読書と音楽の愉しみ



●吉本ばなな著「キッチン」を読む

 ヒロインみかげは子供の時分に両親を亡くし、代わりに育ててくれた祖父母も亡くなって天涯孤独の身になった。そんな彼女をボーイフレンドの雄一が「うちで暮らしたら」と誘う。訪ねてみると彼は美貌の母親と二人暮らしで、みかげを暖かく迎えてくれた。しかし、いつまでも好意に甘えるわけにはいかない。そんなある日、ドッキリの事実を知ることになる。雄一の美しい母は男だった・・・。


 四天王寺の古本市の「一冊100円コーナー」で買った本。1988年発行だからもう30年も昔の「古本」であります。しかし、内容,表現は少しも古くさくなく、デビュー作とは思えないこなれた文章で読み出したらとまらない。努力の成果ではなく、持って生まれた才気が感じられる文章です。但し、たった60余ページで終わってしまう。雑誌に掲載した作品だから仕方ないが、これではいくら優れていても単行本にできない。なので、キッチン2を加えた。そんな出版事情は理解できるけど、「2」はなくもがな、であります。味が薄まってしまうのは仕方ないか。それでも近年の芥川賞作品なんかよりはずっと魅力的な作品であることは認めます。


題名のせいではないと思うけど、読者は女性が断然多いらしい。かつ、発行後30年を経ても本書をバイブルのように読み返す、手放さない人がたくさんいるようで、これは著者にとってこの上ない幸せでせう。で、この作品の魅力、奈辺にありやと思えど、文章の上手さ以外、老いぼれジジイにはいまいち分からない。身内をすべて亡くしてしまった女のコがそれでも明るく生きようとする、その切なさに共感する・・だけなら、ハーレクインレベルですが、その先にある抗いがたい孤独と死の暗示が、おねえさん、おばさんたちを「哲学」に導くのかもしれません。(1988年 福武書店発行)

キッチン








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●お寺 de ジャズライブ

 上町筋の少し西側、雲雷寺というお寺で長年ジャズライブをやってる・・こと知りませんでした。この寺は、界わいでは少数の日蓮宗の寺で、建物の趣が他宗と違っています。伝統にとらわれないデザインで、ライブの会場の講堂はほぼ洋風。ベンチ型の長いすはキリスト教会のそれと同じです。


出演は臨時編成の畑ひろし(G)光岡尚紀(B)冨永ちひろ(D)のトリオ。そして、ヴォーカルのヨシノミナコ。畑さんはあちこちのミニライブで、光岡さんはKAMAPABUで、なんどか聴いたプレイヤ-。冨永さんはジャズでは少数のドラマーで、小さい体格なのに男顔負けのパワフルな音をたたき出す。ヴォーカルのヨシノさんは三十路と思しきシンガーですが、好きでやってるとはいえ、世間に人材がありすぎて埋没を余儀なくされるのが現状。CDを自主制作してもぜんぜん売れないとボヤいていましたが、同業にみなさん、すべて似たようなものです。


聴衆(150人くらい?)のお目当ては畑さんのギターだと思いますが、まったくよどみのない、かつ、細部のテクニックに凝った演奏はお客さんを十分楽しませたと思います。メロディラインを奏すれば、ピアノやキーボードよりずっと魅力的な演奏です。大阪芸大出身では今、もっとも人気のあるギタリストだと思います。(5月12日 参加費千円)


変わったデザインの鐘楼と講堂
お寺ジャズ 


演奏風景
お寺ジャズ 






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●森まゆみ編「森鴎外珠玉選」を読む

 ときに、子供じぶんに読んだ短編の名作を読む。今回は大活字本で「舞姫」「山椒大夫」「高瀬舟」ほかを読む。一番の魅力は読後のしみじみ感。「高瀬舟」を読むのは三回か四回目だけど、毎度思うのは「もうチョット先まで書いてもらえまへんか」という勝手な願望。なんか,映画のラストシーンを見逃してしまったようなもどかしさを感じる。あと1頁か2頁足して不幸なドラマにオチをつけてほしい。(そんなサービスは不要、現行のママが最良というのが世評だと思いつつ)


「舞姫」は鴎外の青春時代の体験をもとに書いた恋愛小説ですが、相手の女性が帰国した鴎外を追って日本へ来たというから、ちょっとした事件です。しかし、恋は成就しなかった。(森家が許さなかった)それは仕方ないとしても、鴎外はこれをネタにして他人事みたいに小説を書き、世に問うのだから「鴎外、お前もワルよのう」と、誹りたくなります。


「山椒大夫」は江戸時代の説教節「さんせう大夫」を鴎外流にリメイク
した物語。高貴の家族が一家離散の目に合う話ですが、ネタになった「さんせう大夫」はえげつない残酷物語で、それは因果応報、地獄極楽のさまを庶民に分かりやすく説くための演出と思われる。鴎外は、これじゃ世間に受けないと筋書きや表現を大きく変えた。そのさじ加減が良かったのか、今日は教科書に載るくらいの名作と評されています。もし、別の作家が別の解釈でリメイクしていたら「名作」たりえたか分からない。(2013年 講談社発行)


森鴎外 


金正恩は現代の「さんせう大夫」
現代感覚でいえば、山椒(さんせう)大夫は北朝鮮の独裁者、金一族と言えます。なんの罪もない少年少女(安寿と厨子王)を拉致し、こき使う。反抗すれ半殺し、なぶり殺しにする。作り話とはいえ、拉致被害者の関係者は辛くて読めない物語です。場所の設定が越前や越後など日本海側の海岸や島になっていることも耐えがたい。


説教節によれば、悪の権化「さんせう大夫」は当然、報いによってこれ以上無い残酷な殺され方をする。しかし、鴎外の「山椒大夫」はぜんぜん違って山椒大夫(金一族)と報復者(厨子王)はミョーな妥協をしてしまう。金は殺されないという結末です。厨子王と山椒大夫を日本政府と金正恩に置き換えれば、昨日今日の現実世界ではありませんか。(2013年 講談社発行)


見えてきた・・独裁者の末路
 現代の「さんせう大夫」金正恩が突然、中国を再訪して習近平と会談。なんのために? 核問題云々はプレス用の発表、ほんとうは金が習近平に「たたた、助けて下さい、私を見捨てないでください」と土下座して命乞いした、というのが駄目男の想像。キンペイは手のひらに金豚をのせて「ウブよのう金豚君、トランプごときにビビったりして」とニンマリ。北朝鮮の運命は中国に委ねられることになった。


