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読書と音楽の愉しみ


●鳥海 修著「文字をつくる仕事」を読む

 私達が新聞や本をよむとき、印刷された文字の書体について、なんという名前の書体か、誰がデザインしたのか、なんて気にすることはまあありませんね。しかし、その文字にはすべて書体名があり、デザインした人(グループ)がいます。そんな文字のデザインについてのウンチクを語っているのが本書です。こんな本、誰が読むねん、と訝りつつ、実際、退屈なページもあるけど読んでみました。


A新聞を10年間購読したあとB新聞を読むと、ん?・・と違和感を覚えることがあります。新聞名が変わるのだから当然ですが、記事紙面だけ見ても「なんか違う」という感じです。その原因が書体の違いのせいだと気づく人は少数ですがいます。そう、各社同じように見える書体が実は異なっています。朝日、読売、日経・・と各社専用の書体で紙面をつくっている。なおかつ、何十年かに一度、全部作り替えることがあります。それを請け負っている人の一人が著者で、書体デザイナー(フォントデザイナー)と呼ばれています。


書体は新聞社のように専用のものといろんな印刷物に使う汎用があり、デザイナーがこだわるのは汎用の書体です。自分のデザインした書体が世間でたくさん使われることでお金になるし、やりがいもあるからです。そして、一番チカラを入れるのが「本文明朝体」。新聞や本で普通に使われる書体です。では、優れた書体の条件はなにか。
 □読みやすいこと
 □美しいこと   

この二点です。言い方を変えると、良い書体とは、「水のような 空気のような」書体、即ち、個性や主張は許されない。読者に「書体」を意識させるようなものはアウトです。


こんなに厳しい制約のもとでデザインしたら、逆に、良い書体、悪い書体が生まれることなく、全部ワンパターンになってしまうのではと思いますが、そこがまた違うのですね。ものすごくビミョーな相違がある。優劣のある証拠に、著者がつくった「ヒラギノシリーズ」という書体は2005年にグッドデザイン賞を受けています。要するに、彼らプロに言わせれば、書体は年々進化、改善されてるというのですが、一般人(読者)には全然気がつかないくらいのミクロ的改善です。


そんな新書体開発の熱意が昂じると、本文明朝体においても、時代小説向きの書体とか、翻訳小説向きの書体とか、ついには「藤沢周平」作品にぴったりの書体をつくろう、なんてことを言い出すデザイナーが出て来る。言うのは簡単だけど、新しく書体を開発するには一万~二万字をデザインしなければならず、今はコンピュータを駆使するといっても、膨大な労力と時間がかかります。私達一般人が知らないところで熾烈な開発競争が行われているわけです。


逆にいえば、漢字や仮名文字には汲めども尽きぬ魅力があるということでせうか。読みやすい、美しい、というテーマでまだまだ追求するだけの奥深さがある。こんなデリケートな表現ができる文字って、日本語だけではないかと思いますが、それは一人よがりで、外国語にはそれぞれの「読みやすい、美しい」書体があるのでせう。(2016年 晶文社発行)


明朝にもいろいろな書体がある
文字をつくる仕事 



大正時代の活版文字の書体
文字 



文字 






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●佐藤優著「読書の技法」を読む

 読書人にもピンとキリがあって、佐藤氏はまちがいなくピンの一人でせう。作家だから、読むより書くほうが仕事では、と単純に思ってしまうが、書くためには膨大な読書が必要であります。では、どれくらい読んでるのか。一ヶ月平均で300冊だという。え?・・30冊の間違いでは? いいえ、300冊です。


まず、献本が月100冊くらいある。これは義理もあるから全部読む。それから新刊本を70~80冊、さらに古本を120~130冊くらい読む。これは平均で、多いときは月に500冊読むことがある。一日に10冊以上読むのが佐藤氏の読書習慣であります。その数の多さでビックリしてしまいますが、問題は中身。大半が哲学、思想、歴史、政治、法律、語学関係の本で、ちゃらい小説なんか皆目ない。(たまにマンガも読むらしいけど)


本は難易度で三種類に分けると著者は言う。「簡単に読める本」「そこそこ時間がかかる本」「ものすごく時間がかかる本」で、簡単に読める本は1~2時間、そこそこ・・本は政治や思想に関する本が多く、一週間くらいかかることもある。ものすごく時間がかかる本の見本は、田中美知太郎「ギリシャ語入門」改訂版で、一年以上かかった。月間300冊のうち、7~8割は一冊1~2時間で読める。これくらい早く読まないと「書く仕事」の時間がとれなくなってしまう。


佐藤氏は独自の速読術をもっている。では、世間に流布する速読術の本を素人が読んでも役立つのか、といえば、アウトだそうだ。そもそも、速読ができるのは、本の内容に関してある程度知識を有していることが必要である。哲学書なんか読んだことのない人が「哲学入門」なる本を速読できるわけがない。速読を学ぶ前に膨大な知識のストックが必要であります。そんなにムリしないで、普通に読んでスピードアップしたければ、1頁を15秒で読むトレーニングをしなさいと。う~ん、これだって相当に難しい。


こんなにモーレツに読みまくるのはなぜか。人生は有限、読書に費やせる時間は限られている、という切迫感のせいであります。時間がないのに、読みたい本はうじゃうじゃ湧いてくる。そんな気分は多少理解できます。駄目男が年間30冊の本を読めば、50年間で1500冊。たった1500冊、という少なさにガクゼンとします。これぽっち読んで何ほどの意味、価値があるだろうか。この無意味感は常にあります。(2012年 東洋経済新報社発行)



読書 佐藤優 





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●野坂昭如著「火垂るの墓」を読む

 著者の少年時代の実体験をもとに書かれた短編で、文庫版でも34頁しかない。しかし、本作品は「アメリカひじき」とともに直木賞を受賞した。新潮社で文庫化され、昭和47年以来76刷と地味ながら長く読み続けられたロングセラーです。尤も、人数でいえば、本を読んだ人より、アニメで観た人のほうがずっと多いような気がする。アニメは観たことがないので、出来栄えはわからないけど、著者と同世代の、つまり、戦争の記憶がある人は原作を読むほうがずっと共感しやすいと思う。


ところで、この本を読んだ動機は作品自体の評価とは別のところにあります。産経新聞6月24日の文化欄「道ものがたり」で本書がとりあげられ、作品の舞台になった神戸市灘区界隈を紹介しています。ライター、福島敏雄が注目したのは「作家はどこまでウソが許されるか」という、なんだか穏やかでない話です。もちろん、小説=フィクションだからウソが当たり前であること前提にしつつ、本書以外の自伝的作品におけるウソの記述に首をひねる・・というルポです。


