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読書感想文


●武田邦彦著「偽善エコロジー」を読む

プラゴミは燃やしても良い・・に転換

 一週間前の報道で、地味だが自分には興味深い記事がありました。ゴミ問題について環境省の対応を伝えており、廃プラの処理(分別・再生)が困難な状況になったので焼却処理をしてほしいと全国の自治体に要請した、というものです。 ゴミの分別とその有効性について日ごろ疑問を感じていましたが、今回の報道で分別、処理のシステムに破綻が起きたことが分かりました。プラスチックゴミ・・大阪市の分別基準でいえば「資源ゴミ」のなかのペットボトルと「容器・包装プラスチック」が対象になります。これらは今まで焼却場で燃やさずに、リサイクル、再利用のための原料として扱ってきました。それでも処理できない分は中国などへ年間100万トンも輸出していたのです。しかし、中国などでは技術が進んで自ら樹脂製品を生産できるようになり、2年前に輸入を中止した。これがモロにこたえて日本の産廃業者は行き場のないゴミを抱えて大弱りの状態になった。焼却するのは自治体の仕事ですが、リサイクルは民間業者の仕事です。・・ということで、役所も市民もリサイクルについては知らん顔してきたのです。

 2,3年前、平野の焼却場を見学したとき、係員に「回収したプラスチックゴミはどうしているのか」と尋ねると「産廃業者のトラックに積み替えて姫路の処理場まで運んでる」とのことでした。大阪から100キロも離れた業者へ運んでいたのです。そこでゴミをベルトコンベアに流して作業員が手作業で「使える」「使えない」を選別する。家庭で「普通ゴミ」に仕分けるべきマヨネーズの容器や納豆のトレー、おかずがこびりついた総菜トレーなどが混じってるので、ひどい悪臭、悪汁のなかの作業になります。そこで働く人のほとんどが外国人というブラックな職場です。そして、悪質な業者は残ったゴミを山林に不法投棄する・・よく聞く話です。私たちは役所が回収するのだから役所が責任をもって処分するハズとカン違いしている。そして、役所と業者の間には利権が生まれ・・の構図が全国でできている。

プラスチックの再利用は有名無実
 ところで、回収したペットボトルはどれくらいリサイクルされているのだろうか。下の表は本書から引用したものですが、消費量の10%、回収量の20%くらいしかありません。大半は再利用されずに焼却や埋め立て処分されています。この表は武田氏がつくったもので、不思議なことに、業界団体がつくったグラフには消費量と回収量の表示はあってもリサイクルされた量のデータがない。(一部のデータしか見ていないので見落としがあるかもしれない)私たちはペットボトルは有効に再利用されてると思っているゆえに、水洗いしたり、ラベルをはがしたりと手間をかけて出しているのに、そんなの無意味らしい。 アホクサ!であります。

 プラスチックゴミは焼却処分する、となれば、今のように、本体と、キャップとラベルを別々に出すという手間は不要です。このあたり、役所は市民にどのように説明するのでしょうか。分別を細かく指示してきた役所ほど慎重にしないと市民に批判される恐れがあります。
 市民の一部には、急に大量のプラゴミを焼却することになれば焼却炉の負担が大きくなって不完全燃焼とか、マイナス面が出るのでは、と心配する人がいるかも知れない。しかし、そんな心配は要りません。よほど非力な自治体はともかく、大方の市町では焼却能力に余裕があり、無理なく燃やせます。大阪市の場合、むしろ、燃やすゴミが足りなくて近隣市のゴミまで引き受けています。この余裕綽々の原因は市内のゴミ排出量が想定以上に激減したからです。(ピーク時の半分になっている)

 石油が原料のプラゴミは良く燃えるので、生ゴミ等を燃やすときの助燃剤になり、そのぶん重油を節約できる。また稼働率が上がれば発電量も上がり、これは電力会社が購入してくれるから維持経費の改善に役立ちます。ダイオキシンが増えて健康に悪影響?・・が心配な人は本書を読んで下さい。答えが書いてあります。


レジ袋削減運動も無意味

 スーパーなどが「レジ袋削減キャンペーン」をすると、いっときマイバッグ持参の客が増えます。では、その人はゴミをどのように保存するのでせうか。生ゴミをいきなり45リットルの大袋に入れるのか。それともダイレクトにペール容器に入れるのか。そんなこと生まれてこの方したことありません。レジ袋を断れば別の同じような袋を買うしかない。これでは削減効果ゼロです。買うよりもらう。もらった袋は大事に使う。
「タダでもらう」というのは間違いで、店はレジ袋費用を販売コストに計上しているからタダではありません。こんな単純な仕組みを知らず?にレジ袋を減らす運動(マイバッグ愛用とか)に情熱を傾けている人がいるのだから笑ってしまいます。そのマイバッグが石油系原料でつくられていたら・・馬鹿丸出しです。

 著者が薦めるゴミの分別は単純です。「金属類とその他」これで十分だと言います。金属類は再生できる。特にアルミ缶はリサイクル材としてスグレモノだそうです。一挙にここまで単純化は無理としても、大巾に改善はできます。駄目男がイメージする一番悪質な自治体は、チマチマと細かく分別を指定し、かつ、指定のゴミ袋を強制的に買わせる町です。無能と悪意てんこもり、そんな町、本当にあるとは思ってませんが。(2008年 幻冬舎発行)

ペットボトルの消費量、回収量、リサイクル量のグラフ
1偽善


駄目男宅の生ゴミ容器
 直径20センチ、高さ22センチの樹脂容器に標準的な35×35センチのレジ袋に入れ、それより小さめのレジ袋または他のポリ袋を底に敷く(漏れを防ぐために底を二重にする)このサイズで約3日分。過去10年くらい、消費量ともらう量がほぼ同じで過不足がない。45リットルの大きなゴミ袋は紙ゴミなども入れて、月に2~3枚程度使う。プラゴミは大きいレジ袋に入れる。

ゴミペール


偽善 



参考資料 
https://mainichi.jp/articles/20190516/k00/00m/010/010000c

廃プラ、産廃も焼却要請へ ~環境省、市区町村に~ 
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毎日新聞2019年5月16日 03時00分

 国内で処理が追いつかなくなっているプラスチックごみ(廃プラ)について、環境省は、焼却炉などで家庭ごみの処理を担う市区町村に対し、企業など事業者が出す産業廃棄物の廃プラも受け入れるよう要請する方針を固めた。関係者への取材で判明した。緊急措置として一定期間の受け入れを求め、応じた自治体への財政支援などを検討する。都道府県や政令市に近く通知を出す。
 全国で排出される廃プラは年間約900万トン。うち産業廃棄物として扱われるものは約700万トンと8割近くを占める。国内の態勢が整わない中、輸出されていた分などのうち一定量の廃プラがリサイクルされず焼却されることになる。

 リサイクル資源として日本が輸出する廃プラの大半を受け入れていた中国が2017年末に輸入を原則禁じて以降、日本国内での廃プラの処理が追いつかず、中間処理業者の敷地内に山積みになるなど問題化していた。さらに、廃棄物の国際的な移動を規制するバーゼル条約の締約国会議が今月10日、汚れた廃プラを21年から対象とすると決めた。日本が現在輸出している年間約100万トンも規制対象になる可能性があり、国内での処理がますます難しくなる懸念が出ていた。