金正恩は夜ごと悪夢にうなされているのではないか。自分の末路の姿がハイビジョン画像で浮かぶ。悪夢のモトはトランプが新たに指名したボルトン大統領補佐官だ。軍事的解決を辞さない強面男。そして、彼がチラと述べたのが「核問題の解決にリビア方式を参考にする」の一言。欧米の圧力によって核開発は中止、関連施設の廃棄に追い込まれた。のみならず、独裁者、カダフィー大佐は内乱のさなか、反カダフィー派の兵士に射殺された。血まみれの遺体は兵士たちに踏みつけられた。さらに、遺体はショッピングセンターの大型冷蔵室で群衆に公開された。核開発では同志だったリビアの独裁者の末路である。


米国等による「斬首作戦」、政権内部者による「暗殺」のリスクはますます高まる。いや、そんな暗い発想ではなくて、奇蹟のように平和的な解決がなされ、北朝鮮は民主主義国家として歩むことになったとする。(このあおりで韓国が崩壊するかもしれない)そのリーダーとして国民は金正恩を選ぶのか。否、であります。で、彼の最も幸せな将来は亡命生活でせう。もしや、今度の会談でこれを懇願したのではないか。



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●養老孟司:隈研吾著
 「日本人はどう住まうべきか」を読む

 隈氏はいうまでもなく、オリンピックスタジアムの設計者。(この本を出したときは、五輪の話はまだなかった)両者の因縁はなにかというと、共に栄光学園というカトリック系の中高校出身であること。どうやら、養老センセが隈氏の仕事ぶりに興味をもってこの本が出来たらしい。


2011年の東日本大震災から10ヶ月ほどたって、日本人はどこにどんな住まい方をすれば良いのか、改めて考えてみようという反省や希望を自由に語っている対談本です。しかし、壮大かつ抽象的テーマなので両名とも言いたいこと言いっぱなしの感があり、オチがつかない。まあ、結論に導く必要もないのですが。


日本人の住まいに関するスタイルは未だに高度成長期のマイホーム感覚を引きずっている。郊外の一戸建てか、都会のマンションか、先祖から引き継ぐ土地、家の継承か、であります。そして持ち家の主の多くは生涯の大半を住宅ローンで縛られる。どこへ住もうと全く自由なのに、不自由に耐えてしがみついてる人が多い。そこで、養老センセは「参勤交代」という暮らし方を提案する。江戸時代の殿様のように、本家と別宅(江戸)を行ったり来たりする暮らし、現代でいえば、都会とローカルを上手に住み分けるライフスタイルをすすめます。


お金持ちは、それを別荘というかたちで実現しているが、庶民も別荘はムリでも田舎の別宅の感覚で実現しては、という。これで都会の過密と田舎の過疎の問題解決に少し役立つのではないか。過疎地の不動産価格がどんどん安くなっていることを考えれば、庶民でも実現できるのでは、とのたまうのであります。ま、御説ご尤もで、在宅ワーク等の働き方改革が進めば普及するかもしれません。しかし、二軒の家を所有しつつの参勤交代は余程不動産価格の低下がなければ難しい。そこんところは「だまし、だまし」の柔らかい発想で対応しようと言うのですが。


それはさておき、隈氏のデザインする建築は、安藤忠雄氏と対照的な表現であることから、当分は人気を二分する建築家として知名度を高めると思います。丹下健三や黒川紀章のように大家ぶらないところが隈氏のよいところで、なんか年中Tシャツ姿で仕事してるみたいな印象がある。読んだことないけど、「負ける建築」なんて本を書いてるのもこの人らしい。大阪では朝日放送の社屋が氏の設計です。(2012年 日経BP社発行)


yourou takesi honn  





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●筆坂秀世著「日本共産党と中韓」を読む

 18歳で日本共産党に入党、以来約40年間活動し、党内で第4位の政策委員長まで務めた筆者が、党の歴史やもろもろの内情に愛想をつかして離党し、今じゃ共産党とは真逆の保守の立場でモノを言ってるのだから、まあ、難儀な人であります。本人は生涯に全く異なる二つの思想を学ぶ希有の体験ができたとハンセーしているようすもない。こんな人物を出世させた共産党も人を見る目がなかった。離党するだけでなく、本書では堂々と共産党の悪口を述べてるのだから、くそ、どついたろか、このがきゃ~~、と切歯扼腕であります。日本以外の国でこんなに変身したら暗殺される可能性もある。


■根っからの「護憲政党」はウソ
 共産党は最も強力に「護憲」を唱えてる政党であります。二言目には「平和憲法を守ろう」と言ってる。なので、筋金入りの護憲派みたいに思ってしまうけど、それは間違い。逆に、唯一「改憲」を唱えていた党だった。
 新憲法の草案に関して、1946年8月に野坂参三はこんな演説をしている。天皇制の存続には反対、というのはわかるが、憲法九条の草案については「当草案は戦争一般の抛棄を規定しております。これに対して共産党は他国との戦争の抛棄のみを規定することを要求しました。さらに、他国間の戦争に絶対に参加しないことも要求しましたが、これらの要求は否定されました。この問題は我が国と民族の将来にとって極めて重要な問題であります。ことに、現在の如き国際的不安定の状態のもとにおいては特に重要である。現在の日本にとって、これ(第九条の草案)は一個の空文に過ぎない。われわれは、このような平和主義の空文を弄する代わりに、今日の日本にとって相応しい、また、実質的な態度をとるべきと考えるのであります。要するに、当憲法九条の二項は我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それゆえに、わが党は民族独立のためにこの憲法に反対しなければならない」(223頁)


なんのことはない、自衛のための軍事力は必要だ、と主張している。以後の共産党とは真逆の思想であります。「一貫して護憲を唱えていた」なんてウソでした。現在よりずっとリアルに世情を見ていたとも言える。こんなカッコ悪い前歴があること、今の党員さん知ってるのでせうか。


■東京裁判を〇とする共産党
 反米を看板にしている共産党なのに、米国が主導した東京裁判(極東国際軍事裁判)には文句を言わない。なにもかも日本が悪かった、の見方にハイその通りと従順であります。ま、戦前、戦時中に弾圧された恨みがあるから、心情はわかりますけどね。今さら異を唱えても仕方ない裁判でありますが、東京裁判を不当とする考えはずっとくすぶっている。どんな裁判であれ、基本のキは中立の立場で行われるべきなのに、東京裁判は勝者が敗者を裁いた裁判だった。日本への復讐を正当化するための裁判といってよい。


それなら、もし、日、独、伊の連盟が勝者になったばあい、この三国で米、英、仏、等の敗者を一方的に裁いてよいということになる。米英仏にどんな罪をかぶせて裁くのか。ヒトラーが勝者側にいるなんて悪夢でありませう。ほとんどの日本人は東京裁判の正当性になにほどの疑問ももたないが、これこそGHQによる洗脳の効果であります。


