、僕のこのエッセイ集は、たったの二層にしか過ぎません(笑)。まあ、僕が大学を卒業して、フリーランスのライターとして取材をし、人と出会い、触れ合ったり、付き合ったりしたという層が加わって、かろうじて三層ぐらいになっているかもしれませんが。

――就職した会社を一日で辞めて、フリーランスのライターになり、しかし先が見えないという時期のことも書かれています。永六輔さんや小澤征爾さんに取材したときのエピソードも印象深いですね。沢木さんにもこういう時代があったんだな、と。

沢木 でも、重層性ということでは司馬さんの足元にも及ばない。だから司馬さんには、心の中で密かに「生意気なことを思っていて、申し訳ありませんでした」と謝りました(笑)。

「旅の性善説」

――十六歳のとき、はじめての旅の行き先に東北を選んだのはどうしてだったんですか?

沢木 それはごく単純な話で、東北には長い夜行列車の路線があったから。それに乗ることで宿泊代を浮かせることができるわけです。少年の僕には、一人でどこまで長く旅を続けられるかが大事でしたからね。その旅の前年、つまり中学三年生の時、船に乗って大島まで行って、三原山に登ったんです。途中で親切なお兄さんに出会って、「このテントに一緒に泊まってもいいよ」と言われたんだけど、急に不安になってしまいましてね。どこかで罪を犯した逃亡者じゃないかと下らない妄想をしてしまって、三原山から下りたあと、まっすぐ波止場に戻って船に乗りこんで帰ってきちゃったということがあったんです。「あら、一週間は帰ってこないんじゃなかったの?」なんて、姉たちにからかわれました。よし、今度はちゃんと行くぞと思ったんでしょうね。いま思うと、よく親が出してくれたなと思うけど。

――宿を予約しているでもなく。

沢木 そう、まったく。車中泊と駅のベンチが大半で宿には二泊だけでした。なのに、帰ってきても「ああ、お帰り」というぐらいだった。でもそれが僕にとってはよかったんだろうと思います。あらゆることを任せてくれたということが……。いま思い出すと、僕は特別に早熟な子どもではなかったと思います。平凡な、ごく普通の高校生だった。ただ、一人で何でも決めて、一人で何でもやるということが、ほかの人よりほんの少しだけ早かったかもしれない。一人で何かをするという経験は、その後の僕にとって決定的に重要だったような気がします。

――旅ではいやな思いはしなかったんですか。

沢木 それが全然なかったんです。上野から奥羽本線に乗って、まず最初に秋田県の寒風山に行きました。そのときの僕の旅の基本的な方針は、かっこいい名前のところに行くという、ただそれだけだったもんだから(笑)。寒風山って、かっこいいじゃないですか。それで山から下りて道を歩いていると、トラックが止まって、「あんちゃん、乗んな」って言って乗せてくれた。運転席の前にリンゴが置いてあって、運転手さんが「そのリンゴ、一個持っていきな」と言ってくれました。

 今はみんな、旅をするときにミネラルウォーターをザックに入れて歩くでしょう。昔はミネラルウォーターって高かったので、その代わりに僕はいつでもリンゴを一個用意していました。水分補給できるし、何かあったときにはお腹の足しにもなる。今でも旅していると、ホテルの朝食のュッフェで必ずリンゴを一個失敬して、ザックに入れておきますが、あの旅のあの経験が原点だったんだなあと思います。寒風山のトラックの運転手さんにリンゴをもらう。あるいは北上の駅でベンチで寝ていたら、ホームレス風のおじさんが滑り落ちた毛布を掛け直してくれる。

 僕は「旅における性善説」の信奉者ですが、その十二日間の旅は、そういう親切に満ち満ちていたんです。まさに、旅の神様の「恩寵」に満ちていた。そもそも、最初の、上野からの奥羽本線でも、向かいに座った人にヤクザみたいなおじさんがいて、東京の裁判所から召喚状が来たから行ってきたんだとか意気がっていたんだけれど、僕が何も食べ物を持ってきてないということを知ると、バッグからあんパンを取り出して、「食べな」と言ってくれたりしてね。