 関係者によると、家庭ごみの分別が徹底されてきたことで、自治体が所有する焼却炉は稼働率が低水準のものも多く、事業ごみの廃プラを焼却する余力があるという。このため環境省は、緊急避難的に廃プラの処理を市区町村に要請することとした。受け入れた自治体には財政支援をするほか、処理費用の徴収なども認める。

 ただ、自治体の所有する焼却施設は「迷惑施設」のイメージもあり、周辺住民の反対なども予想され、自治体によって対応が分かれる可能性がある。廃棄物処理法は、市区町村は原則として家庭から出る一般廃棄物を処理するとしているが、自治体が認めた場合に限り、事業者が出す産業廃棄物を処理することもできる。【鈴木理之】

バーゼル条約
 有害物質を含む廃棄物について、主に貿易などで国境を越える移動を規制する国際的な枠組み。1992年に発効し、日本は93年に締結。186カ国・地域と欧州連合(EU)が加盟している。締約国会議で今月、汚れたプラスチックごみを輸出入の規制対象に加える条約改正案が採択された。条約改正の発効は2021




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●坂本政道著「あの世はある!」を読む

 なんだかキワモノふうタイトルですが、よくある自称「霊能師」とかが書いた本ではないのが手にした理由。著者、坂本氏は東大物理学科卒業でソニーに就職、約10年間、半導体素子の開発に携わった人。本人も「自分はガリガリの物質主義者」と述べている。そんな人に「あの世はある!」と言われてもなあ・・困惑しつつ読みました。

 読んで見ると、あの世へ行くには相当に高度なサイエンスのチカラを借りなければならないことが分かる。その方法を開発したのはロバート・モンローというアメリカの音響技術者で、後に「ヘミシンク」と名付けたテクノロジーを研修会などで学んだうえでトライできる。アホなおっさん(心身のデリカシーを感得できない人)はあの世へいくことができない。 知性、感性のレベルが高くて、かつ心情冷静な人であることが重要だ。落語の「地獄八景 亡者の戯れ」にでてくるオッサン、オバハンではとても無理であります。

 ま、難しい話はさておき、あの世を訪ねるためには段階を踏まねばならない。トレーニングと成果はつぎのような順になる。

(1)夢を見る、幻覚が起きる
(2)体外離脱体験
(3)あの世を訪問
(4)死者との交流、自分の過去世を知る

著者はこれらを全部マスターし、世に広めようと何十冊もの本を書いている。おそらく、日本におけるヘミシンクの第一人者と思われる。著者がこの道に進んだわけは、もともと死後の世界に興味があったことと、死ぬことに対する恐怖感がすごく強かった。しかし、死んでもあの世で暮らせることが分かれば恐怖感は大巾に減る。死=不幸ではなくなる。

 著者によれば、体外離脱なんて朝メシ前だ。やはり本命は「あの世」の訪問である。さすがにこれは簡単に体験できず、米国での研修会では5泊6日の日程でレッスンする。レッスンの大半はヘッドフォンで特殊な音を聴くことである。宿泊研修するヒマなんかない、と言う人のためにCDセットがある。え?・・CD聴けばあの世に行けるのか、と怪しむが、ネットで調べると普通にCD商品として販売されている。なんだかとてもイージーな感じがするが、これがマユツバ商品なのかどうか分からない。

 それにしても、亡くなった父母に会いたいと思ってあの世を訪ねたら本当に会えた、という話を俄に信じる気にならない。あるいは、自分の過去世を知って自分のこれからの生き方を学ぶという話。例えば500年遡って何人もの「自分」に会い、その中に殺人者がいたら・・。どひゃ~~、であります。本書の最終章にはあの世を訪ねた人のレポートがたくさん載っているけど、読後感は総じて暗い。明るい風景や楽しい語らいといった場面はなく、争いや戦争に巻き込まれて苦労するといったネガティブな体験談が多い。

 それはさておき、本書の内容がまるでインチキともいえないのは、私たちが観念としてもっている「三途の川」や「輪廻転生」に通ずるところがあるからでせう。しかし、いまや、神様や仏様に導かれてあの世へ行くのではなく、研修会とCDによってあの世へ行く時代になった。キリスト様やお釈迦様も、いやはや、えらい世の中になってしもたなあ、と嘆いておられるに違いない。(平成26年 ハート出版発行)


本 あの世はある

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● 山口真由著「東大首席弁護士が実践・誰でもできる完全独学勉強術」を読む

 読売TV「そこまで言って委員会」でときどきお目にかかるこの人、東大首席卒業というふれこみの才女であります。で、そのご本人が書いたのが首題の本。著者は謙遜して自分に最適な勉強方法を見つけて努力すれば東大なんか怖くはない、とおっしゃいます。その勉強方法とは・・?

 読めば、それホンマか、とほとんどの読者は疑いたくなるでせう。一言で言えば、その方法とは「教科書を7回読む」ことであります。これをマスターすれば塾に通ったり、参考書をたくさん買い込んだりする必要はナシ、という。この方法の基本には、試験問題は「教科書で習った範囲からしか出ない」という考えがある。即ち、教科書をまる暗記すれば,その中に答えがあるはず、と言うのです。どないです? 納得できますか。予備校、塾通いするヒマがあるなら、その時間を教科書暗記に使いなさいと。誰に教えられた方法でもなく、自ら考えついた方法だそうですが、このアイデアを生み、実践して成果をあげる。これって凡人にはできません。ご本人は自分は決して天才などではないと謙遜していますが、彼女が天才でなければ他の人は全部凡才未満でありませう。
 
 教科書を7回読む。その具体的な方法が書いてある。これがまたユニークです。一~三回目は眺める、四~五回目は読む、六~七回目は頭に叩き込む、とあります。三回目までは頁を眺めるだけでよし、文章を読んではならない、というのです。そして、六~七回目は全文、句読点に至るまでしっかり暗記する。こうして試験に臨めば答えは脳のメモリーから抽出するだけで良い・・のだそうです。これで東大一発合格した。入学後、司法試験の勉強をはじめ、三年生で試験合格。受験勉強には一日19時間を費やしたというモーレツぶりです。

 かくして東大法学部を首席で卒業、財務省主税局という日本最高のお役所勤めをしたのですが、たった2年で退職、弁護士事務所を開いて現在に至る。彼女の目からみれば、財務省のエリートたちも馬鹿の集まりにしか見えなかったらしい。(2014年 SBクリエイティヴ発行)


山口真由

山口 




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●昭和30年の「サザエさん」を読む

 新聞漫画の傑作「サザエさん」が函入り本で全集が発行されており、その中の昭和30年の分を読みました。戦後の高度成長期にあたり、懐かしい場面が出てきます。平成生まれの人が見たら「?」な場面があるかもしれません。戦後すぐに生まれた人だって10歳そこそこだから、年齢による記憶のギャップが大きいと思います。画を見て当時の暮らしぶりをリアルに思い出せるのは70歳以上の人かもしれない。資料に当たると、昭和30年ごろのサラリーマンの月収は3万円程度で、家電商品もまだ普及していない時代でした。