■原爆は人類に有益ともいった共産党
 原子力発電所は廃止、も日本共産党の看板政策であります。東日本大震災以後は原発=悪と決めつけている。しかし、歴史を遡ればこれもウソでした。敗戦時点では原爆や原子力に関する知識が十分ではなかったために、おそろしく次元の低い原子力論がまかり通っていた。今なら小学生にも笑われそうなお粗末な話がある。1948~1950年ごろに共産党は「原爆パンフ」等の啓蒙誌で原爆(原子力)の怖さと有用性をPRしている。


「独占資本主義のもとでは原子力は動力源として使えず、爆弾としてしか使えない。なぜなら、原子力(発電)を動力源にすると、資本主義は生産過剰になり、世界恐慌に突入する。それに対して、社会主義のソ連では平和産業が発展する」「原爆で大きな川の流れを逆にするとか、大きな山を取っ払って、これまで不毛の地といわれた広い土地が有効に使われる」云々・・。同じ原子力(原爆)でも,資本主義国が使うと不幸をもたらすが、社会主義国が使うと、平和と繁栄に役立つ、そうであります。読む方が赤面するような幼稚な原爆論を当時の最高幹部が書いていた。(183頁)


共産党は野党のなかでは一番の老舗であります。老舗のわりには不細工な過去しかないということを本書は暴いている。それはさしおいて共産党に明るい未来はあるのか、といえば、ありませんね。党員、シンパの高齢化が進んでるのに若者は明快に共産党が嫌いであります。財政難で党の運営もままならなくなり、政府に政党交付金を申請する事態になるかもしれない。そのとき、日本共産党は「死んだ」といわれるでせう。(2015年 ワニブックス発行)


日本共産党 







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●加藤達也著「なぜ私は韓国に勝てたか」を読む

 2014年7月に起きた「セウオル号沈没事件」に関して産経新聞ソウル支局長の加藤氏が朝鮮日報の記事を引用してパク大統領の行動をチクるようなコラムを書いた。事件当日、国中が大騒ぎをしている中、事態の率先指揮をとらねばならない大統領が数時間も行方不明だったのはなぜか。もしや、ある男性と会っていたのではと半分推測で書いたのが大統領や韓国政府要人の逆鱗にふれ、起訴された。しかし、ネタ元である朝鮮日報にはなんのお咎めもなかった。


一番無難な解決法は起訴事実を認め、韓国政府に謝罪することですが、加藤氏はその方法をとらなかった。無罪を主張して争う姿勢をとり、結局、500日くらい裁判を続けて無罪を勝ち取った。そのレポートが本書であります。相手が文明文化においていまだに三流国である韓国なので、いわゆる常識や正論が通らない。何が事実かで争うのではなく、基本は検察や国民の感情におもねるのだからタイヘンであります。露骨には書いてないけど、大統領から一般国民まで、韓国人の民度の低さに辟易したでせう。


客観的事実より国民感情を優先して物事を決めるのが韓国人であります。それは朴政権だけでなく、歴代政権すべてがそうだった。2005年、盧武鉉大統領の時代には「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」という法律をつくった。日本が統治した時代に、親日思想の韓国人が日本相手の貿易などで得た財産は国家が没収してもよい、というトンデモ法です。過去に遡って親日派だった韓国人の罪を問い、財産を没収する。しかも、この「感情優先」の法律は憲法より優先してもよいと。まあ、アフリカの途上国でもこんなけったいな法律はつくりませんけどね。


100年昔の「親日」は厳しく罰する。しかし、昨日、今日の「反日」行為は大甘で見逃す。これが韓国政府の思想であり、国民の世論だから付き合いきれない。そんな世論を吸い上げて「反日」思想をあおるのが韓国メディアで官、民、メディアが一体になって日本憎しのボルテージを上げる。で、検察は加藤氏をなんとか有罪にしようと苦労を重ねるが、ネタが揃わない。とうとうネットの「2ちゃんねる」の投稿文まで持ち出して「韓国大統領の名誉を傷つけた」と主張する始末。結局、検察の努力空しく、加藤氏は無罪となった。加藤氏ならずとも「アホクサ」の一語に尽きる下らない裁判だった。


時は過ぎ、当の朴前大統領はムショ暮らしの身となった。加藤氏の裁判なんかどうでも良かった。自らの不始末で懲役24年、罰金18億円の実刑判決を受けた。刑の満期時は90歳になる。彼女を重罪に陥れた文大統領もいずれはミジメな末路をたどる。そうならないために、目下、北朝鮮との平和ごっこに邁進中であります。(平成28年 産経新聞出版発行)


加藤達也本








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●冨野治彦著「円空を旅する」を読む

 日本の歴史上でスーパーマンと言える人物3人を挙げよ、と言われたら、空海、役小角、円空、の名をあげます。身体能力抜群のうえに霊感をまとった超俗の人、という条件で考えるとこの三人です。と、いいながら、円空については皆目知らないので本書を読みました。三人のなかで最も新しい時代に生きたので情報もたくさんあるのですが、それでも「?」がけっこうある。出自、生い立ちについても諸説あってよくわからない。


「わしは生涯に12万体の仏像を彫るぞ」と言って全国行脚し、大は2mくらいの大作から、2,3センチの、キーホルダーみたいな小さい「木っ端仏」まで彫りまくったのであります。12万を数えた人がいるのか不明ですが、現在でも5000体くらいの像が残っているから、12万はホラ、ハッタリとも言えない。・・と、書きながら、円空さん自身、ちゃんと数をカウントしたのかしら、と素朴な疑問も湧きます。(10万目に達した、という本人の墨書きがあるので、本当に数えていたかも)


なにしろスーパーマンですから、新幹線も自転車もないのに、北海道から東北、関東、東海、近畿まで、歩きに歩いて、かつ現地で彫刻作品を残した。宿なんかなくても、洞窟や崖下で雨露をしのいだ。霊感を得るために厳しい山登りもいとわず、青森の恐山や大峰の山上岳にも登っている。美濃生まれの円空だから、伊吹山は「ふるさとの山」だった。


経歴はさておき、円空作品の魅力は、伝統様式や時代感覚にとらわれない優れた造形力にあります。木を見つめ、木のクセを読んでイッキに鉈(ナタ)で彫り、刻む。作業をはじめたら最後までノンストップで掘り続ける、という感じです。ゆっくりと、丁寧に・・の真逆の制作方法だと思います。そのスピード感や力強さが造形に反映される。300年前の制作とは思えないモダン感覚が観る者を魅了します。