著者の14歳時の空襲体験は作家としての原体験であって「火垂るの墓」以外の作品でも度々語られている。その生い立ちや人間関係の記述が安定しない。そんな細かいこと、どうでもええがな、と思うのですが、ライターは気になったらしい。また、著者自身、晩年になって今まで「自伝」として書いてきたことの真偽を反省しているようにも思える。
 最後に、野坂昭如はペンネームで、本名はの姓は「張満谷(はりまや」という変わった名前だった。そして中央区春日野の墓地に代々の墓があって、毎年6月(空襲を受けた月)に墓参りに出かけたと「ひとでなし」という作品に書いている。


ライター氏は春日野墓地に出かけて墓を探した。管理事務所でも登録簿を調べてもらったが、張満谷という名の墓はなかった。だからといって、戦争を描いた文学作品のなかで傑作といわれる「火垂るの墓」の評価を貶めることにはならない。それを認めつつ、ライター氏は「作家の倫理」に一抹の不信感を抱いて文を閉じている。


「火垂るの墓」の舞台を訪ねる
http://www.hyogonet.com/drama/hotaru/index.html

アニメ制作では小説で描かれた神戸や西宮の現地をロケして、かなりリアルに風景を再現しているらしい。上記のブログでその説明があります。下の写真は、14歳の主人公、清太と4歳の妹、節子が意地悪な親戚の家を出て、池の畔に穴を掘って暮らす場面に出て来る「ニテコ池」。ここでたくさんの螢を見た。節子はこの穴で餓死し、一ヶ月後、清太も三宮駅構内で、誰にも看取られずに餓死する・・という筋書きになっている。


ニテコ池 遠くの山は甲山
ほたるの墓 ニテコ池

(昭和47年 新潮社発行(文庫版)
表紙


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●V・E フランクル著 「夜と霧」を読む
 
 若いころから、いつかは読まねばと気にしつつ幾星霜、ふと気がつけば半世紀も経っていたのであります(笑)。しかし、ぐずぐずして良かったことがある。著者が原稿に手を入れて版をあらため、訳者もチェンジして、巷の評価ではとても読みやすくなったとある。実際、池田香代子の新訳はとても読みやすい。翻訳文にありがちな、まわりくどい、もったいぶった表現がなく、スイスイ読めます。


フランクルは、フロイトやアドラーの指導を受けた精神科医。オーストリア生まれのユダヤ人。1942年、ナチスの強制収容所に入れられ、妻、二人の子供、父母は収容所のガス室等で殺された。本書は三年足らずの収容所体験をいかにも精神科医らしい思考、判断で綴ったもの。明日、殺されるかもしれないという状況でも、人間とはなにか、何が出来、何ができないか、冷静に見ていた。ノートや筆記具なんかないから記憶だけが頼りで、ゆえに、出来事の時系列ははっきりしない。(いっとき、紙くずに速記用語でメモしたこともある、という記述はある)


収容所の劣悪な環境は心身の弱者を自動的に選別した。ガス室に入れなくても勝手に死んでゆく。栄養失調状態で、昔の繁盛山小屋のように、タタミ一畳に二人、三人、というような生活が続けば、次々に死ぬ。ゆうべ言葉を交わした隣の男が、朝、死んでいた。こんな状況で人間らしい感性は麻痺し、感情の起伏さえ失われてゆく。のみならず、死んでまだ体温の残ってる身体から服をはぎとって自分が着る。どうせボロ靴なのに脱がせて交換する。全員がポーカーフェイス。誰も悲しまない。


著者自身、飢えや寒さや疲労のあまり、幻覚を起こしたりするが、まだ、自己と他者を認識できる精神力は残っていた。99%の絶望的状況にあっても「まぎれもない自分」でありたいと思う
。「人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ」この個人の尊厳だけはナチスも奪うことはできない。

 「行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」(青色文字は引用文)


ナチス(ドイツ人)に対する怨念の強さ、いかばかりかと思うのですが、1945年の解放時にはこんなことがあった。ただ一人、人間味を失っていなかった収容所長(こっそり、みんなに薬品やたばこを差し入れてくれた)には穏便な扱いをするように連合軍の兵士に頼み、その通りにさせた。普通なら、被収容者全員で掴みかかって殴り、踏み殺してもおかしくない場面である。この場面、全員の意志のように書かれているが、訳者は著者、フランクル個人の計らいだったのではと書いている。


もう一つ、訳者が驚いたと書いていることがある。新版の本文で「ユダヤ人」という言葉は二回しか出てこず、旧版では一度も使われなかったという。これは、ナチス(ドイツ人)=加害者、ユダヤ人=被害者、という図式ではなく、ユダヤ人でなくてもあり得るホロコーストであることを言いたかったのではないか。実際、被収容者のなかには、同性愛者、ジプシー、社会主義者もいた。戦後70年以上経って、現在のイスラエルのありさまを考えると、どう見ても「やられっぱなしのユダヤ人」ではない。被害者感覚ではアラブ人のほうがずっと強い。


ホロコーストの規模(犠牲者数)においては、スターリンや毛沢東のほうがずっと悪質だと思うが、ドイツのそれは、言い訳はともかく「国民の合意」があったことが最悪である。いや、日本だって、戦時中はマスコミと軍部が一丸となって戦争を煽ったではないか、ナチスと変わらない、という見方もあるけど「民族浄化」なんて恐ろしい発想はなかった。ソ連や中国の大虐殺は、憎き敵国人を殺したのではなく、自国民を殺した。なのに、毛沢東が「建国の英雄」として尊敬の対象になってるのは笑止千万であります。(2002年 みすず書房発行)



夜と霧 







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● 映画「羊と鋼の森」鑑賞

羊と

 主人公はピアノの調律師をめざす若者。その成長の物語であります。こんな地味な話でお客さんくるんかい? 誰しもマユにツバするでせう。世の9割以上の人はクラシック音楽に興味がない。なのに、さらに重箱の隅をほじくるような「調律」のことなんか、100人に一人くらいしか興味がないでせう。企画したプロデューサー氏は客入りのことが気になって眠れなかったのではないか。