町内一斉に大掃除という習慣がありました。

サザエさん 


「給仕」という職業、いつ消えてしまったのか。
サザエ 

お見舞いやご祝儀は百円が相場でした。
サザエ 

木製の「氷冷蔵庫」と五右衛門風呂が普通だった時代。
サザエ

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●林真理子著「野心のすすめ」を読む

 平成31年4月1日、65歳の林真理子さんはまた一つ「野心」を実現した。もうこれ以上はないといえるステータスを獲得した。新元号に関する有識者懇談会のメンバーに選ばれたのであります。他のメンバーはといえば、前最高裁長官、経団連会長、NHK会長、京大教授、山中伸弥彌・・そうそうたるメンバーのなか、文壇を代表しての抜擢であります。さぞかし気持ちヨカッタでありませう。実際、林さん以外に適任者がいるかと考えても思い浮かばない。文学的実績よりキャラクターで選ばれたこと明白であります。

 野心を持て、B級に甘んじるなと説く。生涯、ユニクロと松屋のレベルに甘んじて生きるなんて夢がなさ過ぎる、と力説するのが本書で、まあ、普通にハウツーものと言えるのですが、本音をセキララに書いてるところが面白い。人生レースの確たる成功者になることでサイテーにして屈辱的な経験もかえって書きやすくなる。普通ならイヤミになるええかっこしいもなにげに許してしまう気になります。

 山梨のしょぼい本屋に生まれた。名も無く貧しく美しくもない娘であったが、都会と都会的な仕事へのあこがれは人一倍強く、無理して東京へ出、日大芸術学部卒業という、まあ人並みの学業をおさめたが、就職先の広告会社での仕事はスーパーのチラシのデザイン。風呂ナシ六畳一間のアパート暮らしに悶々とする日々。なんとかしなくちゃ、と糸井重里氏が主宰するコピーライター塾になけなしの12万円払って入門した。これが良かった。同じ広告の仕事でも、才能ある人は会話の内容から昼メシの食い方までハイセンスで生き生きしている。凡人、馬鹿に囲まれて暮らす愚を悟った。かくして著者はコピーライターとしてそこそこの実績をつくることができた。

 1982年、エッセイ集「ルンルンを買っておうちへ帰ろう」で大ブレーク。文庫版を合わせると100万部も売れた。これで「有名人になりたい願望」は成就。以後、直木賞ほか文学賞もとって収入も増え、六畳のアパート暮らしがウソに思える大出世した。下を見るな、現状に満足するな、上を目指せ・・。成功は本人の努力の賜でありますが、持って生まれたキャラ、例えば、どんなエライ人でも臆せず付き合えるとか、がプラスになっている。普通なら嫌われるブランド嗜好や浪費癖もなんとなく「林さんらしい」で済んでしまう。物書きでこういうタイプは珍しい。そのぶん、文学者のイメージが薄いのは仕方ないでせう。

実を言うと、著者の文は、週刊文春の連載エッセイを何十回か読んだだけ。子供がいることも知らなかった。上流志向強力なのになぜか普通のサラリーマンと結婚して、それでうまくいってるのも「?」でありますが、もしや、ダンナさんのほうが人生の達人かもしれません。(2013年 講談社発行)

本



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●嵐山光三郎著「西行と清盛」を読む

 西行の人生を知りたいと思い探してみたが、堅苦しい内容の本が多くて読む気にならなかった。作家にも読者にも「漂泊の歌人」という先入観があって、歌論を軸にしたクソまじめな読み物になってしまうらしい。そんな軟派なオジンに本書はぴったりであります。著者名見ただけで、これは面白そうと思い、読んだら期待どおりでした。しかし、読み始めたころに入院するハメになり、さらに、文庫本ながら380頁もあって、読了に一ヶ月以上かかってしまいました。
 本書は通俗小説の類いでありますが、フィクションまみれにした筋書きではなく、一応は史実にのっとっている(らしい)。とにかく本書で描かれる西行は生涯、東奔西走、とても孤独なさすらい人のイメージはない。人生のほとんどは俗世間にまみれ、保身や損得勘定多々の暮らしぶり、それでなお数々の名歌を詠んだのだから歌人として天才だった。

 西行と清盛という題名は両人とも天皇を護る武士、今で言うなら皇宮警察や公安局の要員が仕事であったこと、同じ職場の仲間だった。この二人、水と油みたいな関係ではと思ってしまうが、性格は違うものの、仲はよかったというのが面白い。天皇に仕える武士だから腕力に優れているだけでは駄目で、天皇や貴族からなにげに「歌を詠んでみよ」と言われる場面が結構あり、がさつな清盛はこれが苦手で西行に代作を頼むのが常だった。で、一首詠むたびに金(当時は宋銭)を払う。はじめは受け取りを拒んでいた西行もいつのまにかアルバイトと割り切って受け取るようになった。

 ・・というような俗っぽい話が続くので退屈しない。ついでに書けば、競馬で「天皇賞」というレースがありますね。ギャンブルになんで天皇のブランドがあるのか、不思議に思っていたけど、これのルーツが当時盛んに行われた馬の「駆け比べ」だという。代々の天皇や貴族がお気に入りの行事で、勝負より社交優先のイベントだった。西行も清盛も騎手として出場するのであります。但し、当時の競馬は二頭による駆け比べで勝ち抜き戦でトップを争った。勝者にはお金でなく文房四宝と呼ばれた書道具を下賜したという。この素朴な天皇賞レースは「流鏑馬」のかたちで伝統行事になった。現在の天皇賞は明治時代に公に制度化されたことがルーツで、菊花賞やダービーと並んで最も人気の高いレースになってることはご存じの通りです。

 なにげに「西行」と書いてしまったが、これは出家してからの名前で本名は佐藤義清(のりきよ)という。前記のエピソードはすべて佐藤義清時代の話です。では、なぜ天皇付ガードマンの仕事を辞めて出家したのか。歌詠みに専念したいというゲージツ的欲求のためではなく、まずは保身のためだった。当時は武士が台頭しはじめていた時代で、いずれは天皇や貴族も権力争いに巻き込まれること必至であり、単なるガードマンでは生き延びることなどできないと察したからである。この判断は結果的に正しくて、後世、西行の仲間たちはみんな死んでしまう。唯一大出世したのが清盛だが、結局、敗者になった。

 ラストシーンは頼朝との対面が描かれている。そのとき西行は六九歳、よぼよぼの爺さんになっていた。対面を望んだのは西行である。清盛=平家一族を滅ぼした源氏のトップがどんな人物か見ておきたかった。西行が有名人ということは頼朝も知っていたが、眼前の西行は小汚い坊主のくせに態度がでかい。難なくその場で切り捨ててしまうこともできたが、頼朝はこらえた。どうしても知りたかった天皇家の流鏑馬の故実を西行に語らせ、しっかり筆記して最後に「歌づくりのコツはなにか」と尋ねた。西行の答えは「わずか三十一文字」だった。
 西行は頼朝に通行証をもらい、平泉に向かう。なんのために? 藤原秀衡に会って清盛が焼き尽くした奈良の都の再建資金を得るためである。東大寺の僧、重源に頼まれての「集金旅行」だった。最高位の歌人と評されてなお「金集め」に苦労しなければならなかった。六九歳の西行にはるか東北まで「集金旅行」を頼んだ重源の薄情?ぶりに感心するけど、受けた西行にも「ええトシして、ようやるわ」と言うしかない。