円空は彫刻作品制作だけでなく、約1600首もの歌を詠んでいる。12万の仏を刻み、1600の歌を詠み、経典にも詳しい・・のであれば大変な教養人でもあります。いったい、どこでそんな修養を積んだのか。空海とともに、スーパーマンの上に「インテリ」の冠を載せてもいい偉人です。1695年(元禄8年)64歳で没。(2005年 産経ニュースサービス発行)


円空 


秋葉大権現像
円空 



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●「相撲」江戸時代は女人禁制ではなかった

 三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は江戸風俗研究の大家で膨大な文献を残したが、そのコンパクト版が稲垣史生編集の「江戸生活事典」。コンパクトといっても500頁に細かい文字がぎっしり詰まっているので読むのは大変であります。自らは明治生まれなのに、江戸の市井の細部を自分で見てきたかのように書く。現代でいえば、杉浦日向子さん(故人)のような「江戸のことなら何でも訊いてんか」の博学者でありました。


江戸時代の相撲についてもあれこれ書いていて、現代の相撲の原形は元禄時代に成立したと述べている。原形とは勧進相撲、すなわち「興行」としての相撲が世間に広まったとことをいう。勧進元(プロモーター)と力士と観客による興行で、現代と同じです。しかし、大事なことが違っている。興行する場所が国技館や体育館ではなく、神社やお寺の境内だった。浄瑠璃や歌舞伎は専門の芝居小屋を作って興行するが、相撲にはそんな発想がなく、神社、お寺で場所を借りるのが普通になった。そのベースになったのが深川八幡宮だそうです。


現代でも横綱が明治神宮などで土俵入りのセレモニーを披露することがあるのはその流れでせう。神さまに奉納するから神事というイメージが浮かぶけど、本書には相撲が神事という要素をもつことは触れていない。基本的に芝居と同じように娯楽だった。少なくとも観客は娯楽として楽しんだ。興行期間は10日間が普通だった。


今問題になっている土俵への女人禁制、江戸時代は「女相撲」もあったから当時は禁制もナシだったが、いっとき大人気を博したことでかえって風俗上の問題が起き、結局、幕府によって禁止された。風俗のなにがダメだったのかは書いてない。女人禁制の風習は明治以後にできたことになります。今どき女人禁制なんて時代錯誤も甚だしい。全部撤廃するべきという考えに賛成でありますが、たとえば、歌舞伎にこれを認めると歌舞伎のシステム自体が崩壊してしまうことになり、歌舞伎を見たことがない人は大方賛成するでせうが、少なくとも多数決で決めるものではない。歌舞伎を女性に開放せよ、と言う人は、当然、宝塚を男性に開放せよ、も言わなければならない。理屈と現実の乖離はなかなかに大きいのであります。

江戸事典

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●畑尾一知著「新聞社崩壊」

 著者は朝日新聞の販売局に定年まで勤めた人だけど、タイトルで言う新聞社崩壊は朝日新聞のことではなく、新聞業界全体の崩壊を懸念するもの。販売サイドから見た業界の実情をレポートしています。

新聞の購読部数はドカドカ減っている。
2005年には5000万人の読者がいた。
2015年には3700万人まで減った。
2025年には2600万人まで減ると予測する。
 つまり、20年間に読者は半分に減ってしまう。全国には90社の新聞社があるが、いかほどが生き残れるのか。現在、購読者の中心は60~70歳代ととても高齢化している。2015年の調査では、50歳代の購読は40%しかない。一番読んでほしい世代が新聞を読まないという結果は衝撃的であります。


なぜ新聞はこれほど嫌われるのか。
・値段が高い
・記事が劣化した
・新聞社自体が嫌われている

こんな紙の新聞なんか読まなくても、情報はネットで得ることができるから不要。こうした風潮が一般化して新聞はアナログ老人御愛用の読み物になってしまった。しかし、ネット情報の多くは新聞社の取材によるものというのも事実であります。ここんところの案配が難しい。


全国紙5社で生き残れるのはどこか。
勝ち組・・朝日・読売・日経
負け組・・毎日・産経
 販売部数、生産性。財務内容からみてこれは決まりです。逆転はほぼあり得ない。問題はいつギブアップするかでせう。もっとも、毎日は十年以上前からコケそうと言われてきたが、まだ踏ん張っている。産経は東京と大阪しか拠点がないから実質ローカル紙でせう。自己資本比率など基礎体力の面で両社は常にアブナイ状態です。


なんで負け組になってしまったのか。毎日は戦中、戦後の業績が絶好調で慢心が生まれ、次世代での投資をさぼったことで朝日と読売に大差をつけられた。焦って追いかけたが時既に遅し、借金ばかり増えてピンチに陥る。産経は大阪発祥だが調子にのって東京に進出したものの、部数は伸びず、拡販資金も足りない。無理に先行投資した負い目がいまだに経営を圧迫している。中日新聞のように大阪で頑張れば良かった。


若者から見れば、新聞社って[将来性のない企業」の見本みたいで優秀な人材を取り込むのはきわめて難しい。で、著者が言うには今の経営形態をがらりと変える、例えば全く別の資本がオーナーになるとかの革新が必要だ。しかし、かのマードックがそれをやってゴタゴタだけ残した例もある。ただ、旧来の新聞社がオーナーであることは必須ではない。なんらかの大転換は必要であります。ま、すでに計画を練ってる社があるかもしれない。


新聞を読まない人が増えるとどんなことが起きるか。選挙の投票率が下がるという事態が起きる。これはなんとなく分かります。選挙情報は今でも新聞に頼るところが多い。世間の有り様が一目でパッとわかる・・これは新聞の強みです。スマホでは感得しにくいでせう。

 著者は新聞の改革で以下のような提案をしています。

・値下げ
・夕刊の廃止
・サイズを小さくする(現在の半分にする)
・人件費の抑制
・販売店の経営多角化 など。

これらの提案には賛成です。上の三項目はぜひ実現してほしい。

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●又吉直樹著「劇場」を読む

 芥川賞受賞作「火花」は芸人の話、本書は演劇人(自称、脚本家、演出家)の話。読み始めると「火花」より読みやすくて文章もこなれている。しかし、半ば過ぎて、友人とメールで悪口兼演劇論を交わすあたりから退屈になる。難解な議論をスマホのメールでやりとりするに及んで読者のほとんどはシラけてしまうでせう。しかし、これを省けば安直なラブストーリーになってしまうから外せない。著者の自己満足であります。