上映最終日に行くと、案の定、お客さんは十数人。そのほとんどが女性で、オジンは自分だけでした。ま、しゃーないか。この映画は、2016年度の「本屋大賞」を受賞した同名作品の映画化、作者は宮下奈都。本のほうはよく売れて100万部突破のヒット作となった。全国で地味に活動されてる調律師のみなさんには大きな励みになったと思います。


もともと小説でも映画でも表現が難しい「音」の話ゆえ、絵づくり(音づくり)はデリケートにならざるを得ない。そこで救いになるのが、この映画には悪役が一人もいないこと。原作もそうでしたが、悪役が登場して話の起伏が大きくなると「調律」なんかぶっ飛んでしまいます。あくまで、地味に、しずしずと話を進めなければならない。そんな話の背景になったのが、北海道・旭川とその周辺の美しい森林風景です。この映像美は原作では表現しにくいので上手くはまった。コンサートホールでのシーンでも、外観を写さなかったのは〇だと思います。あくまでも、カントリーシーンの中の地味な物語です。出演は、山崎賢登、鈴木亮平、三浦友和など。エンディングで辻井伸行がピアノを弾いている。


貧乏性、駄目男はやっぱりカネのことが気になって、帰宅して売上げ(興行収入)を調べました。約4億4千万円。ま、これなら赤字にはならない。健闘といえます。察するに、原作を読んだ人の三人か四人に一人が映画も鑑賞したといえます。自分がそうであったように、原作を読んだ者は「こんな地味な話をどうして映像化するのか」が気になるのです。その期待を裏切らなかった出来栄えといえるでせう。


あとで知った事ですが、この映画は天皇、皇后両陛下がご覧になった。上映の半月くらい前に六本木の映画館で鑑賞され、監督はお褒めの言葉を頂いたという。コレが効いた。ン万人分の売上げアップに貢献したはずです。本来なら、カンヌで金賞をとった「万引家族」をご案内するべきところ、家族そろって万引きに励むという話ではねえ・・。で、タナボタで「羊と・・」にチャンスがきた、と想像します。あるいは、もしや、皇后陛下が原作を読まれて鑑賞をご希望されたのかもしれない。(上映終了)


羊と 



皇后陛下の右が主演の山崎賢登。
羊と




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●川口マーン恵美著
    「そしてドイツは理想を見失った」を読む

 たまには少しカタイ本も読む。著者は本来ピアニストとしてドイツ暮らしをしていたのに、なぜか政治に興味をもち、というかドイツ人の思想や民族性への関心が高く、それも共感ではなく,批判的な見地で語るのが得意のようであります。本書も基本はメルケル政権に対する疑問や批判でスジを通している。ドイツの政界はゴタゴタしていると言う点では日本以上の混迷ぶりで、本書を読む限り、政権運営でドイツから学ぶべきことはあまりなさそうであります。むしろ、メルケルおばさんの苦労ぶりに少し同情の気持ちも湧きます。


ドイツ政府が抱える難儀な問題四つ
・難民問題
・EU内部のゴタゴタ
・エネルギー問題
・貧富の格差問題 言論統制の問題


三年前、各地からドイツを目指して大量の難民が押し寄せたときのメルケルの対応ぶりは高く評価された。困った人たちは全部受け入れるという超寛容な、人道主義の鑑みたいな態度だった。しかし、そんなの長く続くはずがない。ドイツは長年、外国人労働者を大量に受け入れてきたが、初期はともかく、現在求めている外国人の人材は知的レベルの高いエンジニア等であり、家政婦や工場労働者レベルの人材ではない。そういうレベルの難民が押し寄せても、もう受け入れる余地はなくなっている。


かくして、難民受け入れ反対派が国民の支持を得て議席を増やしてくる。日本に於ける「安倍一強」みたいに強かったメルケル政権も次第に力を失い、不本意な妥協を余儀なくされる。国内だけでなく、周辺国もドイツの難民策に対して露骨に異論を唱えだした。この間までドイツの幇間みたいだったフランスはマクロン大統領が登場して「うちの政策で対応する」と言いだし、地味で従順なオーストリアには31歳、世界最年少のクルツ首相が難民に厳しい政策を掲げて当選した。今後、メルケルの舵取りは難しくなる一方だ。


EUの成立を人類の理想の一つが実現したと手放しで賞賛する世間知らずがたくさんいるけど、発足以来、ドイツが一人勝ちしている状態では「みんな平等で仲よし」であるはずがない。日本に置き換えれば、ドイツが東京都、フランスが埼玉県、ベルギー、オランダが千葉県・・みたいな感じで、上下の格差がハッキリしている。この格差はEUが亡くなるまで消えない。のみならず、EUの発展ぶりを見て「後出し」で新たに加わったポーランドやチェコ、ハンガリーなどは、はっきり言ってEUの「ええとこ取り」が目当てで、美味しいところは取り込むが、面倒な義務は負いたくないという態度が見え見え。難民問題についても、はじめに損得勘定ありきが政府のスタンスになっている。こんな国を仲間として説得しなければならないのだから、メルケルおばさんも苦労します。


ドイツは、少なくとも日本よりは成熟した民主主義の国というのも常識?になっているが、本当か。シモジモの民まで議論好きという点は学びたいが、ドイツ人らしい「理想を掲げ、実現に向かって邁進する」国民性はときに理想と現実のアンビヴァレンツに悩むことにもなる。そのサンプルが原発廃止、自然エネルギー推進政策の矛盾であります。
 これに関しては過去に書いたので省略するが、福島原発事故をうけて、ドイツ国内の原発は即時廃止せよの過激な世論が生まれたあと、案の定、期限付きで廃止というゆるい施策を余儀なくされ、未だに議論が続く。自然エネルギー発電には,バックアップ用に石油か石炭による同量の発電が必要だが、これが環境汚染のモトになるという因果な事態が解決できない。あちら立てれば、こちらが立たず、であります。ただ、日本に比べてドイツが有利な点は、電力不足が起きたら周辺諸国から簡単に買えるということ。島国の日本でこれは出来ない。


格差問題や言論問題に関しては日本と同じような悩みを抱えている。しかし、問題の複雑さという点では多民族を抱えるドイツのほうが深刻であります。何度も書いてきたけど、単民族、島国という日本の国勢はドイツだけでなく、EU諸国民にとって羨望の的でありませう。
 おしまいに、見習いたいことが一つ、ドイツでは得票率が5%以下の政党には議席を与えないというルールがある。これは塵芥的野党を掃除するために日本にも取り入れてほしい。(2018年 KADOKAWA 発行)