長く旅を続ける方法

――そもそも(笑)、少し楽観的でないと、旅って楽しめないのかもしれませんね。

沢木 どちらかと言えば僕は楽天的な人間だと思う。文章を書く人間には向いてないのかもしれないんだけど(笑)。僕だってもちろん過去を回想して文章を書いたりします。けれど、行動においては、過去のことに拘泥するということはあまりないんですね。たとえ、うまくいかないことが起きたとしても、それを面白がるということが、とりわけ旅を続ける上では大事だと思います。家族の者には「一晩眠ると、みんな忘れちゃうだけでしょ」なんて言われるけど(笑)。実は、そうなんです(笑)。旅をしていく中で、それが強化されていったということはあるかもしれません。過ぎたことに拘泥すると前に進めなくなりますからね。旅を続けていくにはフットワークを軽くしたい。だから可能なかぎり荷物を少なくする。それと同じように、生活もできるだけ簡素にしておくと、動きやすくなる。生活を大きくしなければ、無理にお金を稼がなくても済むし、借金もせず、贅沢もせず、軽やかに生きていくことができる。旅も人生も、きっと同じなんでしょうね。

――いつでも旅に出ることができるというのは素敵なことですよね。

沢木 僕はできるだけ予定を入れないで済む人生を歩みたいと思ってこれまで生きてきました。締め切りなんていうものをなるべく抱えないでね(笑)。もちろんたまには雑誌の連載を引き受けたりもするわけだけど、そんなものはその気になれば、全部書いて、編集者に渡しておくことだって可能なわけで、さほど行動を制約されるものでもない。手帳に先の予定が埋まっていないと心配だという人がいるけど、僕はどれだけ手帳を空白にしていられるかということに、人生を懸けてきたようなところがあります。

――長い空白があるとホッとする。

沢木 そう。今年なんか、本当の意味での約束なんて、二つぐらいしかないんじゃないかなぁ。それを除けば手帳は真っ白という感じですね。そういう人生を生きたいと思ってきました。そして、ほぼ、そういう人生を送ることができてきたと思います。

好きなものが一つあれば人生はOK

――若い人たちが旅に出ない、内向的になっていることを嘆く向きがありますが……。

沢木 よくそういうことについて意見を述べよと求められるんだけど、基本的には何も言わないで来ました。これからもたぶん言わないでしょう。誰かに何か偉そうなことを言われるの、やっぱりいやだなと僕は思うから。でも、単純に何かに興味を持てば人は動き出すというところがありますよね。人生にとって一番大事なことって、好きなものを一つ持つということだと思うんですよね。

――そうですね。

沢木 どんなことでもいいから、好きなことを一つ持っていればいい。それは何でもよくて、趣味であったり、あるいは好きな人であったり、ペットだったり、とにかく好きだというものが一つでもあれば、人生は一生、楽しく生きていけると思う。それはきっと巡り巡って、例えば外国に出かけるといったことに結びつく契機になるかもしれない。とにかく好きなものを一つ持てば、人生はそれでOKだと僕は思っています。

――内向的になって、外に向く目が弱くなるということは、好きになる気持ちが弱くなることなのかもしれません。

沢木 外に向かう感情、他者に向かう感情の架け橋がなくなっていくのはあまりよくないことですよね。好きになるということは、関心を持つということで、関心を持つということは、ほとんどもう好きであるということと同じことのはずですから。何かに関心を持ち、何かを好きになるという感情が痩せてしまうと、ちょっと困ったことになるとは思います。

(さわき・こうたろう ライター) 「波」2020年5月号より

                                            ~引用おわり~

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ウオーキング・観光 

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10 /06 2020


● 刃 ビル

 敷地が三角形の土地に建物を建てるのは難しい。三角のひとつが30度以下の鋭角になってる場合はさらにデザインが難しい。人間は古代から丸形または四角型のスペースに住まうのが合理的とされてきたので三角の空間はとてもなじみにくい。一方で、使いにくさを承知で三角のスペースを利用すると建て物の端っこは刃のようにとんがってしまい、実用にならない。ならないけどつくってしまったのが写真の「刃ビル」。たとえ10センチでも土地を無題にしたくないというオーナーの執念が「刃先」にあらわれています。

 10年ぶりくらいに近鉄新石切駅で降りて刃ビルの健在を確かめました。新駅の駅前開発で地元の住民や不動産業者が土地を奪い合った末、超ハンパなスペースができ、住居は無理でも店舗ならできると思ってこんな狭小ビルを建てた、と想像します。目分量では間口は7m、奥行きは東側2m、西側0,1m。面積は7~8㎡と推定します。6畳の和室(9,7㎡)より狭い。