それでも西行は自分のラストシーンをしっかりイメージしていた。
 「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」
河内の弘川寺でこの願いを果たした。享年73歳。この見事な有言実行ぶりに都の歌人たちはいたく感動したという。(2012年 中央公論新社発行)

本

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●有島武郎著「生まれ出づる悩み」ほかを読む

 恥ずかしながら、有島武郎の作品を読んだことがないので、まず首記の作品を読む。先に読んだ泉鏡花よりずっと後の世代で、性格も作品世界もまったく異なり、有島センセはまじめの上にクソを乗せたようなタイプ。常に自分は一流の芸術家たり得るのか、と悩んだ末、45歳で自殺してしまった。ちゃらんぽらんじゃいけないが、完全主義もまた辛い。生活の心配=お金の心配なんか全然ない恵まれた境遇にあっても、悩みは次々湧き出でる。まあ、因果な職業であります。


本作は実在の人物(漁師から画家になる木田金次郎)との交流を描いたもので、半ばドキュメントでありますが、著者は彼を応援する立場で彼の厳しい生活ぶりを描写する。北海道、岩内という小さな漁村の暮らしと漁労の様子を、著者本人は経験していないのに物凄くリアルに書く。小説家たるもの、これほど想像力がないと一流に非ず、といわんばかりの熱気に満ちた文章です。また、なんとかして木田を画家にしてやりたいと精神的支柱の役目もする。同情、友情、応援の気概が伝わります。 おかげで、漁師の木田は晩年になってプロの画家に転向できた。これって極めて珍しい例でせう。そして、著者も名作をものにした。


有島の父は高級官僚で権益を使って私財を築く。子供が成人になるころには北海道ニセコで450㏊という広大な農場のオーナーになった。大阪城公園の4倍の広さです。しっかり仕事して、ガッチリ稼ぐタイプの父親でしたが、なんとしたことか、息子たちはみんな軟派。長男、武郎は小説家、次男も作家、里見弴で活躍。武郎の長男は森雅之という俳優になった。父からみれば、みんな裏切り者になったわけだ。おまけに、有島武郎は自分が「金持ち」であることに終生、後ろめたさを感じていた。


「一房の葡萄」は子供の目線で書いた童話の趣の小品。「小さき者へ」は自分の三人の息子(年子である)あてに父親の心情を綴ったエッセイふうの作品で、日本人としては珍しい。作家といえど、ふつうは「照れ」で書きにくいテーマでありませう。同じことを素人が書けるか、というと極めて難しい。読んで清々しい気分になる作品です。
 かくもすてきな子供たちへの愛情に満ちた文を遺して、著者は婦人公論編集部員だった波多野秋子と別荘で首つり自殺する。(武郎の妻は27歳で病死していて武郎が子育てをした)本人は「苦悩に満ちた人生」という認識だったかもしれないが、もう少しゆるく生きてたくさん作品を書いてほしかった、というのが世間の見方ではなかったでせうか。(2009年 集英社文庫・2011年 角川春樹事務所発行)


ニセコにある有島武郎記念館と羊蹄山有島武郎


有島武郎 






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●泉鏡花著「高野聖」を読む

 恥ずかしながら、泉鏡花の作品をよんだことがなかったので、文庫本を借りて「高野聖」と「義血侠血」の代表二作を読む。明治時代の作品だから、当時の常として全文ルビつき、但し、本書は、かな遣いは現代という編集であります。ルビ付きにすると、なんだか目がチラチラして読みにくいけど、それでも「まんま現代文」で読むよりずっと味わい深い。


読む前は、単純に泉鏡花の作風はロマンチック・・と思い込んでいたけど、読めば、二作品ともロマンチックを通り越しておどろおどろしく、中身の濃ゆ~い幻想文学作品でありました。当時にこんな強烈な個性をもった作家がいたことに驚いた次第です。この作風を駄目男は支持しますが、純粋に文学の見地からみれば、ややキワモノ的な見方をされるかもしれません。


「高野聖」 
 修行中の僧が飛騨の山奥の滅多に人が通らない難路を進むと、待ってましたとばかりに大量の山蛭が僧を襲う。まるで雨が降るように蛭が降ってきて彼の全身にまといつき血を吸う。その描写がすごくリアルで、蛭にやられた経験がある人ならもうムズムズ、チクチク、たまらん不快さを思い出すでせう。僧は必死のパッチで通り過ぎ、命拾いした。その先で一軒家を見つけた。そこにはこんな山奥にはありえない妖艶な美女と白痴の男がいた・・。ここからが本筋で、幻覚なのか、リアルなのか、なんともいえない、わやわや風の展開になるのであります。


「義血侠血」
 そうだったのか、この作品は・・。なんだか東映映画みたいなヤクザっぽいタイトルでありますが、これぞ、あの新派の代表作「滝の白糸」の原作です。これを書いた当時、泉鏡花は尾崎紅葉の門下生だったため、紅葉は「ここはあかん、ここも変えな」といっぱい添削をして原作のイメージと違う作品になってしまった。ゆえに、世間では、尾崎紅葉作「滝の白糸」で知られる作品になった。さらに、この「滝の白糸」というタイトルは当時、有名だったエンタテイナー、川上音二郎が勝手につけたもので、これで芝居化し、大ヒットしたので世間に定着してしまった。尾崎センセは川上にイチャモンつけたけど、まあ、どっちもどっちです。(滝の白糸は、水芸人の芸名)


本書は原題である「義血侠血」で書かれているので内容もオリジナルのままかと思いきゃ、そうでもないらしい。ラストシーン、検事の村越欣弥が自殺する場面で、泉鏡花の原作はあまりに凄惨で舞台上演が難しい?ため、ごく普通の自殺に変えられた。その文章で描かれているので、これは尾崎紅葉が書き換えた文になります。なんか、ややこしいなあ。(文庫版 昭和29年 角川書店発行)

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本文のはじめに、この時代の作品はルビつきの古い文章を読んだほうが味わい深いとかきましたが、本書の一頁を紹介します。滝の白糸が金持ちの老夫婦を出刃包丁で殺害する場面です。ルビがなければ読めない単語がたくさんあります。
 3行目の頭の「渠」は「彼(かれ)」と読みます。男女共通で「かれ」です。5行目の「こはそもいかに」の漢字表現は生まれてはじめて見ました。こんな難しい字をつかうのか、と感心。


泉鏡花


泉鏡花本 








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●加地伸行著「マスコミ偽善者列伝」を読む

 雑誌などに掲載したコラムをまとめた辛口の評論集。著者は中国哲学史研究者で保守の言論人だから、標的にされたのは左翼やリベラルの人物が大半で、こんなに露骨に悪口書いて委員会?と心配するくらいであります。しかし、名誉毀損などで訴えられたケースはなかった。なぜ訴えないのか。それは書いてあることが事実だから、と加地センセは涼しい顔してる。馬鹿呼ばわりされた人は自ら馬鹿を認めるしかないと。