ドイツは・・








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●あの飛田新地と背中合わせにあるドッキリ空間

 西成のジャズシーンで使われる会場は変遷のうえ、二箇所に絞られてきました。小汚い喫茶店、又は大汚い酒場とさよならして選ばれたのがいずれも元銀行のオフイスというのが面白い。なんの因果で銀行やねん、と怪しむが、お堅い銀行も身売りして生々流転の挙げ句に、西成ならではの変身を遂げた。昔日の銀行の姿を覚えてる人が見たら絶句すると思いますよ。


今回、はじめて訪ねた「永信防災会館」は名の通り、災害時の避難及び救護活動の拠点で、飲料水20トンや非常食などを備蓄している。ロケーションはあの飛田新地と背中合わせで、近辺には鉄筋コンクリート造りの建物がないから、大地震や大水害のときは、元銀行(永和信用金庫)のここは貴重な拠点になります。・・と、それは納得できるけど、このインテリアは、な、なんですか。なんでこれが防災拠点やねん、と誰しもが突っ込みたくなるでせう。改装に際しては地元住民の意見も聞き、大阪市や西成区役所も深く関わったはずなのに、その結果がこれ?。


と、ひどいミスマッチぶりに異議を唱えながら、ジャズライブ会場としては上等すぎるハコであります。太子の[Donna  Lee]より10倍快適で飛田にいることも忘れてしまいそう。なんでこれが防災拠点やねん、という正しい疑惑も酒を呑んでるうちに忘れてしまい、プレイヤーの熱演に拍手を送るのでありました。ジャズファンはぜひお運びを。(ライブは現在、月2回あります)

西成ジャズ スケジュール表
http://nishinarijazz.blog133.fc2.com/blog-entry-200.html

永信防災会館の案内
https://www.plus1-nishinari.net/map

チャージは投げ銭制
永信

永信 








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●文藝春秋7月号
 石井妙子著「小池百合子 虚飾の履歴書」を読む

 小池百合子の正体について、マスコミは今までしっかり調べて来なかったのか、いまいちよく分からない。本人が語る履歴をほとんど鵜呑みにしてきたきらいがある。そこで、あらためて履歴を洗い直してみた、というのが本稿であります。今回はカイロ暮らしでアパートの同居者だった中川さん(仮名)への聞き取りが記事の中心になっている。


読んでみると、タイトルの通り、小池知事の若い頃の履歴はウソだらけだと断じている。巷間一番はなやかに語られている「難関のカイロ大学を主席で卒業」はなかった。当時も今も、アラビア語は挨拶くらいの片言しか話せない。卒論なんて、とんでもない。日本の大学で2,3年、予備的にアラビア語を学んできた人とっても、会話も作文もとても難しくて、カイロ大学になんとか入学はできても、よほど努力しないと挫折してしまう。


しかし、ご本人は卒業証書をもっているといい、カイロ大学に問い合わせると、確かに証書は発行したという。(証書のコピーを見せてほしいという著者の要望は叶わなかった)真相は如何・・。
 どうやら、コネを使ってニセの卒業証書を取得したらしい。モラル的に途上国であるエジプトでは普通にある「いんちき入学、いんちき卒業」ではないかと著者は書く。それは、中川さんが語る小池氏の生活態度、人間関係からも察しがつく。功成り名遂げた現在の小池氏からは想像外のハチャメチャの生活態度だった。しかし、一方で、彼女はモテた。しょっちゅう日本人男性が二人のアパートへ来て、彼らを要領よくもてなした。それだけでもアラビア語の学習時間なんかとれないくらいだった。


読み終わって駄目男が推理するに、彼女はソフトな「サイコパス」ではないかと。純度の高いサイコパス=反社会的人物なら東京都知事など務まらないが、世渡りの練度が高いぶん「こなれたサイコパス」はありうる。選挙で大衆の喝采を浴びるサイコパスもいた、ということです。


あらためてサイコパスの人物像を書くと・・・
・平気でウソをつく。
・良心の呵責で悩むことがない。
・リスクを負い、突破できる強さがある。
・表面的にはとても魅力がある振る舞いができる。
・心を許せる友人がいない。

都知事選挙や新政党起ち上げなどで、大成功、大失敗を経験し、ふつうなら心が折れてしまいそうな場面が何度もあったのに、少なくとも表向きはポーカーフェイスで凌いできた。必死の努力というより、天与の才能ではないかと思ってしまう。東京都職員16万人のリーダーであれば、義理人情に揺らぐ心の持ち主であるより、ソフトなサイコパスであったほうが職務遂行に向いている・・のかも知れない。


小池百合子 







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長居植物園のジャカランダ。見頃は終わりました。
jakarannda

●宮本輝:吉本ばなな 対談
            「人生の道しるべ」を読む

           
 この両者、イメージとして、保守と革新みたいにソリが合わないのではと想像しますが、そうではなく、お互い、相手には十分リスペクトの念を抱いて「わかり合える者どうし」であります。ばななさんにとって輝氏は斯界の大先輩であるとともに、父親を慕うような親密感も抱いてる。ま、そこんところ、どこまでホンネを語ったのか・・?ですが。


創作の裏側を語るというのはなかなかしんどいことなので、そこはあまり深く立ち入らないようにしている。金目当てで書いてますなんて言う人いませんし。でも、宮本輝氏はデビュー以後、マイナーな作家にならないために、金儲け目当てを含めてものすごく努力した、ということが分かります。仕事に没頭し過ぎて親子の関係がぎくしゃくするが、とにかく作家として、地位的、経済的に「安全圏」に入るまでカリカリ仕事した。


結果、それは報われて全集が出るほど作品は増えたし、芥川賞の審査員も勤めたし、ゼニのことでいえば、軽井沢に別荘を持つことも出来た。万全でありませう。氏は若い頃は広告代理店のサラリーマンだったが、神経が細いことからパニック障害を起こし、失業する。電車での通勤が恐怖で家から出られない。通勤せずに金を稼ぐには・・と考えて作家になったわけですが、食えない延長上が死であるからその恐怖もある。有名作家になってからも必死に仕事したのは、そんな恐怖感の裏返しともいえます。でも、失業→貧困→餓死、の連想は失業経験者なら大方味わう恐怖です。ただ、作家という選択肢は、ふつうはないでせう。


ばななさんのほうはそんな切羽詰まった生活ではないから、貧困がテーマの作品なんて書けない。人物設定がユニークというか、けったいというか、それが持ち味で、オーソドックスな宮本作品とは対照的。まあ、陳腐な時代小説を読んでるような人には縁のない作品です。そんな彼女もはや五十路の女、この先、何を書くんでしょうか。