ストーリーは、食うや食わずのしがない演劇人の失恋物語。自称、脚本家のくせに彼女との会話に四苦八苦し、結局、振られてしまうのでありますが、そのダメ男ぶりをいかに文学的に表現するか、がキモでせう。主人公がコテコテの大阪弁を通すことでそれなりの情感は醸し出せるのですが、もし標準語に置き換えたら陳腐この上ないメロドラマになること必定であります。又吉さんは標準語での愛の会話は生涯書けないのでは、と予感。(本人がシラけたりして)むろん、生涯、大阪弁でもかまわないのですが、物語のつまらなさが表現で救われている感は免れない。


昔、石原慎太郎が選者であったときは、作者のみみっちい世界観を「身辺10mのことしか書けない」といつもくさしていましたが、又吉さんも芸人や演劇世界に拘泥しないで、身辺100キロくらいの視野でテーマを選んでほしいと思います。(2017年 新潮社発行)

本、劇場 






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●マックス・フォン・シュラー著
太平洋戦争 アメリカに嵌められた日本」を読む

日本が嫌いな反日分子がいるように、アメリカが嫌いなアメリカ人もほんの少しいるらしい。本書の著者もその一人で、太平洋戦争をネタにちくちくアメリカの悪口を述べている。だからといって日本人を誉めてるわけでもない。・・という、かなりひねくれた発想の日米論であります。


これといった新しいネタはないけれど、アメリカ人の日本人に対する憎悪、蔑視の感情は不変であること肝に銘じておくべし、という。かの戦争においても、米国はハナから日本を見下していた。戦争は半年もあれば米国の勝ちで終了すると読んでいた。しかし、現実は4年間もかかった上に米国兵にも何十万という死傷者を出してしまった。怒り心頭であります。いささか短絡した見方だけど、その怒り、憎悪が日本人が誇る?平和憲法に反映されている。九条の一、二項で戦争の放棄、一切の武力を持たない、交戦権を認めない、とあるのは、平和を希求する思想ゆえではなく、日本を二度と白人社会(米国)に刃向かわせないためのお仕置きとして定めたものである。これは憲法の成立に関心ある人の常識でありますが、護憲派の人は知りたがらない。原案はGHQがつくったということすら知らない人がいる。


日米安保に関する著者の考えもややひねくれている。米国が日本各地に大規模な軍事基地を配置するのは、アジア諸国に睨みをきかせることと、同盟国である日本を守るためであるというのがタテマエでありますが、著者の見方は違う。もし、米国が軍事基地を撤退して、その代わり日本が自ら軍事力を増大することになれば、かつての悪夢が・・つまり、日本が強大な軍事力を背景に米国に楯突く事態が起きるかもしれない。日米戦争の再来であります。軍事力を含めた国力において米国より強い国家の存在は許さないという基本思想は変わらない。


そんな強気の一方で米国の国力は衰退しつつあると著者は嘆く。天然資源の枯渇(特に水資源)や国民の知的レベルの低下(教育内容の劣化)などが深刻だという。移民ではないのに、英語を話せない、書けないアメリカ人が増えているなんて俄に信じがたいけど、なんとなく認めてしまっているのが現状だという。米国人が尊敬する米国人は金持ちだけであり、決して教養人ではない。そんな国がいつまで一流国でおれるのか。(2015年 ワック株式会社発行)

アメリカに






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●第158回 芥川賞受賞作品を読む

■若竹千佐子著「おらおらでひとりいぐも」

 今回は63歳と54歳の元気おばさん二人が受賞。両書ともおばさんのエネルギーが文面にも表れていて退屈せずに読むことが出来ました。東北弁のタイトルは「自分は自分でひとり生きていく」という意味らしいけど、このユニークな題名で30点くらい稼ぎましたね。著者は岩手県遠野の出身です。全文中に東北弁をどれくらいにブレンドするか、長いフレーズを使わないとかよく考えて書いてあり、ユーモアという「ふりかけ」をまぶしたような仕上がりになっています。


内容は、主人公、74歳の桃子さんの人生哲学が語られます。著者の実年齢より10歳上に設定したことで老境の何たるかはイメージしやすい。夫に先立たれ、世間並みに喪失感を味わって何を頼りに生きようぞと悩みつつ、されど子供の世話にはなりたくない。自分は自分、凡庸なおばさんなりに積極的に世間に関わっていきたい。・・これは著者の思いを桃子さんに託した生き方で、読書好きが小説講座に通う動機になり、実際、8年間も通ったのだからエライ。この地味な下地づくりが一挙に開花して芥川賞受賞に至りました。


ところで、本文の中ほどに故郷の山を懐かしむ場面があって山の名は「八角山」という。郷里を取り囲む山のなかでは一番高いけど、キリッとしない凡庸な姿で、桃子さんの子供じぶんは嫌いな山だった・・。本当に八角山はあるのだろうか。つい気になって遠野の地図をググってみると、そんな山はない。しかし「六角牛山」(ろっこうしさん)があって標高は1293m。この名前で再度ググってみたら、下の写真が見つかりました。なるほど、ハンサムではない山容だけど、どっしりした包容力のあるかたちでもある。遠野三山の盟主だそうです。大阪府民にとっての金剛山みたいな存在感ある山でせう。


岩手県遠野の六角牛山(小説では八角山)
芥川賞  


■石井遊佳著「百年泥」
 
 インドに住む大阪生まれのおばちゃんが、書くからには芥川賞とったるでえ・・と全力投球で書いたインド暮らし混沌物語。年老いて感受性鈍った駄目男にはこの混沌や話の飛躍が苦手になっていて、へ、なんの話やったん?フガフガ、と立ち止まる場面が増えた。選者のセンセイ方はしっかり理解されておられるのでせうか。本当はインド暮らしの日常を描いてるだけなのでありますが、この本では2時間ごとに大事件がおきているかのような書きぶりで、退屈はしないけどアタマがこんがらがってしまいます。


虚実ない混ぜ、という言葉があるけど、交通大渋滞のなか突然「飛翔通勤」なんてのが出てきます。サラリーマンが渋滞を避けるために翼を生やして空を飛んで会社にやってくる。え? これってSFなん? いいへ、冗談ですよ、ジョーダン。大阪のおばちゃんやゆうてまっしゃろ。
 全く文学的にどうでもいい話の羅列のなかにインドという国の暗黒面がちらちら出てき、なにはともあれインドには住みたくないな、と思ってしまう。普通は何年か住めばその国に共感や愛着が湧くものですが、石井おばさんにはそれがなさそう。アカンもんはアカン、であります。