主な被害者(?)は下の写真のような方々。多くは朝日や毎日と仲の良い面々でありますが、今年、文化勲章を受賞した山崎正和氏が入ってるのに驚きます。どんな文言がバッシングの対象にされたのか。 雑誌「潮」平成25年11月号に掲載した文、中国や韓国に対する日本国民のとるべき態度としてこう書いている。「日本人にとってとるべき態度は一つしかない。たとえ個人的には身に覚えがなくとも、全国民を挙げて、かつての被害国に対して謝罪を続けることである」と。全国民挙げて、永久に、中国、韓国に謝罪を続けよというのである。つまり、山崎氏は日本国民の思想、言論の自由を認めない。全国民が謝罪せよ、というのだから謝罪しない人は非国民である。これって、ファシズムの最たるものではないか。加地センセならずとも、山崎はアホかと言いたくなるでせう。文化勲章を受章した、インテリの見本みたいな人でもこの程度の浅はかな考えをもっている。


東京慈恵医大教授の小沢隆一氏は、新聞の討論記事で、近ごろはやりの立憲主義の解釈として、憲法は国家が国民を縛るものではなく、国民が国家を縛るものだ、という論を述べ、これがエスカレートして「公務員以外の国民は憲法を順守する義務はない」と言い切った。そこで加地センセがガツンと一発、だったら、憲法第三十条「国民は法律の定めにより、納税の義務を負う」はどうなるのだ。憲法を守る義務がないなら税金を払わなくても良いというのか。大学教授ともあろう者がこんなレベルの物言いしかできない。これが、左翼、リベラル言論人の知的レベルであります。


本書の中で一番厳しく馬鹿呼ばわりされてるのは、同志社大学大学院教授、浜矩子サンでありませう。安倍政権のやることは何でも反対と訴え続けた末に、アベノミクスをもじって「どアホノミクス」なる言葉までつくって反安倍論に情熱を燃やしたのでありますが、加地センセに言わせれば、すべて安っぽい感情論であって全く論理的でない。大学院教授にしてはあまりにレベルが低い言説にあきれてしまう・・そうであります。もとは経済評論家であり、それなりのポジションは得ていたと思うのですが、そこに留まらず、スキルアップしてなんとか教授の椅子を手に入れたものの、もともと学者のとしての資質がないから素人みたいな感情論しか言えない。本人もアホだけど、彼女を召し入れた大学も人を見る目がなさ過ぎる。もし、浜センセが本書を読んだら、ものすごく傷つくでせう。なんせ、学者としての価値を全否定されてるのですからね。(2018年 飛鳥新社発行)

偽善者列伝

偽善者 








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●山本功次著「阪堺電車177号の追憶」を読む

 図書館へ返本に行ったら、たまたま著者の講演会に出会い、拝聴してこの本を買い、サインしてもらった。本書は「2018年 大阪ほんま本大賞」受賞作。先日、紹介した有栖川有栖氏の「幻坂」に続いての受賞作品購読であります。主人公は阪堺電鉄の最古参車両「モ161型」の177号(実在しない架空の番号)であります。


主人公は昭和の初めから85年働いてとうとう廃車になるまでの乗客や沿線住民の暮らしぶりを六編の短編小説で描く。戦前、終戦直後、高度成長期、バブル崩壊・・と時代の様相をとらえて描くが、著者は戦後生まれなので、戦前のことは父親に聞いて書いたという。題名からは鉄道ファン向けの作品を想像するけど、まあ、普通の人情小説と言えるでせう。


著者は鉄道会社に勤めるサラリーマンなので電車の知識が豊富なのは当然として、では,どこに勤めてるのか。当然、阪堺電鉄と想像するところ、ご本人は言わない。趣味で小説を書くことは会社の了解を得ているけど、社名は明かさないこと、とクギをさされている。であれば、阪堺電鉄以外の会社、阪急とか近鉄とか、かもしれない。(一時、東京へ転勤になったというから、阪堺電鉄はあり得ませんね)


サラリーマンの傍ら小説も書く、という二足のわらじ生活は羨ましいと思われがちだけど、ご本人の話ではやはり苦労も多い。使える時間が限られているから集中できるのは土曜の晩くらい。ということは徹夜です。エッセイやコラムくらいならともかく、小説を書くとなれば相応の才能が要る。それを考えれば本書はよく出来た作品と言えます。(2017年 早川書房発行)


小説の主人公になった車両。もしや現役で最古参?
阪堺電鉄
 

阪堺


阪堺 









読書と音楽の愉しみ


●多胡輝著「正岡子規 運命を明るいものに変えてしまった男
●ドナルド・キーン著「正岡子規」を読む

 図書館の近代文学本の棚には子規に関する本がどっさりあって,何を選ぶか迷ってしまう。今回は上記の二冊を借りたが、キーン先生の本は大部なので、チラ読みで終わってしまった。しかし、子規という人はだれもが評論したくなる魅力的な男だったこと、理解できた。


多胡氏の本を開いた途端に誤植を見つけた。本文1頁目、「辛い」を「幸い」に誤植している。著者、編集者のショックを想像する。ご両人、ヤケ酒煽ったでありませう。しかし、1ページ目でのチョンボは珍しい。
 この本は子規の生き方を人生論に置き換えて艱難辛苦の凌ぎ方を語っている。ちょっと子規を誉めすぎとちゃいます?と文句つけたくなるくらい。子規は伊予で育って上京し、東大へ入るが、そのときの同窓に夏目漱石や南方熊楠がいた。文学者として身を立てようと張り切っていたのに、二十歳くらいで喀血し、それは脊椎カリエスという難病に転じて、以後、34歳で亡くなるまでほとんど病人暮らしを強いられた。


晩年は、今で言う「寝たきり」生活に近い状態だから、不安や絶望感はいかばかりかと察するけど、子規はそんな境遇でも「自分には何ができるか」と、身辺へのささいな好奇心から文学論まで、考え事でアタマは年中フル稼働状態で過ごした。病院暮らしなら、結核感染のリスクから見舞い客との面会は制限されるが、子規は自宅療養だったので、門人、友人の来訪多く、それをいやがるどころか、歓迎した。客のない日はえらく寂しがったという。


キーン氏の論によると、子規は蕪村の俳句を高く評価し、芭蕉の作品にはあまり共感しなかったらしい。「写生」という概念を大事とした子規のスタイルから納得できるが、この辺は諸説ありそう。

 さて、芭蕉の最有名句は・・・
 
古池や 蛙飛び込む 水の音

 そして、子規の最有名句は・・・
 
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺


この二句の印象を駄目男が簡潔に表すれば「それで ええやん」であります。解釈するからややこしくなるのだ。先日、何かの本?で目にしたのは「古池や、というが、池は概して古いものである。出来たての池など滅多にみることはない。では、なぜ、わざわざ古池というのか、云々」とあって、古池をあれこれ詮索する。柿食えば・・だって、なんで柿なのか、ミカンじゃ鐘が鳴らないのか、とセンサクしてもあまり意味がないと思いますけど。