二人が言うに、作家たるもの、自分独自の死生観を持つべしと。これが通奏低音のように作品の底に流れていないと薄っぺらになる。文学と娯楽読み物との違いはこんな言外の思想ありや、なしや、にある。若い、ベテラン、年齢に関係なく必要であります。芥川賞と直木賞の境目か、といえば、さあ、どうでせうか。両方を読んでいたら、なんとなく違いはわかります。


宮本氏の生涯の愛読書(度々読み返す本)は3冊。モンゴメリの「赤毛のアン」島崎藤村の「夜明け前」そして西行の歌集、だそうであります。西行の歌集なんてシブイですなあ。(2015年 集英社発行)

人生の道しるべ






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●幸田 文著「木」を読む

 文章の上手さに魅せられて、読み出したら止まらない。「杉の木は縦縞の着物をきている」なんちゃって、万年着物姿の著者が書けば,読者はたちまち幸田ファンになってしまうのであります。ま、文章の上手さは親の血筋といってしまえばそれまでなのですが。(父が幸田露伴)


著者、最後の作品で、60~70歳代に全国の「木」を巡り訪ねたエッセイ。観光地の有名樹木は屋久島の「縄文杉」だけで、他は著者が個人的な興味から、森林関係者の協力のもと、足弱なのに深山に分け入って出会いを楽しんだ。悪路急坂は山男におんぶされての難行で、世話する側も大弱り? 幸田文でない、只のばあさんだったらキッパリ断ったでせうね。ブランドの効果大であります。


研究者や業者ではなく、作家の見る木であるから、そこは文学的観察になるのは仕方ない。それにしても感情移入がすさまじくて、木の生い立ち、処世術、死と再生など、つい擬人化して語ってしまう。さりとてコーフン状態のまま綴るのではなく、そこは抑制もされてるのですが、まあ、これほど木への思い入れの強い作家は他にいないでせう。  


いちばん感銘深いのは「えぞ松の更新」です。北海道富良野の東大演習林にその例を見ることができる。駄目男もはじめて知る木の死と再生の話です。なにしろ気候の厳しい土地、普通に地面に落ちたタネが芽を吹いて、というわけにはいかない。何百年か生きて命尽き、倒れた大木に苔が生えると、ここが新しいえぞ松の生地になる。落ちてくる種のなかの、ほんの一部の幸運なものがここで発芽する。しかし、そのほとんどが成長できずに消えてしまう。地面でなく倒木の円周の上面に落ちた種、というから宝くじ的確率であります。生き残った若芽は腐敗が進む倒木を栄養源にして育つ。地面に落ちたのは栄養が足りないとか、日照不足で育たない。


なんとか生き残った若木は倒木の栄養で育つが、そのうちに倒木自体は完全に腐敗してカタチを失い、地面と同化する。結果、若木は一列に並んで成長する。これを「えぞ松の更新」という。親の屍が子を再生し、自らは子への栄養分となって形を消す。過酷な環境のなかで、どうしたら子孫をのこせるか。えぞ松にはこんな智恵があったのです。おそらく何万年とか、気の遠くなるような歳月のなかで学習したのでせう。これを学者は子孫維持の高度なシステムととらえるが、幸田文には涙なくして語れない輪廻転生の物語だった。今年読んだ本の中では一番のスグレモノでした。(平成7年 新潮社発行(文庫)

蝦夷松の更新(北海道 東大演習林)
倒木に苔が生え、その上に種が落ち、芽をだす
ezomatu

若木が倒木を栄養源に生長する
ezomatu


百年、二百年後、一列に並んで大木になる。
5-IMG_0938.jpg 


ezomatu 




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●武部好伸著「ウイスキー&シネマ」を読む

 映画の小道具として登場する酒を物語とともにウンチクを傾ける。お酒を飲まない人には興味0%の本だけど、ウイスキーも映画も好き、という人はほとんどいないので、まあ、売れない本です。そうだったのかと驚いたのは、あの英国の「鉄の女」と呼ばれた、マーガレット・サッチャー首相がアル中に近いくらいの酒好きだったこと。ご馳走が並ぶ公式の晩餐会でもワインを断り、ウイスキーを飲んだ。フランス料理にウイスキーって、ダイジョウブ?と他人事ながら気になります。映画「鉄の女の涙」でサッチャーを演じたのはメリル・ストリープ、似せるのに大苦労したでせう。彼女が愛飲したのはスコッチのメジャーブランド、フェイマス・グラウスだった。


・・てな、話が何十編も登場するのですが、やや、残念なのは古い映画が多くて、出て来る酒が今の時代感覚に合わない。オールドパーやカティサークをもったいぶって語られてもピンとこないのであります。日本でいえば、サントリーオールドや角瓶を恭しく頂くという感じで笑ってしまう。


小津安二郎監督の遺作「秋刀魚の味」も紹介されている。1962年の作品だから東京オリンピック(1964)の頃。笠知衆、岩下志麻、岸田今日子、加藤大介などが当時の典型的な中流家庭の人間模様を描く。そこで登場するのが、トリス、オールドで、庶民でもなんとか親しめるウイスキーだった。トリスバーのキャラは柳原良平のアンクルトリスというのも懐かしい。そして,ギフトに登場するのがジョニーウオーカー。マルビは手の届かない高嶺の花の酒でしたが、それが今じゃ全くの安物扱い、ドラッグストアで売っている。この時代にトリスやオールドに馴染んだおじさんたちは、生涯、美味しいウイスキーの味を知らないままあの世へ行ったのでは、と想像します。(2014年 淡交社発行)


映画「秋刀魚の味」のポスター
秋刀魚の味

ウイスキー本








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●楊海英著「逆転の大中国史」を読む

 著者は北京の大学で日本語を学んだあと、日本へ留学し、別府大学などでアジア史を学ぶ。しかし、著者はモンゴル人である。その目で見た常識的なアジア史、とりわけ中国史はとうてい納得できない。モンゴル人の血と中国文化圏人という葛藤を経て、アジア史の主役は中国では無く、モンゴル(遊牧民族)史だと唱える。その思想を支えたのは、梅棹忠夫氏をはじめ、多くの日本人学者だった。そして、日本へ留学した11年後(2000年)著者は日本へ帰化した。