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 長居公園の西向かい、あびこ筋に面した刃ビル。視覚的に刃に見えるポイントは限られているので通行人のほとんどは気づいていないと思われます。近くで見ると、刃の先端は幅が2mくらいあり、刃にはなっていない。しかし、壁面の角を丸く仕上げてあるために幅の寸法がやや曖昧に感じられ、遠方からは薄く見えます。一階は靴屋さんで狭い端っこまで商品陳列に使っています。上部は賃貸マンションで当然、部屋は三角形と思われます。他にも市内で刃ビルを見かけたような気がするのですが思い出せない。


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09 /20 2020



1985年:北区茶屋町の風景

 アルバムを整理していたら茶屋町を写した写真が出て来た。ここにあった「茶屋町画廊」を何度も訪ねたので懐かしい。木造住宅と石敷の狭い道。撮影した1985年には既に再開発が進んでいて住宅地から若者向きの商業地への変身中だった。当時から35年たった今、昔日の風景は全く残っておらず、石敷きの道がどこだったのか特定するのに迷った。

昔の茶屋町を語るのは「鶴乃茶屋」跡碑とその説明板しかないみたい。茶屋町という町名の由来と江戸時代~明治時代の風景は以下のように説明されている。

 茶屋町は大阪市北区にある阪急電車・梅田駅ホームの高架の東側に広がる町の名前である。茶屋町の名称は1900年(明治33年)から使われており、1924年(大正13年)までは北野の名が上についていた。近年再開発が進み、茶屋という名から来るイメージとは裏腹に若者の街と化した感があるが、明治の初め頃、梅田の東側は、春には菜種の花が一面に咲く美しい野原であったといわれ、大阪三郷の人々の憩いの場所となっていた。このあたりを茶屋町と呼ぶのは、同町を縦断する池田街道筋に、「鶴乃茶屋」・「車乃茶屋」・「萩乃茶屋」と呼ばれる3軒の料理茶屋が賑わっていたのに由来するという。

 また、明治中期までは料理茶屋だけでなくボート・温泉場、大弓場、料理屋が集まった大行楽地であったとのことで、1889年(明治22年)には「凌雲閣」という当時としては画期的な、天にそびえる9階建ての遊楽場が、現東梅田学習ルーム(旧東梅田小学校)付近に建てられており、現在でいうところの一大レジャーランドであった。

 上の文にはないけれど、与謝野蕪村が詠んだ有名な「菜の花や 月は東に 日は西に」の句はこの茶屋町の菜の花畑の風景を見てつくったという。知りませんでした。現在のビルがぎゅうぎゅう詰めにひしめく風景からは想像もつかないカントリーシーンが広がっていた。
 そういうすてきな由緒があるなら、現在、整備をすすめている大阪駅北側の緑地の一部を菜の花畑にして江戸時代の風景を偲ぶ、という案もええかな、と想像します。


1985
(現在の道を特定できなかった)
茶屋町

1985
茶屋町 

2020 
直上写真の35年後 現在の風景
上の写真より視点を5mほど右へ写して撮影。道は車の通行ができなくなっていた。
DSCN1734 (2) 







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08 /29 2020



●コロナ不景気対策 「青春81きっぷ」提案

 旅行が趣味という人は多いけど、自分でプランをつくり、乗物や宿の手配もする人は半分くらいでしょうか。しかし、安くて便利、だけのパックツアーに満足しない人もたくさんおられるはずです。コロナ禍で交通、宿泊など観光ビジネスの売上げがガタ減りになったいま、なにか名案はないだろうか。・・で、思いついたのが表題の「青春81きっぷ」です。なんや、18をひっくり返しただけかい。その通りのさぶ~いダジャレでありますが、新きっぷはシニアに金を使わせるためのサービスを提案します。いま思いついたばかりのアイデアは・・。

70歳以上の人を対象に身分証明書提示で購入できるきっぷを新発売する。

1・「81きっぷ」の値段は「18きっぷ」の1割高とする。
2・「81きっぷ」は普通列車のほかに在来線の特急、急行列車も使える。
   特急券の値段は3割引き(券は車内発行)
3・新幹線は一日一回、乗車距離300km以内で利用可。
  但し、自由席のみ。特急券の割引きは3割(改札精算)
4・使用期間を大巾に増やし、年末年始とお盆の繁忙期以外は利用可能とする。
5・きっぷの有効期限は購入後1年とする。未使用きっぷの払い戻しはしない。
  (一冊5枚綴り=5日ぶん)
6・81きっぷの提示により、駅構内のコンビニ、カフェ、土産物店の会計は5%引き。
7・利用時はマイナンバーカードを携帯すること。(本人確認、事故時の対応のため)
8・新きっぷの名称は公募する。