これらの句がしょーもない等とは申しませぬ。世間の評価に合わせて名作だと思ってますよ。しかし、だったら、真剣に誉めてみよ、と言われると、んぐぐぐ、言葉がでないのであります。この「古池や・・」の句を完璧に誉めた論文ってあるのだろうか。あれば読んでみたい。(多胡本 2009年 新講社発行)(キーン本 2012年 新潮社発行)


正岡

正岡








読書と音楽の愉しみ


●大越哲仁著「マッカーサーと幣原総理」
  
~憲法九条の発案者はどちらか~ を読む

 以前から興味をもっていた問題に答えてくれそうなこの本に出会い、さっそく読み始めるも、まあ、なんとややこしい話であることよ。3頁読み進んでは1頁後戻り・・という感じで、これは著者の文章力が拙いせいではなく、語られる問題が複雑すぎるせいであります。どの時点で、誰がああ言い、其れがこう言う、さらに別の某はかく言った・・と、そこは混乱しないように書かれているのですが、それでも頭がこんがらがってしまう。


そんなゴチャゴチャは全部端折って著者が言うのは「憲法九条は幣原総理の発案である」という説であります。かなり説得力があります。マッカーサーとの交渉をそばで見ていたような書きぶりのせいでもありますが。ところが、この説にどっこい待ったをかけた人物がいる。それが幣原総理の長男、幣原道太郎なのだから、ガチョーン(ふる~~)であります。これじゃ話が前へ進まない。


半分くらい読み進んで、ようやく九条発案の輪郭が見えてきた。幣原総理が憲法案づくりにおいて一番頭を悩ましたのは天皇の位置づけだった。戦勝国の中には天皇は有罪である、処罰するべきという意見があり、この要求を呑まされると日本の歴史がひっくり返り、大混乱に陥る。で、これだけは避けたい。そこで、天皇は象徴として権力から離れ、憲法で国民主権を謳う。その代わり、戦争に関わる問題では武力放棄をうたい、世界に前例のない非武装国として再出発する・・。この国民主権と非武装の考えはマッカーサーの要求に十分応える内容である。もう一つの要求、華族制度の廃止も受け入れた。


つまり、天皇の存在自体を守るために、平和を謳う思想は自虐精神満点の、諸外国に土下座するようなへりくだった案をもってマッカーサーと会談した。終戦後、まだ日本への憎悪、侮蔑の感情に満ちていたマッカーサーとの交渉が対等であるはずがない。日本を、二度と白人社会に刃向かわせる国家にしないために叩きのめす、との思いは欧米すべての国に共通する感情だった。


著者のこの説によれば、憲法案に関する重大な交渉を幣原総理一人で交渉したことになる。当時の録音やメモがないので、実際はどんなやりとりがあったのか分からない。しかし、この交渉のあとでGHQが憲法の原案をつくり、これを議論して憲法案がまとまってゆく。
 日本には再軍備させない・・という強い意志で支配を続け、憲法九条に戦争放棄をうたわせたたマッカーサーだが、なんという皮肉か、数年後に朝鮮戦争が勃発すると、一転して日本に再軍備を要求した。以後、九条は空文化してまもなく70年になる。(2018年 大学教育出版発行)


マッカーサー 


<参考>憲法第九条
一項・・日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二項・・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。




読書と音楽の愉しみ



●有栖川有栖著「幻坂」を読む

 書店員が選ぶ「本屋大賞」にはローカル版があるそうで、本書は昨年の「大阪ほんま本大賞」を受賞した。よって、本の中身は大阪がテーマで、幻坂とは天王寺七坂のことであります。その坂ごとに短編小説を書き、別にオマケ?なのか、芭蕉の終焉を描いた「枯野」と藤原家隆の日想観を描いた「夕陽庵」が添えてある。


七坂の物語で一番面白いのは「天神坂」。死んだことになっている中年女と私立探偵がこの坂を訪れ、客席わずか五席の小さな割烹を訪ねる。「ははん、あれやな」大阪人読者の半分くらいは気づくかもしれない。この店主が浪花割烹の親方、上野修三さん。「㐂川」の元オーナーであります。一度引退して、ここにある自宅の一部を改装し、小説のように、五、六人しか入れない小さな割烹を開いた。その店のありさまが描かれる。えも言えぬ味わいに舌鼓をうっていた女は、死んだことを忘れて?生気を蘇らせる・・という話。しかし、上野さんはこの店をたたんで、今は幻坂の幻の店になってしまった。


天神坂にはもうひとつ幻の店があった。芭蕉ファンなら誰でも知っている「浮瀬」(うかむせ)であります。芭蕉ファンでなくても、この店への憧憬をもつ人は多い。現に、下の写真のように当時の絵が残されているので、もし、元祖とされるこの料亭が再現されたらどんなに素晴らしいかと夢を描く。当時の浪花の文人たちが集っての宴会風景はどんなものだったのか。料亭の跡地は星光学院が買い取り、保存しているが、非公開なのが残念であります。


この店の主が俳人という縁で芭蕉は招かれた。大勢の弟子たちに囲まれて宴会になるが、この宴の意図は芭蕉の弟子どうしの不和を仲裁するためという鬱陶しいものだった。本当は大坂なんかに来たくなかったのだ。この「義理の旅」が結果的に「死の旅」になってしまった。

この席で二句を読んだ
 
此道を行く人なしに秋の暮れ
 此秋は何で年よる雲と鳥

華やかな宴席でも体調はよくなかったが、以後、医者の手当ての甲斐もなく、下痢が続いて体力衰え、一人でトイレにも行けなくなる。死を悟ったうえで最後に詠んだのが「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」浮瀬の宴会から半月後、10月12日に亡くなった。(平成28年 角川文庫発行)


幻 


天神坂にある案内板の画像「浮瀬」
幻坂 

幻






読書と音楽の愉しみ



●高橋輝次(編)「誤植読本」を読む

 誤植についての自分のイメージは、年中ドタバタの原稿作りをしている新聞や週刊誌に意外と誤植が無い(少ない)ことで、これは誉めてもいいと思います。なのに、少しは時間的余裕があるはずの一般の出版物に誤植がよく見つかる。特に、文学作品での誤植は、著者と編集者には大ショックで、見つけた日には眠れないほど気に病む。やけ酒飲んでも醒めたらジンジンと心が痛む。とても「ま、ええがな」気分にはなれない。


本書には、作家や編集者、のべ42名が誤植体験を綴っていて、その半分くらいは、ニヤリ、ガハハと笑える文章なのが楽しい。ガハハと笑える誤植例の一つが林真理子サン。まだ若かりし独身時代のエッセイで大ミスが発生した。原稿で「こういうふうな言い方をすれば、女性の心を動かすことができて」に続いて「イッパツできまる」と書いた。それが、本ではなんと「イッパツできる」となっていたのだ。うら若き乙女?にあるまじきエロ作文ではないか。カーッと頭に血が上った林サン、出版社に駆けつけて猛抗議したが・・。