いや、もう・・ややこしい話であります。モンゴルで生まれ、北京の大学で日本語を学び、日本へ留学して歴史を研究するなかで中国の歴史観(世間の歴史観でもある)に異を唱え、反中国思想に傾き、モンゴル人もヤメて日本人になった、のであります。結局、この人のアイデンティティは奈辺にあるのか、自分がその立場だったら悶絶死しそう・・と想像してしまう。まあ、それは日本人、駄目男のしょぼい発想で、ご本人は「日本人になりましてん」くらいの感覚かもしれないけど。


現在の中国でも、国土は日本の16倍もあるのに、著者の歴史観のキモは「ユーラシア」であります。西はヨーロッパに達する広大さである。その中のほんの一部を「漢民族」が占め、本当は何回もコテンパンにやられたのに主役ぶっている。そのあげく「中国ー悠久の四千年史」みたいな言い方が常識になってしまった。特に漢籍学者なんかは、中国史イコール漢民族史という概念にとらわれがちだ。当然だが、漢字文化だけが中国を語るわけではないのに、漢籍学者の頭にモンゴルはない。


中国の歴史に比べたら、日本の歴史はなんとシンプルでありませう。登場人物の99%は日本人であります。その上、異民族に支配されたことがない。そして国土は狭い。四方、海に囲まれている。ゆえに楊海英氏のような「ややこしい人生」を送らなくて済む。だからといって日本人はシアワセ、なんて思ってる人もいないけど。本書は石田俊雄さんからお借りして読みました。(2016年 文藝春秋発行)

大中国史






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●吉本ばなな著「キッチン」を読む

 ヒロインみかげは子供の時分に両親を亡くし、代わりに育ててくれた祖父母も亡くなって天涯孤独の身になった。そんな彼女をボーイフレンドの雄一が「うちで暮らしたら」と誘う。訪ねてみると彼は美貌の母親と二人暮らしで、みかげを暖かく迎えてくれた。しかし、いつまでも好意に甘えるわけにはいかない。そんなある日、ドッキリの事実を知ることになる。雄一の美しい母は男だった・・・。


 四天王寺の古本市の「一冊100円コーナー」で買った本。1988年発行だからもう30年も昔の「古本」であります。しかし、内容,表現は少しも古くさくなく、デビュー作とは思えないこなれた文章で読み出したらとまらない。努力の成果ではなく、持って生まれた才気が感じられる文章です。但し、たった60余ページで終わってしまう。雑誌に掲載した作品だから仕方ないが、これではいくら優れていても単行本にできない。なので、キッチン2を加えた。そんな出版事情は理解できるけど、「2」はなくもがな、であります。味が薄まってしまうのは仕方ないか。それでも近年の芥川賞作品なんかよりはずっと魅力的な作品であることは認めます。


題名のせいではないと思うけど、読者は女性が断然多いらしい。かつ、発行後30年を経ても本書をバイブルのように読み返す、手放さない人がたくさんいるようで、これは著者にとってこの上ない幸せでせう。で、この作品の魅力、奈辺にありやと思えど、文章の上手さ以外、老いぼれジジイにはいまいち分からない。身内をすべて亡くしてしまった女のコがそれでも明るく生きようとする、その切なさに共感する・・だけなら、ハーレクインレベルですが、その先にある抗いがたい孤独と死の暗示が、おねえさん、おばさんたちを「哲学」に導くのかもしれません。(1988年 福武書店発行)

キッチン








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●お寺 de ジャズライブ

 上町筋の少し西側、雲雷寺というお寺で長年ジャズライブをやってる・・こと知りませんでした。この寺は、界わいでは少数の日蓮宗の寺で、建物の趣が他宗と違っています。伝統にとらわれないデザインで、ライブの会場の講堂はほぼ洋風。ベンチ型の長いすはキリスト教会のそれと同じです。


出演は臨時編成の畑ひろし(G)光岡尚紀(B)冨永ちひろ(D)のトリオ。そして、ヴォーカルのヨシノミナコ。畑さんはあちこちのミニライブで、光岡さんはKAMAPABUで、なんどか聴いたプレイヤ-。冨永さんはジャズでは少数のドラマーで、小さい体格なのに男顔負けのパワフルな音をたたき出す。ヴォーカルのヨシノさんは三十路と思しきシンガーですが、好きでやってるとはいえ、世間に人材がありすぎて埋没を余儀なくされるのが現状。CDを自主制作してもぜんぜん売れないとボヤいていましたが、同業にみなさん、すべて似たようなものです。


聴衆(150人くらい?)のお目当ては畑さんのギターだと思いますが、まったくよどみのない、かつ、細部のテクニックに凝った演奏はお客さんを十分楽しませたと思います。メロディラインを奏すれば、ピアノやキーボードよりずっと魅力的な演奏です。大阪芸大出身では今、もっとも人気のあるギタリストだと思います。(5月12日 参加費千円)


変わったデザインの鐘楼と講堂
お寺ジャズ 


演奏風景
お寺ジャズ 






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●森まゆみ編「森鴎外珠玉選」を読む

 ときに、子供じぶんに読んだ短編の名作を読む。今回は大活字本で「舞姫」「山椒大夫」「高瀬舟」ほかを読む。一番の魅力は読後のしみじみ感。「高瀬舟」を読むのは三回か四回目だけど、毎度思うのは「もうチョット先まで書いてもらえまへんか」という勝手な願望。なんか,映画のラストシーンを見逃してしまったようなもどかしさを感じる。あと1頁か2頁足して不幸なドラマにオチをつけてほしい。(そんなサービスは不要、現行のママが最良というのが世評だと思いつつ)


「舞姫」は鴎外の青春時代の体験をもとに書いた恋愛小説ですが、相手の女性が帰国した鴎外を追って日本へ来たというから、ちょっとした事件です。しかし、恋は成就しなかった。(森家が許さなかった)それは仕方ないとしても、鴎外はこれをネタにして他人事みたいに小説を書き、世に問うのだから「鴎外、お前もワルよのう」と、誹りたくなります。


「山椒大夫」は江戸時代の説教節「さんせう大夫」を鴎外流にリメイク
した物語。高貴の家族が一家離散の目に合う話ですが、ネタになった「さんせう大夫」はえげつない残酷物語で、それは因果応報、地獄極楽のさまを庶民に分かりやすく説くための演出と思われる。鴎外は、これじゃ世間に受けないと筋書きや表現を大きく変えた。そのさじ加減が良かったのか、今日は教科書に載るくらいの名作と評されています。もし、別の作家が別の解釈でリメイクしていたら「名作」たりえたか分からない。(2013年 講談社発行)