ま、1時間ほど考えた結果のアイデアです。70歳定年が普通になることを見越した提案。父さんはおおっぴらに家出できてハネを伸ばし、母さんは自由時間たっぷりできてハネを伸ばし・・観光関連業者は潤い、家庭円満をもたらし、マイナンバーカードの普及促進にも寄与する「81きっぷ」です。

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07 /10 2020


●ハルカスまでアルカス ~日本一長い商店街散歩~
 
 10年ほど前につくった大阪市内のウオーキングコースをアレンジして首題のような散歩コースをこしらえました。全長5200m、日本一長い商店街歩きです。(天神橋筋商店街は2600m)起点は本町駅、終点はあべの(天王寺駅)。日本一高いビルを目指して日本一長い商店街を歩かせるコースだから「ハルカスまでアルカス」です。

 船場心斎橋商店街から心斎橋筋、道頓堀、千日前、道具屋筋、日本橋筋、新世界、ジャンジャン町、西成の商店街を経てハルカスに至ります。廃業が決まった「づぼらや」二店(道頓堀店・新世界店)前も通ります。このコースを一度に歩いた人はたぶん筆者以外に一人もいません。なぜなら、用事がないからです。心斎橋と西成の商店、両方に用事のある人っていませんからね。しかし、用事がなくても歩くのが散歩です。

 コロナVのせいでインバウンドが消えてしまい、商店街の風情はガラリと変わりました。正しくは「元通りになった」といえるかもしれません。そしてこの先、また大変化が起きる可能性があります。早急にインバウンドが戻らなければ、さらに、コロナ感染の行動規制が続くなら、商店、特に飲食店は半分くらい無くなることもありそう。必死の生き残り作戦がはじまります。

 まちライブラリー@もりのみやで柱一本を借りて商店街の写真展示をしています。地図もサービスしていますので、われこそ閑人と思う方はどうぞ。(展示は8月8日まで)

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arukasu 







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06 /13 2020




●惜しいけど「づぼらや」廃業は時代の流れ

 ふぐ料理の店がコロナウイルスにやられた・・。100年続いた老舗が退場し、なにわの名物が消えるのは惜しい。市民のほとんどは残念な思いをしていると思いますが、づぼらやを廃業に追い込んだのはコロナVだけでなく、地元の府市民の薄情のせいでもあります。づぼらやは知ってるけど、行かない。つまり売上げに寄与しなかった。さりとて、インバウンドにフグ料理はミスマッチというわけで業績はずっとジリ貧だったと思います。

 大阪に何十年も住んでる人に尋ねてみるとよい。過去10年の間にづぼらやで食事したことがありますかと。100人中99人は「なし」と答えるでせう。名物店に愛着があることと、利用することとは全く別モノなのです。10年内に通天閣へ上がったことありますか、と尋ねても同じ答えになります。要するに行きたいとは思わなかった・・なのに、嗚呼、残念やなあと自分の薄情は棚に上げて惜しがります。

 新世界が「串カツの街」として人気を高めると「づぼらや」は本来地元の主役だったのにトレンドから外れて孤立していきます。新世界で一番人通りの多い場所なのに店が満員という場面を見たことがありません。しかし、乾坤一擲、10年くらい前に通りの南向かいにドカンと大きな店を新築、開業しました。でも、これがとんでもないピント外れの設計で、ファミレスの内装をそっくりコピーしたようなつくりでした。なので、店はがら~~ん。たちまち行き詰まって、いきさつは知りませんが、串カツの「横綱」が全館に入りました。いずれ、そのあたりの裏話が巷間に伝わると思います。

 いま、新世界の飲食主役業者は串カツの「だるま」で「づぼらや」は喧噪の街中にTV番組ふうにいえば「ポツンと一軒家」状態。ま、有り体にいって、市民が惜しがるのはフグ料理ではなく、シンボルのふぐ提灯看板でせう。看板は歴博あたりで保存されるのではないでせうか。撤去されるときはまたニュースになって、ふぐ看板の下には記念撮影する人の群とメディアがわっせわっせと押し寄せ、ガードマンが通行整理に出動とか・・そこまではならないか。