作家、中村真一郎センセの話。尊敬する哲学者が翻訳本を出版され、中村センセにも一冊恵送された。その「あとがき」に哲学者は出版が遅れた理由を書いていて、それが「或る情事のため」となっていたのだ。「事情」を「情事」と誤植してしまった。著者も編集者も真っ青・・この本、どうなったのかしら。


外山滋比古センセの話。明治32年、歴史的誤植事件が起きた。読売新聞がロシア皇帝について社説に書いた文に「無能無智と称せられる露国皇帝」なる字句があって大騒ぎになった。原稿は全能全智であったが、原稿文字の崩し方がヘタで、文選工が全を無とまちがって拾ってしまった。それはともかく、国際的大事件だ。どうしたか。空前絶後の「訂正号外」を発行して、なんとか事なきを得た。はじめに、新聞は誤植が少ないと書いたけど、この大誤植事件の教訓が今でも生きてると好意的に考えたい。


誤植は絶対許さない、という印刷物がある。印刷と同じ歴史を有する聖書であります。それでも不幸なことにミスは生まれる。聖書の印刷でチョンボしたらどうなるか。関わった人は死刑になった。聖書に「人は誰でも過ちを犯す」という文言があったように思いますけどねえ。神は許すけど、人は人の過ちを許さなかったということです。


とても悩ましい誤植があると書くのは詩人の長田弘センセ。人一倍感受性が強く、一字一句にこだわる詩作に誤植なんてあり得ないはずですが、それが・・ある。あった。センセの「貝殻」という作品の一行・・・

涙が洗ったきみやぼくの苦い指は

しかし、印刷された詩集では次のようになっていた。

涙が洗ったきみやぼくの若い指は

 苦い指が若い指に誤植されていた。許せる? 絶対許せない。地図で言えば、北海道と九州の位置を逆にしたくらいの大間違いだ。センセは即、編集部にミスを指摘し、友人知己には「若い指は苦い指の誤植です」と触れ回った。ところが、である。詩に造詣の深い友人知己の反応が意外だった。みんな「苦い指より、若い指のほうがいいじゃないか。苦い指では感興が浅くなる」というのだ。センセは誤植だけでもどーんと気分が落ち込んでいるのに「誤植のほうが良い」なんて言われて、さらにどどどどど~んと落ち込み、詩人のプライドはぐわらぐわらと崩壊した。


で、どうなった?。長田センセ、誤植を是としたのであります。何百回も苦い、若い、のあいだを彷徨しているうちに、誤植の「若い」指のほうが詩的に優れていることを認めた。たった一字の違いにどれだけ悶々と思い悩んだか・・ご本人しか分からない苦悩であります。誤植は悪である。しかし、万にひとつ、こういう想定外のどんでん返しもあります。


複数の作家が誤植について同じ悩みを書いている。熱心なファンがいることはとても有り難いけど、なかには誤植探しに熱心なファンもいるというのだ。新刊が発行された。著者が最初に目を通して不幸にも誤植を見つけてしまった。十分に落ち込んでるとしばらくして「熱心な読者」から手紙が届く。「先生におかれましては既にご存じのことと拝察しておりますが・・」と丁寧な文章に〇〇頁の何行目、〇〇頁のどこそこに誤植があります、と指摘してくる。著者は読者より先に目を通して誤植を見つけ、ガックリきているところへ読者に追い打ちされる。傷口に塩を擦り込まれるってこのことだ。しかし、その読者には御礼と感謝の言葉を連ねて返事を書かねばならない。嗚呼・・・。


と、他人の誤植話を楽しみながら、ならば、駄目男の文の誤植(誤字・脱字)はどないやねん、と言われると、無論「あり」としか言えない。掲載前に読み直し、掲載後でも気づいたら訂正しているけど、ゼロにはならない。なのに他人の作文(ブログ)のミスは気づいたりして・・。もしや、人間には「誤植病」という不治のビョーキがあるのではないか。(2013年 筑摩書房発行)

 誤植読本







読書と音楽の愉しみ



●お楽しみ「フェニーチェ堺」

 ホールの話をもう一つ。南大阪ではじめてのホール「フェニーチェ堺」がオープン一年前になり、カウントダウンイベントが実施されます(16日)。旧堺市民会館を解体撤去して、150億円を投じての立派な施設ができます。これで堺のカルチャーシーンは俄然レベルアップするはず・・です。市民の熱い要望に応えて、という話を聞かないだけに、正直、心配な面もありますけど。しかし、立派なハコができて、これに惹かれて千客万来ということもあるから、まずは楽しみにしておきませう。


ホールのイラストを見ると、西宮の「兵庫県立芸術文化センター」大ホールと似た設計で、座席数は同じです。心配なのは音響。芸センのような音楽専用ホールではないから残響2秒なんて無理でせう。設計趣旨には、クラシック音楽、ポップス、演劇、市民集会など多目的に使えるとあり、多目的は無目的という、旧来の市民会館と同じコンセプトです。交響楽団の演奏会があれば、天童よしみのコンサートもある。ま、しゃーないですね。最近の技術的進歩で、なんとかマシな音が聞けるよう期待します。


ホールの完成による一番ハピーな成果は、堺市を本拠とする「大阪交響楽団」のホームグラウンドができることです。(以前は大阪シンフォニカー交響楽団などといった楽団)いままで堺に音楽ホールがなかったから、大阪市内で演奏会を続けてきたのですが、これで堺市に腰を落ち着けて演奏会を開くことができます。定期演奏会もこちらに移すかもしれません.。来年はフェニーチェ堺と古墳遺産で盛り上がりませう。

■大阪交響楽団
http://sym.jp/publics/index/199/#page199_500

■フェニーチェ堺 資料
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/bunka/geibunhall/index.html


sakai


sakai 






読書と音楽の愉しみ



●Zepp Nanba で「大阪クラシック」

 どういう風の吹き回しか、ふだんはロックやポップスのライブをやるホールが、一回だけクラシックをやるというので,見物がてら訪ねてみました。場所は浪速区の「木津市場」のとなりです。定員は800人くらい? 座席は無くパイプ椅子。演奏曲はチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」。ステージで演奏できないので(回りに音を吸収されてしまうため)土間に椅子を並べての演奏です。


ホールは天井高は12mくらいあって十分ですが、反射音を抑えているので、弦楽器の音は全然響かない。自分は前から二列目で聴いたけど、後のほうで聴いた人はいささか貧弱な演奏を聴かされたことになります。全体にいかにも安っぽいつくりで、若者はこんなプアな空間で音楽を楽しんでるのかと同情したくなりますが、それは思い違い、照明やつくりもの、それに大音響で十分盛り上がるのでせう。よい経験になりました。(9月10日)


ゼップなんば 








読書と音楽の愉しみ



●高樹裕著「今のピアノでショパンは弾けない」を読む

 ピアノに纏わる話は面白い。本と映画で紹介した「羊と鋼の森」もそのひとつだけど「調律」という仕事だけであんなロマンチックな話ができた。本書は、ピアノのメーカーとピアニスト、その中間で仕事するチューナー(調律師)の話がメインになっている。著者が言うに、世界最高のピアノはスタインウエイ、世界最高のピアニストはホロヴィッツ、だという。著者はその最高のスタインウエイ・CD75と言うピアノを所有している。これを手に入れるまでの苦労話が面白い。