森鴎外 


金正恩は現代の「さんせう大夫」
現代感覚でいえば、山椒(さんせう)大夫は北朝鮮の独裁者、金一族と言えます。なんの罪もない少年少女(安寿と厨子王)を拉致し、こき使う。反抗すれ半殺し、なぶり殺しにする。作り話とはいえ、拉致被害者の関係者は辛くて読めない物語です。場所の設定が越前や越後など日本海側の海岸や島になっていることも耐えがたい。


説教節によれば、悪の権化「さんせう大夫」は当然、報いによってこれ以上無い残酷な殺され方をする。しかし、鴎外の「山椒大夫」はぜんぜん違って山椒大夫(金一族)と報復者(厨子王)はミョーな妥協をしてしまう。金は殺されないという結末です。厨子王と山椒大夫を日本政府と金正恩に置き換えれば、昨日今日の現実世界ではありませんか。(2013年 講談社発行)


見えてきた・・独裁者の末路
 現代の「さんせう大夫」金正恩が突然、中国を再訪して習近平と会談。なんのために? 核問題云々はプレス用の発表、ほんとうは金が習近平に「たたた、助けて下さい、私を見捨てないでください」と土下座して命乞いした、というのが駄目男の想像。キンペイは手のひらに金豚をのせて「ウブよのう金豚君、トランプごときにビビったりして」とニンマリ。北朝鮮の運命は中国に委ねられることになった。


金正恩は夜ごと悪夢にうなされているのではないか。自分の末路の姿がハイビジョン画像で浮かぶ。悪夢のモトはトランプが新たに指名したボルトン大統領補佐官だ。軍事的解決を辞さない強面男。そして、彼がチラと述べたのが「核問題の解決にリビア方式を参考にする」の一言。欧米の圧力によって核開発は中止、関連施設の廃棄に追い込まれた。のみならず、独裁者、カダフィー大佐は内乱のさなか、反カダフィー派の兵士に射殺された。血まみれの遺体は兵士たちに踏みつけられた。さらに、遺体はショッピングセンターの大型冷蔵室で群衆に公開された。核開発では同志だったリビアの独裁者の末路である。


米国等による「斬首作戦」、政権内部者による「暗殺」のリスクはますます高まる。いや、そんな暗い発想ではなくて、奇蹟のように平和的な解決がなされ、北朝鮮は民主主義国家として歩むことになったとする。(このあおりで韓国が崩壊するかもしれない)そのリーダーとして国民は金正恩を選ぶのか。否、であります。で、彼の最も幸せな将来は亡命生活でせう。もしや、今度の会談でこれを懇願したのではないか。



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●養老孟司:隈研吾著
 「日本人はどう住まうべきか」を読む

 隈氏はいうまでもなく、オリンピックスタジアムの設計者。(この本を出したときは、五輪の話はまだなかった)両者の因縁はなにかというと、共に栄光学園というカトリック系の中高校出身であること。どうやら、養老センセが隈氏の仕事ぶりに興味をもってこの本が出来たらしい。


2011年の東日本大震災から10ヶ月ほどたって、日本人はどこにどんな住まい方をすれば良いのか、改めて考えてみようという反省や希望を自由に語っている対談本です。しかし、壮大かつ抽象的テーマなので両名とも言いたいこと言いっぱなしの感があり、オチがつかない。まあ、結論に導く必要もないのですが。


日本人の住まいに関するスタイルは未だに高度成長期のマイホーム感覚を引きずっている。郊外の一戸建てか、都会のマンションか、先祖から引き継ぐ土地、家の継承か、であります。そして持ち家の主の多くは生涯の大半を住宅ローンで縛られる。どこへ住もうと全く自由なのに、不自由に耐えてしがみついてる人が多い。そこで、養老センセは「参勤交代」という暮らし方を提案する。江戸時代の殿様のように、本家と別宅(江戸)を行ったり来たりする暮らし、現代でいえば、都会とローカルを上手に住み分けるライフスタイルをすすめます。


お金持ちは、それを別荘というかたちで実現しているが、庶民も別荘はムリでも田舎の別宅の感覚で実現しては、という。これで都会の過密と田舎の過疎の問題解決に少し役立つのではないか。過疎地の不動産価格がどんどん安くなっていることを考えれば、庶民でも実現できるのでは、とのたまうのであります。ま、御説ご尤もで、在宅ワーク等の働き方改革が進めば普及するかもしれません。しかし、二軒の家を所有しつつの参勤交代は余程不動産価格の低下がなければ難しい。そこんところは「だまし、だまし」の柔らかい発想で対応しようと言うのですが。


それはさておき、隈氏のデザインする建築は、安藤忠雄氏と対照的な表現であることから、当分は人気を二分する建築家として知名度を高めると思います。丹下健三や黒川紀章のように大家ぶらないところが隈氏のよいところで、なんか年中Tシャツ姿で仕事してるみたいな印象がある。読んだことないけど、「負ける建築」なんて本を書いてるのもこの人らしい。大阪では朝日放送の社屋が氏の設計です。(2012年 日経BP社発行)


yourou takesi honn  





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●筆坂秀世著「日本共産党と中韓」を読む

 18歳で日本共産党に入党、以来約40年間活動し、党内で第4位の政策委員長まで務めた筆者が、党の歴史やもろもろの内情に愛想をつかして離党し、今じゃ共産党とは真逆の保守の立場でモノを言ってるのだから、まあ、難儀な人であります。本人は生涯に全く異なる二つの思想を学ぶ希有の体験ができたとハンセーしているようすもない。こんな人物を出世させた共産党も人を見る目がなかった。離党するだけでなく、本書では堂々と共産党の悪口を述べてるのだから、くそ、どついたろか、このがきゃ~~、と切歯扼腕であります。日本以外の国でこんなに変身したら暗殺される可能性もある。