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04 /29 2020


●嗚呼、もったいない!  ~舞洲ネモフィラ花畑~

 コロナVのせいで各地の遊園地など観光施設は全部休業になってしまいました。それでも、再開すれば普通の営業に戻れるところはまだマシです。舞洲のネモフィラ花畑のように、花が咲きそろってさあ開園、と言うときに自粛要請が出て休業に追い込まれ、ようやく解禁というときには枯れてしまってる・・というのだからやりきれません。ネモフィラって不幸を呼ぶ花なのか、そんなことないと思いますけど。

 広大な土地の賃借料、花の材料(種)や植え付けの人件費、各種施設の造営コスト、宣伝費など多くの資金を費やしてこしらえたのに、1円の売上げもしない前に閉鎖を余儀なくされた。もしや、運営会社は倒産するかもしれない。ゆり園を何年かやったのでようやく知名度が上がり、安定した集客が出来そうになったのに・・・。
  一日に千人とか、人数を限って集客するとか、接触機会が少なくて済む地元の此花区や港区の住民だけに公開するとか・・僅かでも売上げになる手立てはないのか・・などと心配する貧乏性の駄目男でした。

 
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ウオーキング・観光

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04 /05 2020


●がら空き<背割堤桜満開風景>

 花見どきの背割堤(京快道)は五、六回訪れていますが、今回のような美しい風景ははじめてみました。コロナウイルスが花見客を追い払って見渡す限りがら~~んとした快適空間が広がっています。二度と見られない桜満開風景です。別に地元役所、団体が立ち入り禁止にしているわけではなく、桜並木の散歩は自由。しかし、歩行者数は例年の十分の一以下か。さらに、草地で敷物敷いて弁当を使おうとすると警備員が「ご遠慮下さい」と呼びかけるので即立ち退きとなる。また、駐車場を閉鎖しているのでマイカーでの訪問もアウト。(自転車はOK)おまけに、観光施設である展望台や物産販売店も休業している。 行楽客は弁当も食べられず、桜並木を往復して帰るしかない。しかし、みなさん、口々に「人がいないとこんなにきれいな風景なんやねえ」と感心しきり。本来の自然風景の美しさに十分満足してるようでした。

 昼どきに乗った地下鉄、京阪電車はガラ空きで、京阪特急は一両に10人くらいしか 乗客がなかった。(普通は京橋駅でほぼ満席になる)こんな状態が続けば閑散時は間引き運転という事態が起きるかもしれない。営業面での理由だけでなく、乗務員や駅員に 感染者が出たら人員のやりくりが逼迫し、減便せざるを得ない状況に至るかもしれない。(注)訪ねたのは平日で、土日は結構人出があったのでは、と思います。


背割り 




 背割り堤





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03 /27 2020



●換気ヨシ、密集ナシ、なのに・・・

 長居植物園がコロナ問題で休園していました。安全な環境だと思っていたので休園は意外でした。しかし、先週末から再開、親子連れで賑わっています。但し、カフェや博物館は休業を続けています。


3-26

ヨウコウザクラ
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ネモフィラ この花は5~6月が見ごろと思ってましたが3月末で満開です。
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雲南黄梅 はじめて見ました。
3-26 

3-26 


キンギョソウ ソネット
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02 /26 2020


●花は満開、人出はちらほら  ~大阪城梅林~

 暖冬のせいで今年の梅は例年より10日くらい見ごろが早まり、3月までもたないことに。というわけで見物客も早めに出かけることになりましたが、新型肺炎騒ぎで外出自粛ムードが広まり、いつもより閑散としていました。ふだんは満タンの外国人用観光バス用駐車場もガラ空きです。昨年は一昨年夏の猛暑が祟って花が咲かず、見物客皆無だったので大阪城梅林は二年続きの災厄に見舞われました。新型肺炎騒動が長引けば大阪城公園は桜の季節も閑古鳥鳴くかもしれません


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oosakajou 






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01 /23 2020


手づくりガイド誌「ハルカスまでアルカス」完成

 西成のホテル街などはインバウンドには親しみやすい街として評判が良いのに、日本人は今でも偏見と差別視が払拭されず、観光情報誌も知らん顔しています。昔の「西成暴動」などのイメージが強く残る大阪市民が一番冷淡かもしれません。
 しかし、西成も変わりつつあります。行政や民間団体などの地味な努力が実って「怖い、汚い、臭い」街ではなくなりました。ヤクザがぶいぶいいわしてたのも昔の話。なのに、ジャンジャン町でさえ「気色わるい」と蔑視する市民がいる。彼らこそ時代遅れの「田舎もん」です。