中国やインドは国土の広さ、人口の多さ、民族の多様さゆえに、文化を一つの言葉でくくってしまうことはできない。その点、日本はなんとわかりやすい国であることか。方言はあるにせよ、どこへ行ってもワンパターンの言語でOKという有り難さを再認識しなければなりませぬ。日本の文化を語るに「混沌」という語彙は大げさかもしれない。「混合」くらいで良いのではとおもいますが。


月刊「文藝春秋」誌 3月号に掲載
芥川賞  




読書と音楽の愉しみ



●村上春樹著「1973年のピンボール」を読む

 表紙のイラストが洒落ているので何気に手にした文庫本。読んでみると、文章はいかにも「文学やってます」ふうの、というか、芥川賞作品にある文体で、それは良いが何を伝えようとしているのかさっぱりわからない。分からないままプッツンと終了してしまう小説であります。


氏の作品は二度芥川賞の候補になったが受からなかった。しかし、そんなことに関係なく、毎年のようにノーベル賞受賞の噂が立つほどの人気作家であります。固定ファンも多いらしく、感想や評をブログに書いている人がたくさんいる。しかし、この作品については「よう分からん」と正直に述べていたりするので駄目男がワカランのも当然であります。


ピンボールって何?・・日本では戦後流行ったゲーム機の一つで、スマートボールの進化したもの、いまどき街では見当たらない。しかし、これが小説の主役ではなく、狂言回しのように扱われるモノでしかない。この作品は、デビュー作「風の歌を聴け」の次に発表されたそうで1970年ごろの世相がよくわかります。男は全部ヘビースモーカーとか。ワープロのない時代だから英語の翻訳原稿を書くときは「鉛筆を6本、きれいに削ること」が仕事を始める準備作業だったりする。


「1973年のピンボール」という題名は大江健三郎の「万延元年のフットボール」をいちびったもの、諧謔だそう。ノーベル賞作家をいちびったのが祟って村上サンは賞をもらえないのか。そんなことありませんね。(2004年 講談社発行 初出は1980年3月号の「群像」)

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夜店で見かけることがある素朴マシン
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著者がイメージするのはこういうタイプか
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読書と音楽の愉しみ



●ホームレス川柳「路上のうた」を読む

 「ビッグイシュー」という英国の雑誌の日本語版を路上で売る人を見かけたことがあるでせう。彼らの多くがホームレス経験者です。この本はビッグイシュー日本語版の編集者が集めたホームレス川柳。おなじみ、サラリーマン川柳ほどのひねりはないけど、生活実感がこもってると言う点ではひけをとりません。地べたから空を見上げる、地べたで風に吹かれる・・厳しい暮らしのなかでもユーモアを失わない人がいる。薄い文庫本に掲載された約300句の中から駄目男の「お気に入り」を紹介します。(2010年 ビッグイシュー日本発行)


花びらの 押し花つくる 段ボール


盆が来る 俺は実家で 仏様


お正月 餅もらえども コンロなし


初詣 さい銭なくて 投げたふり


並び食い カレーを箸と 紙皿で


夜に雨 深い眠りの 頬濡らす


さあ寝よう 夢の中では 一般人


百均も わが暮らしには 高級品


アルミ缶 昔は捨てた 今拾う


嫌だなあ 炊き出し来る人 みなわかる


久しぶり 漢字書く手の もどかしさ


身内より 世話になります 他人様



ホームレス







読書と音楽の愉しみ



●高樹のぶ子著「ショパン 奇蹟の一瞬」を読む

 小説家がショパンについての思い入れを書けば、それは伝記ではなく、フィクション味濃厚になること承知で読む本。テーマごとに関わりのあるピアノ曲を付録 CDにしているのは気の利いたサービスでありますが、文章のイメージと合わないこともある。


本書を著すために著者はプロのカメラマンとパリや南部のノアンを旅した。これもサービス精神のあらわれでせう。おかげで、読者はショパンの生活環境をも知ることができる。尤も、著者が一番書きたかったことは、ショパンの人生を支えた愛人、ジョルジュ・サンドとの濃密で複雑微妙な「愛の暮らし」だった。そこは小説家、まるで二人を間近で見ていたような表現で心の中まで描いている。


もっとも良く知られている曲のひとつ、ポロネーズ第6番「英雄」が生まれたときの場面を小説家はこう書く。(61頁)
 
「やがてうねり波打っていた地の底から、屈強の王が立ち現れる。絶対的で正しい、見上げるばかりの尊厳に満ちた王。ショパンはその王があまたの臣下を引き連れて動き出すのを指で追った。王を記述するショパンの指が、王の強さゆえに震える。いまこうやって、王を讃えることができる自分はなんと幸福な男だろう。(略)ショパンの中に湧き起こった激情を王はすべて受け止め、その容姿と行動で彼の気持ちをさらに強く確かなものにしてゆく。ショパンは王にひれ伏すように鍵盤を叩きつけ、王の声を確認すると素早く譜面に定着していった」(引用終わり)


この文を読むと、王とは祖国の救世主のように想像してしまうけど、さにあらず、王とはショパンの亡き親友、ヤン・マトウシンスキのことだった。ショパン自身、自分は長生きできないと覚悟しているのに、ショパンの一番の理解者、応援者が先に死んでしまった。異国の地で、祖国ポーランドへの夢を語り合った唯一の友はショパンにとって英雄(王)に値した。


本書は、主にショパンと愛人、庇護者であるジョルジュ・サンドとの関係をテーマにした読み物ですが、他の切り口で描いたショパン像もあるので、その本があれば読んで見たいと思います。ポーランド国民にとって最大の英雄はショパン。異国で活躍し、生涯、祖国へ戻らなかったのになぜ英雄なのか。芸術だけではなく、地政学的興味もあります。(2010年 PHP研究所発行)

ショパン







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●久松達央著「キレイゴトぬきの農業論」を読む

 繊維メーカー「帝人」で営業マンだった著者が、知識も経験もないのに農業に首を突っ込み・・といえば、なんだか異事業参入の苦労話を想像しますが、そうではなく、至って醒めた感覚で農業を語っている本です。農業にロマンを抱く人には冷や水を浴びせるような物言いもある。


著者は基本的に有機農法、無農薬栽培で野菜をつくり、個人契約者と料理店を対象に約50種類の野菜を販売している。農地は3ヘクタール、スタッフは6人という小規模経営です。農業のプロだった人は一人もいないという素人農家ですが、アタマを使えば素人でもなんとかなる、の見本でせう。逆に、情熱だけで農業を起業してもほとんどは失敗します。


自ら有機農法を取り入れながら、こう書く。
・有機だから安全・・は間違い
・有機だから美味しい・・も間違い
・有機だから環境にいい・・も間違い

と、いささか薄情な言い方ですが、説明を読めば納得できます。有機農法は正しいなんてキレイゴトに乗せられてはいけない。実際、この「神話」を信じて有機農法に取り組み、あえなく廃業した例はいっぱいある。