さて、題名の「今のピアノじゃショパンは弾けない」というのは、モーツアルトは弾けない」と変えたほうが分かりやすい。この意味は、ピアノの性能が断然良くなっために、作曲家が作曲当時に意図した音楽が表現できないということを指す。この難儀は、協奏曲や室内楽の演奏で顕著にあらわれる。今のピアノは音が大きすぎて他の楽器とのバランスがとれないのであります。特に室内楽では難儀する。さりとて、フタを閉めて演奏すれば音がモコモコしてかっこつかない。(実際に演奏会で体験すると自分の聴覚が自動的にコントロールされるのか、演奏が進むほどバランスがとれた音量に聞こえ、不快感は減ってくる)これはライブの場合で、レコーディングではきちんとバランスの取れた録音になる。


なぜ、ピアノの音がでかくなったのか。ホールが大きくなったためです。それまでは王様や貴族の前で弾くのが仕事だったのに、数百人入るホールで演奏するにはより音の大きいピアノが必要になった。音楽の大衆化がピアノの音をでかくしたのです。大きなホールで大勢の聴衆に聴かせる、という文化をつくったのはアメリカで、その象徴がカーネギーホール。そして、高性能のピアノを開発、提供したのがスタインウエイ。このピアノは今でも圧倒的に支持されていて、ヤマハもプロの評価ではB級に甘んじている。何がどう違うのか、これを説明するには本一冊分の言葉が要る。(2013年 日本経済新聞出版社発行)

ピアノ









読書と音楽の愉しみ



●訪ねてみたい、すてきな図書館

 2日のEテレ「美の壺」は全国のかっこいい図書館の紹介。もう、みんな行きたくなります。各地にこんなお洒落な図書館があることを知りませんでした。生涯、図書館に縁のない人もいるけど、ほんともったいない。館を訪ねるだけでも十分観光になります。


閲覧室は長さ200mというスケールの仙台市立図書館
図書館


和書より洋書のほうが多い秋田国際教養大学の図書館。内装は秋田杉。
図書館


昔の織物工場の煉瓦壁を生かした洲本市立図書館
図書館


木造校舎を移転、改造した滋賀・甲良町立図書館
図書館 


図書館 


図書館


このロケーションもすばらしい
図書館


東京・成蹊大学図書館 
図書館








読書と音楽の愉しみ



●高橋洋一著
 「これが世界と日本経済の真実だ」を読む

 本書のような国際情勢を論じた本は賞味期限がせいぜい2年。それより古い発行のものはまず読む気がしないほど中身が陳腐化が早い。著者は元財務省(大蔵省)のエリート官僚。あわよくば最終、事務次官に出世できたかもしれない。しかし、売れっ子ぶりをみると、下野したのは正解でせう。東大の数学科卒というのがミスマッチだったかもしれない。


一番興味があるテーマは中国の現状と将来
 しかし、2年前の発行だから最新の情勢はなく、中国のGDPのええ加減さを論じて、経済発展はもう行き詰まってると説く。そして今、米中貿易戦争が勃発して形勢は中国に不利であります。人民元の下落、外貨の急減、「一帯一路」政策の不振から先行きを不安視する人が多い。そして、つい最近は習近平への反感を露骨に表す人もいて、写真のようにポスターに墨汁をぶっちゃける事件まで起きた。(即逮捕された)コツコツと神格化をすすめてきたのに挫折する可能性5割と予想します。規制が厳しいとはいえ、これほどの情報化社会で個人崇拝=神格化を目指すほうがおかしい。


高橋 本



国の借金1000兆円、のインチキ
 財務省を主として「財政再建至上主義」を唱えるひとが国の借金1000兆円だぞ、どうするのだ、といって国民を脅かす。実際、これを真に受けて心配する人が多い。マスコミも財務省の言い分をそのまま垂れ流すから、単細胞人間は「えらいこっちゃ」気分になってしまう。1000兆円の借金があるのは事実だが、これは国の資産がゼロみたいな勘定での表現であります。うんと話を絞って、100万円の借金がある人を想定してみる。100万円の借金があるからといって、その人は野外で裸の無一物暮らしをしているわけではない。家があり、家財道具があり、普通に服を着ている。趣味も楽しむ。つまり、資産があるわけです。これを無視して素っ裸の状態で借金だけあると仮定するのが1000兆円借金説です。


国には1000兆円の借金があるけど資産もある。本書では貸借対照表で細かい数字を並べているけど、資産のうち、換金価値が高いものを選ぶとおよそ650兆円ある。これをさっ引いた金額が本当の借金といえます。先進国でもふつうは借金で国政を賄っていて、これくらいの比率なら「えらいこっちゃ」のレベルに非ず、というのが著者の見立てです。この極めてノーマルな話を無視して借金だけ吹聴するのは財務省の基本姿勢であり、その下心は明快に「増税」であります。


日本の「左巻き報道」に騙されるな
 これは本書のサブタイトル。左巻の具体名は挙げていないけど、あの新聞、あのTV局、などを指す。彼らは「国の借金1000兆円」で国民の不安を煽り、反安倍政権思想に誘導する。さらに、高齢化や人口減という事態を踏まえて「もう経済成長はしなくていい」と国の活力を削ぐような思想を刷り込む。左巻という言葉は左翼を指すとともに馬鹿なメディアであることもあらわす。経済問題を感情論でしか語れない左巻メディアを数学の達人は許しがたいらしい。(2016年 悟空出版発行) 

高橋本 








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●下重暁子著「家族という病」を読む

 よくもこんなにイヤミな題名をつけたもんだ。まあ、幻冬舎らしいセンスも感じますけどね。でも、この題名に惹かれて買った人も多いと思う。ヒットしたのかどうか知らないけど、中身より題名のインパクトで売れたこと確かでせう。著者、下重さんはNHKのアナウンサー出身らしいけど覚えていない。


一家団欒という言葉に象徴されるような「幸福な家庭」なんて本当にあるのか。幸せぶってるだけではないか。という根源的な問いから著者自身の生い立ち、人生を振り返って、自分は幸福な家族の一員ではなかったと断じる。父は軍の高官だったので経済的に困ることはなく、母にも溺愛された、という境遇からみれば「食うのに精一杯」な庶民にはとても贅沢な、幸せな家族に思えてしまう。幸福の次元が違うのであります。


真に自立した人生を送りたければ、家族のしがらみを捨てよ、と説くのでありますが、インテリで、実際、自立できている著者だから言えるのであって、シモジモの民は共感できないでせう。ただ、著者も言うように、現代の家族における不幸、親殺しや子の虐待死事件の増加は家族における「病」の増加であり、家族であるゆえに解決が難しい。・・というわけで、なかなか著者の家族論にはついていけないのでありますが、世間づきあいという点まで見方を広げれば納得できることもあります。でも、著者のような洞察力の高い人とつきあうと、自分は常に観察されてると負い目を感じてしまいそう。自分とちょぼちょぼの、スキマだらけの人間と付き合うほうがうんと楽しい。(2015年 幻冬舎発行)



家族という病