 さりとて筆者は西成になんの義理もないのですが、街歩き新コースとして「ハルカスまでアルカス」というイチビリネームでガイドをつくりました。本町から天王寺(阿倍野)まで全長5200mぜんぶが商店街というコースで、後半は新世界から西成の商店街を通って天王寺へゴールします。日本一長い商店街を歩いて、日本一高いビルに上がろう・・・ハルカスさんにも何の義理もございませんが、イチビリ宣伝文句のネタに使わせてもらいました。(当ガイドは非売品です)

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ウオーキング・観光

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12 /01 2019


●秋色

 約二ヶ月ぶりに長居植物園へ。花壇の花はみんな出番を終えて雑木林の紅葉が園内を彩っています。目を引いたのは、昨年の台風21号で折れた池端のセンダンの木がすごくエネルギッシュに新しい枝葉を伸ばしていることです。これだけ活力があればあと数年で樹木らしく再生するかもしれない。あと数年・・生きてるかな?


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植物園


新しい枝葉が伸びるセンダン
センダン


昨年の台風で折れて幹の大方が切り落とされた。右に延びてる枝も危険なため、後日、切られてしまった。(2018年10月)
センダン







ウオーキング・観光

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10 /22 2019


●なつかしいチラシ ~さざなみ快道の思い出~

 古い書類を整理していると下の写真のチラシが出てきました。「山の彼方の空遠く・・・歩きませんか、日本海まで」とオジンらしくないロマンチックなキャッチフレーズで「漣(さざなみ)快道 遊歩ガイド展」の案内です。時は1991年、今から30年近く昔のイベントでした。
 写真を大きなサイズに引き伸ばしてみて、その下手くそさにガクゼンとしましたが今さらどうにもならず、ま、写真の作品展ではないのだからと自分を納得させての催しでした。のべ500人くらいの方に来て頂いて、恥をさらしつつ「さざなみ快道」という個人が勝手につくったウオーキングコースのPRをしました。


漣快道遊歩ガイド展のチラシ 写真の風景はマキノ町の知内川
さざなみ快道  

 それは良いとして肝心の地図の作り方がわからず、仕事も忙しかったので放置してしまい、地形図に手書きの情報を書き込んだガイド地図ができたのは7年後の1998年でした。せっかく展覧会に来て下さった方々を裏切るお粗末な経緯です。さらに、地図が出来ても売る方法が分からず、コピーしたものを前に思案投げ首の体です。「さざなみ」に続いて「やまなみ」「新高野」快道もできていたけど、宣伝するお金もないから地図を新聞社に郵送して「こんなことやってます」としょぼいPRをしていました。朝日と毎日がヒマネタとして市内版で紹介してくれました。

 こんな超ローカルな情報を日経新聞東京本社文化部の記者が探しだし、自宅まで取材に来て文化面で紹介してくれたのが2000年(H12)5月2日の朝刊。全国版だから当時は400万部くらいあり、日経東京本社に問い合わせの電話が殺到し、FAX番号を知った人が駄目男に注文してくれて大忙し状態になりました。しかし、自分でコピー店でコピーするのだから、その後は朝から晩までコピーと発送にかかりきりという日々が何日か続きました。大阪近辺のコースなのに、東は東京や新潟から、西は福岡の人から注文を頂きました。一番遠い注文主はロンドンで暮らすどこかの大学教授で、当時、新聞の衛星版の発行ができていたので注文が可能でした。英文字のアドレスをみてびっくりしたものです。その後、注文は減りましたが、だらだらと売れ続け、約5年間でコピーした数が5万枚(三快道合計数)。本町通りにあるコピー店に100回以上通ったと思います。

 三快道のうち「さざなみ快道」に愛着があるのはコースの終点近く、滋賀県と福井県の境界を通る「深坂古道」への思い入れがあるからです。はじめてこの峠を越えたのは1987年5月、数人のグループで出かけたものの、想定外の手強い藪漕ぎ道で、というか、もう道の形跡すら無いような状態でした。(地形図には点線路が記載されていた)大難儀の末、なんとか麓の集落へたどり着き、帰りの電車に間に合いました。ルートを確かめるために、翌年、10月に一人で出かけたところ、福井県側に入ったとたん、高密度な笹藪に阻まれ、10m進むのにゼーゼーハーハーの状態、早々に諦めて退却しました。