著者の経営方針は「野菜の美味しさのわかる少数の人に、値段は高いが最高の品質の野菜を買ってもらう」こと。つまり、お客さん全員が常連さん、顔見知りです。ええ加減な商品を届けたら「もういらん」となる。農業におけるスキマビジネスと言えます。経営の安定という点ではメリットがあるけど、これでは規模的に成長できない。その打開策として、インターネットによる販売もはじめた。将来のビジョンについては模索が続くが、仕事自体は面白くてやる気満々のようであります。


著者のような農業への新規参入者に対する政府の施策についても、なるほどと思う意見をたくさん述べている。既存の農家への手厚い保護には批判的で、農家自身も意識改革が必要だと説く。いちいち納得できる話で、著者は将来農業ジャーナリストとして活躍できるのではと思うくらいです。(2013年 新潮社発行)


ついでに駄目男のアイデアを一つ。以前に書いたような気もするが、農業人口が減るなか、対策の一つとして、全国の受刑者を農業に従事させてはどうか、という案です。現在の刑務所は都市部に集中しているが、一部を地方に移す。耕作放棄が進む農村に「農園のある刑務所」をつくる。フェンスで囲った50㏊くらいの土地にムショと農園をつくり、まずはムショでの自給自足を実現し、漸次、生産量を上げて外部への販売も行う。利益が出たら、受刑者個人へ還元して出所後の生活資金とする。


ムショの作業場で内職的な仕事をするより、畑や果樹園で野菜や果物を育てるほうがずっとモチベーションが高まると思いますよ。刑を終えた出所時に技術をマスターしていたら指導員として就職もできる。これは再犯防止に役立ちます。近隣に民間で農園を起業して彼らを受け入れることもできる。仮に、全国で1000人くらいの適格者がいたら、農業生産額のコンマ何パーセントかは請け負うことができるかもしれない。


と、絵に描いた餅を述べましたが、人口減少、人手不足の時代に、ムショのおじさん、にいさんに活躍の場をつくることで農業の担い手になってもらう。しかし・・であります。この明るいムショ暮らしをしたくて罪を犯す輩が必ずでてくる。捕まったとたんに「あの~、〇〇県のムショに行きたいのですが」と。


キレイゴト 






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●齋藤孝著「くすぶる力」を読む

 多彩な著作、TVなどメディアでの露出の多さで有名人である著者が、若いころはどうしょうもないくらいの「くすぶり人間」だったと述べている。夢や希望を持ちながら、処世術に欠け、世間で認められない鬱屈した状態を「くすぶる」と表現する。若者のくすぶる生活は、ヘタすると引きこもりに落ちてしまうことがある。


本書では、主に、将来の展望をもちやすい若者を対象に「くすぶる力」の大事さや処世術を述べているけど、中高年でくすぶってる人も多い。サラリーマンの場合、会社の仕事を無難にこなして恙なく定年を迎えた人が、定年後にくすぶってしまい、家庭で粗大ゴミになってしまうケースと、在職中は出世もせず、会社では地味にくすぶったまま定年を迎えた人が、退職後に人が変わったように「脱くすぶり」人間に変身、第二の人生を楽しく過ごすケースがある。二つのケース、どちらが多いかといえば、定年後にくすぶる人のほうが多いでせう。


くすぶることは悪いことではない。くすぶってる間は将来の飛躍への助走、仕込みの時間だと考える。具体的には、やりたいことをイメージするだけでなく、情報を集め、ノートに書き付ける。アタマで「思う」だけでは駄目なのであります。うだつの上がらないサラリーマンが定年後に大変身、生き生きした第二の人生を送る例はたくさんあるけど、そういう人は現役の「くすぶる」時代から着々と夢の実現に向かって準備している。つまり、くすぶる=準備するチャンスと思えば全然苦にならない。


実際には、脱くすぶりで夢や希望がかっこよく実現するわけではない。みみっちい自己満足に終わってしまうこともある。これを避けるには円満な人間関係が必要だし、何よりも、思いを伝える表現能力が必要であります。幸い、今はいろんなメディアを使える時代だから、少しのトレーニングで表現力を高めることができる。


先日発表された第158回芥川賞を見事射止めたのは63歳のおばさんだった。天晴れというしかありません。インタビューでは、子供のころから小説を書くのが夢だったと語っている。ということは、うがった見方すれば、おばさんは半世紀くらいも「くすぶっていた」と。これぞ最高の「くすぶり人生」ではありませんか。(2013年 幻冬舎発行)

■若竹千佐子(63歳)岩手県出身「おらおらでひとりいぐも」で受賞。


くすぶる 







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●まんがで読破 アダム・スミス著「国富論」

 取っつきにくい名著も漫画化すれば手に取りやすいだろうと企画されたシリーズ作品。この「国富論」なんか一番漫画化しにくいテーマだと察しますが、よくこなしていると思います。この企画、10年続けて、延べ350万冊に達したというから、漫画だと侮ってはいけません。


スミスがこの本を著したのは約250年前、日本は江戸時代のさなかに資本主義の原形について考察をした。物事を体系的に考えるのが得意な英国人とはいえ、社会構造の分析から将来像まで言及して、それが概ね合っていた。「経済の発展は社会の自然な流れに任せておく方が良く、国家があれこれ規制するのはまちがい」といった見方は現在でも通用する。失敗と修正を繰り返しているうちに自ずからより良き選択をすると。


当時の英国社会は産業革命の勃興期、貴族と農民と少数の商人しかいなかった社会に「製造業」というジャンルが加わり、資本家と労働者が生まれて、発展とともに対立も起きた。新興産業による格差社会が生まれた時期であります。子供の頃読んだ「オリバー・ツイスト」という小説は、この時代に生きた少年の苦難物語だったと思います。


漫画で描いても「国富論」は難しい。経済論と同じくらいに道徳論の本でもあり、ヘタに説明するとピント外れになりそうなので、巻末のキモといえるところだけ紹介しておきます。産業が発達して資本家が富を築き、労働者もそこそこ潤う社会が成立したとき、国が為すべき政策はなにか。・国防・司法・公共事業・教育 を挙げています。国のあるべき姿の基本のキになるこれらは国家が主体になって遂行するべき施策であり、民間に任せてはいけない。基本的に利潤追求を旨とする産業界にはなじまないからです。こんな事、今の私たちには常識ですが、250年前に論じるにはすごい学習と先見性が必要だった。アダム・スミスが経済学の祖と言われる由縁です。