 こんな悪路じゃウオーキングコースになりません。さりとて諦めるのは悔しい。この道、ただの峠道ではなく、昔は若狭や敦賀と京を結ぶ幹線道路で、若狭からは鯖街道、敦賀からはこの峠を越え、塩津から琵琶湖を経て都に通じる二大ルートでした。あの紫式部が父とともに越前の赴任地へ向かうとき、この峠を駕籠にのって越えた史実もあります。そんな有名ブランド道が廃道になっている。こんなことで委員会?

 思い余って敦賀市へ手紙を出しました。(宛名が誰だったか忘れた)京都から続く歴史街道が敦賀市のエリアでは廃道になっている。いま、全国で歴史街道の再評価、保存、観光地化が進むなか、この「深坂古道」もぜひ復元してほしい、と言う趣旨で訴えた。(本当は自分の趣味の実現が目当てでしたけど、それはおいといて)

 駄目男の手紙は「大阪のオッサンがなんか言うとるで」と無視されたと思いますが、その2,3年後、敦賀市の教育委員会と気比史学会という団体が古道復活の施策を唱えはじめ、敦賀市の公共事業として実施されたのです。完成は1992年。これでかつての難路はすいすい通れる「快道」に生まれ変わりました。1998年から発行した地図を使うウオーカーは何の苦労も無く歩けるようになりました。この峠道は、今津あたりの湖岸道とともに、さざなみ快道で一番人気のあるエリアになりました。新緑、紅葉の季節が最高に魅力的。ただ、この地域は熊の生息地なので、無防備の歩行は危険です。(注)その後、この道は環境省管轄の全国版自然歩道に組み入れられたかもしれない。

 千年以上の歴史を有する峠道がよみがえり、これに便乗した「さざなみ快道」はたった数年で役目を終え、泡沫(うたかた)のように消えてしまった。「山の彼方の空遠く・・」の宣伝に騙されて?地図を買い、実際に歩いて下さった人も年老いて次々鬼籍に入りつつあります。いま振り返れば、さざなみ快道は素敵な道と人に出会った「人生街道」でもありました。苦労したことは忘れ、
楽しい思い出だけが蘇ります。


深坂古道復活を伝える「福井新聞」(1992年)
さざなみ快道




ウオーキング・観光

ウオーキング・観光
10 /17 2019


●西高野街道を歩く

 昔「新高野快道」というガイド地図をつくったことがあって、これは東高野街道を快道メーカー流にアレンジしたものでした。東高野街道は主に京都方面の人が使った道、中高野街道は大阪の、そして、西高野街道は堺(泉州)の人がよく利用した道です。東高野街道、中高野街道は近世になってかなりの部分が国道に取り込まれてしまい、歩いて楽しむには適さない不快道になってしまいました。もしや、西高野街道は昔の町並みが残っているのでは・・そんな淡い期待を抱いて出かけたのですが、残念ながらハズレでした。

 起点は堺市の中心、大小路あたり、ここから河内長野へ南海高野線の西側、主に国道310号に沿って歩きます。観光案内所で10頁の立派なパンフをもらったので、そこに描かれている地図を頼りに進むのですが、地形図ファンにはなんとも頼りない、情報が少ない概略図です。かといって、この地図のコースを一般の地図に落とし込む(転記)するのも面倒で、そんなことするハイカーはほとんどいないでせう。

 幸い、自宅からはアクセスしやすいエリアだったので、毎回、午後出発の短区間歩きを4回続け、河内長野駅へゴールしました。1キロも引き返すといった大きなミスはしなかったけど、3~4回は道迷いしました。迷った原因はパンフの地図がアバウトであること、現地の道標などの整備不足です。このパンフは「西高野街道観光キャンペーン協議会」という団体が発行しているのですが、道標整備については自治体まかせにしているらしく、堺市ではそこそこ整備しているけど、大阪狭山市エリアでは「我関せず」となんの案内もない。これでは沿道各市が参加する「協議会」の意味がないように思えます。

 肝心の「歴史街道」風景はどうか。一部分でも古風な民家の連なる旧街道風景があれば、と期待したけど残ってませんでした。合計で7~8軒くらいは立派な古い民家が残っているけど(下の写真)歴史街道を20キロ以上歩いてこの有り様ではいささか物足りない。
 西高野街道を観光資源として整備、売り出すという意図はわかりますが、観光、ハイキングで訪ねてみる価値ありや、と問われたら「なし」と答えます。もっとも、これは自称「快道メーカー」の判断で、歴史街道であれば風景なんか問題でなく、全て是とするファンなら「価値あり」になります。この西高野街道の唯一の救いは国道とか幹線道路に取り込まれなかったことで、騒音や排ガスを浴びながら歩く場面はありません。但し、道幅が狭く、歩道の整備は皆無なので神経を使います。昼食ができる公園緑地、トイレは白鷺公園のみで、グループでの歩行には向かないコースです。

堺東駅前の観光案内所でもらった立派なパンフレット。イラストのような風景はどこにもありません。
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この略図で間違えずに歩くのは極めて難しい。
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沿道で見かけた立派な古民家の一部
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西高野街道と中高野街道が合流する「与津の辻」
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ウオーキング・観光

ウオーキング・観光
08 /18 2019



●開花予想は難しい

 長居植物園では7月はじめに企画した「ロータスウイーク」(ハス展)においてハスがまったく開花せず、来園者をがっかりさせました。続いて8月に「ひまわり展」を企画、期間は8月3日から18日までというふれこみです。ならば、8日ごろが見ごろだろうと出かけたところ、なんと、もう終わりかけていました。一部の花は残っていますが、ひまわり畑として鑑賞に値しないみすぼらしい光景でした。夕陽を浴びた場面を楽しんでもらおうと、開園時間を2時間も延長してサービスしたのに、パーです。ひまわりは暑さには強いというイメージがありますが、連日の35度超の酷暑でまいってしまったのでせうか。

 察するところ、オープンの3日頃にピークを迎え、以後、枯れ始めたと思われます。期間最終日の18日には一輪も残っていないかもしれません。ハスに続いてひまわりもチョンボということで、管理する園の職員さんもストレスが貯まってると思います。
 普通、このような企画は準備の期間を考えたら、遅くともオープン一ヶ月前にはチラシや幟の発注が必要でせうから、発注後にマズイと気づいても手遅れです。園内では、サルスベリも満開、又は散り始めという咲き方です。ふつうは8月末~9月が見ごろだから、これも開花が早すぎる気がします。経験による常識が通用しない、困ったことになってきました。

ひまわり 






ウオーキング・観光

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07 /09 2019



●ハスの開花なし・・長居植物園

 夏に見られる花で一番美しいのはハス。それが、今年はどうしたことか長居植物園では不作を通り越して開花ゼロの状態です。ロータスウイークと称してイベントまで用意していたのに全部オシャカになりました。 不作の原因は不明らしい。そう言えば、3年か4年前、滋賀県の琵琶湖ほとりのハス公園でも全滅状態になったことがありました。このときも原因不明だったような気がします。自然界にはシンプルで難解な「事件」が起きます。

 ハスを楽しみに来園した人はガッカリ。少しはなれたところに咲く睡蓮を眺めて我慢するしかない。こちらは例年通り豊作?できれいに咲いています。 


一輪もハスが見当たらない池
ハス全滅


急遽、園内の通路に鉢植えのハスが持ち込まれました。
ハス


睡蓮は普通に咲いています。
ハス 






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06 /15 2019


●トキワツユクサ

 西除川ウオーキングコースの最終区間、河内長野市小山田町の林で写真のような群落を見つけました。自分が名前を知らないだけで、すでに何度も見ている花かもしれないが、群落だとより魅力的に見えます。帰宅してネットで調べて名前を知ったけど、100%正解の自信なし、間違えてる可能性ありです。説明では、昭和の初期に園芸種として南米から輸入され、いつのまにか野生化した、という、よくある繁殖パターンの花です。


つゆくさ 


つゆくさ



つゆくさ 






 dameo

■10年続けた<快道ウオーキング>を改題しました。
■《手づくり本》の研究は、大事なことは紙に記録しようという、アナログ爺のレジスタンスです。お問い合わせは【拍手ボタン】押してコメント欄からどうぞ。内容は非公開です。
■下記のカテゴリーが趣味をあらわしています。
■ニックネームはdameo(丸出駄目男)です。
■1939年大阪生まれ