誤植を発見:80頁右下 1942年にコロンブスによって発見された・・・は間違いで、1492年が正しい。
スミス




スミス 







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新春の演奏会から・・・



シンフォニーホールイルミ 
ザ・シンフォニーホール 玄関前風景

●大阪交響楽団定演「マーラー 交響曲第一番」

  Fさんの招待で寺岡清高が振る大阪交響楽団、第215回定期演奏会を聴く。<青春>という言葉に最もふさわしいイメージの曲は何か、と問われたらこの曲を挙げます。元気ハツラツとメランコリー、希望と不安など、青春ならではの心のゆれや未熟な感情も含めて一式全部詰まっています。音楽による青春の表現ではこの曲の右に出るものはない・・といえば、異議あり、の声が出そうですが。


今回は「花の章」を含めて全5楽章が演奏されたけど、世評通り、この章はなくてもいいか、というのが正直な感想。出来栄え云々より、今まで4楽章で聞き慣れてしまっているので、単純に違和感を覚えるのかもしれない。自称マーラーファンに尋ねても「花の章」不要論が多いのではと察します。


それはさておき、ブラームスが活躍した時代とあまり代わらない時分、今から120年前にこれだけ斬新な曲想、魅力的な旋律を創造した才能はすごい。空間の遠近感を出すために一部の管楽器を楽屋裏で鳴らすという楽しい仕掛けも、当時はびっくりものの新鮮さだったと思う。(コンサートホールの構造によっては出来ないことがある)


マーラーの交響曲で好きな順に3曲を挙げよ、といわれたら、1・「復活」2・大地の歌 3・この1番「巨人」をあげます。次が「9番」かな。熱心なマーラーファンからみれば「俗っぽいな」と言われそう。オケは十分に熱演でしたが、前から3列目の席だったので直接音しか聞こえないのが残念。終楽章の結尾でコンマスさんが最後の一拍を間違えた。こういうこともあるんですねえ。(1月12日 ザ・シンフォニーホール)


●京都大学交響楽団 第202回定期演奏会

 いつもチケットの申込みを忘れてしまい、あと3日、なんてときに気づいて慌てて購入する始末。今回も同じで、与えられた席は3階の前方、RRA7席でステージが7割がた見えない。新鮮な発見をしました。曲目は、J・シュトラウス「美しく青きドナウ」エルガー「南国にて」と、サン-サーンス「交響曲第三番ハ短調 オルガン付き」


サンサーンスの交響曲の鑑賞は、ステージの見えない席でずいぶん得をしました。なぜなら、ステージは見えないけど、オルガンは斜め後から間近に見下ろすことができる特等席です。すぐそこにある、ぶっといパイプから出る30ヘルツくらいの超低音は、音というより、空気の振動が直に伝わります。ンルルルルルル・・という感じ。オルガニストはうら若き岩佐智子さん。ついでに、この席はチューバの音もブアーブリブリ・・とでっかく響きます。客演指揮は藤岡幸夫。指導が上手かったのか、今回の演奏は今まで聴いたなかで一番の出来栄えではと思いました。


オケの人材は女性の進出が止まらず、もう半分~6割方を占めている。ホルンやトランペットも半分はオネエサンたち、そして、ティンパニーも女性がとった。この曲をハデに締めくくるのはティンパニーで、カッコイイ。


考えてみれば、フランス人がつくった交響曲の有名作品は極めて少ない。人気順でいえば、ベルリオーズの「幻想交響曲」、このサンサーンスの「オルガン付き」そして、フランクの「ニ短調」。あとはビゼーくらいか。交響曲というスタイルがフランス人に合わない・・なんで?ラベルやドビッシーという大家がいたのに交響曲はつくらなかった。民族的な資質の違いかもしれない。(1月15日 ザ・シンフォニーホール)



読書と音楽の愉しみ


●梨木香歩著「西の魔女が死んだ」を読む

 作家が小説の構想を練るときは「どんな読者に読んでもらいたいか」が重要な要素になりますが、本書においては40歳以上の、とりわけ男性はまったく視野にないでせう。そこんところ、オジンが少しの義理あって読んだのであります。内容は若い女性向きのファンタジー。日本なのに魔女がでてくる設定がユニークです。


主人公はまいという少女。中学で不登校になって田舎に住むばあさんの家に居候する。婆さんが魔女です。まいの母がハーフだからばあさんは異国の人(英国人?)二人が同居するなかで少しずつ「魔女になるためのトレーニング」を受けます。むろん、魔女イコール悪女ではありません。本書ではむしろ修道女のイメージで描かれ、まずは精神修養の大事さを教えます。魔女は教養人でなければならぬと。


以下、略・・でかまわないのですが、魔女の話にかこつけて不思議なできごとを一つ。本書を読んでる最中の6日、テレビが動作しなくなりました。スイッチ・オンにすると画面に「地上波・BSとも受信出来ません」の表示。これはアンテナコードの接続不具合かと思って点検しましたが、問題はありません。購入後6年目なので故障が起きても仕方ないかと思うも、なんだか腑に落ちない。翌日、翌々日もときどきスイッチ・オンをくり返したけど治らない。


本を読み終えた三日目、外出からの帰りみちに、購入した電器店の前を通るので、修理を頼もうと店に入りかけたが、どうも気が進まない。で、そのまま帰宅すると、玄関ドアに関西電力のチラシが入っていて、「お客様の電力メーターをスマートメーターに取り替えました」とある。今まで係員が一戸ごとにメーターの数字をチェックしていた作業を通信回線で計測する新しいシステムです。しばらくして、昨日と同じようにテレビをスイッチ・オンすると・・あらら・・ちゃんと映るではありませんか。なんで?


テレビが勝手に故障して、三日かけて自分で修理したのか。そんなアホな。それで気づいたのが関電のチラシ、通信回線で使用電力を測る・・この工事を三日前からすすめていたのではと疑いました。しかし、テレビの受信とは関係ないしなあ、と理解しつつ、ほかに故障→自動修理の理由が思いつかない。恥かき覚悟で関西電力に電話した。「あのう・・かくかくしかじか」答えは「そんなこと、あり得ませんよ、ハハハ」予想通り恥をかいてオワリです。


もし、電器店で修理を頼み、すぐにおじさんが来宅してスイッチを入れたら、当然ちゃんと映ります。「なんも故障なんかしてませんで」。恥をかいたうえに出張料金を取られたでせう。助かったなあ。ひやひや。しかし、故障→勝手に復帰の謎は解けない。ま、そういうこともあるかと思いつつ、この本を読んだ行きがかりで魔女のいたずらのせいにしました。(平成13年 新潮文庫発行)

魔女が死んだ