■根っからの「護憲政党」はウソ
 共産党は最も強力に「護憲」を唱えてる政党であります。二言目には「平和憲法を守ろう」と言ってる。なので、筋金入りの護憲派みたいに思ってしまうけど、それは間違い。逆に、唯一「改憲」を唱えていた党だった。
 新憲法の草案に関して、1946年8月に野坂参三はこんな演説をしている。天皇制の存続には反対、というのはわかるが、憲法九条の草案については「当草案は戦争一般の抛棄を規定しております。これに対して共産党は他国との戦争の抛棄のみを規定することを要求しました。さらに、他国間の戦争に絶対に参加しないことも要求しましたが、これらの要求は否定されました。この問題は我が国と民族の将来にとって極めて重要な問題であります。ことに、現在の如き国際的不安定の状態のもとにおいては特に重要である。現在の日本にとって、これ(第九条の草案)は一個の空文に過ぎない。われわれは、このような平和主義の空文を弄する代わりに、今日の日本にとって相応しい、また、実質的な態度をとるべきと考えるのであります。要するに、当憲法九条の二項は我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それゆえに、わが党は民族独立のためにこの憲法に反対しなければならない」(223頁)


なんのことはない、自衛のための軍事力は必要だ、と主張している。以後の共産党とは真逆の思想であります。「一貫して護憲を唱えていた」なんてウソでした。現在よりずっとリアルに世情を見ていたとも言える。こんなカッコ悪い前歴があること、今の党員さん知ってるのでせうか。


■東京裁判を〇とする共産党
 反米を看板にしている共産党なのに、米国が主導した東京裁判(極東国際軍事裁判)には文句を言わない。なにもかも日本が悪かった、の見方にハイその通りと従順であります。ま、戦前、戦時中に弾圧された恨みがあるから、心情はわかりますけどね。今さら異を唱えても仕方ない裁判でありますが、東京裁判を不当とする考えはずっとくすぶっている。どんな裁判であれ、基本のキは中立の立場で行われるべきなのに、東京裁判は勝者が敗者を裁いた裁判だった。日本への復讐を正当化するための裁判といってよい。


それなら、もし、日、独、伊の連盟が勝者になったばあい、この三国で米、英、仏、等の敗者を一方的に裁いてよいということになる。米英仏にどんな罪をかぶせて裁くのか。ヒトラーが勝者側にいるなんて悪夢でありませう。ほとんどの日本人は東京裁判の正当性になにほどの疑問ももたないが、これこそGHQによる洗脳の効果であります。


■原爆は人類に有益ともいった共産党
 原子力発電所は廃止、も日本共産党の看板政策であります。東日本大震災以後は原発=悪と決めつけている。しかし、歴史を遡ればこれもウソでした。敗戦時点では原爆や原子力に関する知識が十分ではなかったために、おそろしく次元の低い原子力論がまかり通っていた。今なら小学生にも笑われそうなお粗末な話がある。1948~1950年ごろに共産党は「原爆パンフ」等の啓蒙誌で原爆(原子力)の怖さと有用性をPRしている。


「独占資本主義のもとでは原子力は動力源として使えず、爆弾としてしか使えない。なぜなら、原子力(発電)を動力源にすると、資本主義は生産過剰になり、世界恐慌に突入する。それに対して、社会主義のソ連では平和産業が発展する」「原爆で大きな川の流れを逆にするとか、大きな山を取っ払って、これまで不毛の地といわれた広い土地が有効に使われる」云々・・。同じ原子力(原爆)でも,資本主義国が使うと不幸をもたらすが、社会主義国が使うと、平和と繁栄に役立つ、そうであります。読む方が赤面するような幼稚な原爆論を当時の最高幹部が書いていた。(183頁)


共産党は野党のなかでは一番の老舗であります。老舗のわりには不細工な過去しかないということを本書は暴いている。それはさしおいて共産党に明るい未来はあるのか、といえば、ありませんね。党員、シンパの高齢化が進んでるのに若者は明快に共産党が嫌いであります。財政難で党の運営もままならなくなり、政府に政党交付金を申請する事態になるかもしれない。そのとき、日本共産党は「死んだ」といわれるでせう。(2015年 ワニブックス発行)


日本共産党 







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●加藤達也著「なぜ私は韓国に勝てたか」を読む

 2014年7月に起きた「セウオル号沈没事件」に関して産経新聞ソウル支局長の加藤氏が朝鮮日報の記事を引用してパク大統領の行動をチクるようなコラムを書いた。事件当日、国中が大騒ぎをしている中、事態の率先指揮をとらねばならない大統領が数時間も行方不明だったのはなぜか。もしや、ある男性と会っていたのではと半分推測で書いたのが大統領や韓国政府要人の逆鱗にふれ、起訴された。しかし、ネタ元である朝鮮日報にはなんのお咎めもなかった。


一番無難な解決法は起訴事実を認め、韓国政府に謝罪することですが、加藤氏はその方法をとらなかった。無罪を主張して争う姿勢をとり、結局、500日くらい裁判を続けて無罪を勝ち取った。そのレポートが本書であります。相手が文明文化においていまだに三流国である韓国なので、いわゆる常識や正論が通らない。何が事実かで争うのではなく、基本は検察や国民の感情におもねるのだからタイヘンであります。露骨には書いてないけど、大統領から一般国民まで、韓国人の民度の低さに辟易したでせう。


客観的事実より国民感情を優先して物事を決めるのが韓国人であります。それは朴政権だけでなく、歴代政権すべてがそうだった。2005年、盧武鉉大統領の時代には「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」という法律をつくった。日本が統治した時代に、親日思想の韓国人が日本相手の貿易などで得た財産は国家が没収してもよい、というトンデモ法です。過去に遡って親日派だった韓国人の罪を問い、財産を没収する。しかも、この「感情優先」の法律は憲法より優先してもよいと。まあ、アフリカの途上国でもこんなけったいな法律はつくりませんけどね。


100年昔の「親日」は厳しく罰する。しかし、昨日、今日の「反日」行為は大甘で見逃す。これが韓国政府の思想であり、国民の世論だから付き合いきれない。そんな世論を吸い上げて「反日」思想をあおるのが韓国メディアで官、民、メディアが一体になって日本憎しのボルテージを上げる。で、検察は加藤氏をなんとか有罪にしようと苦労を重ねるが、ネタが揃わない。とうとうネットの「2ちゃんねる」の投稿文まで持ち出して「韓国大統領の名誉を傷つけた」と主張する始末。結局、検察の努力空しく、加藤氏は無罪となった。加藤氏ならずとも「アホクサ」の一語に尽きる下らない裁判だった。


時は過ぎ、当の朴前大統領はムショ暮らしの身となった。加藤氏の裁判なんかどうでも良かった。自らの不始末で懲役24年、罰金18億円の実刑判決を受けた。刑の満期時は90歳になる。彼女を重罪に陥れた文大統領もいずれはミジメな末路をたどる。そうならないために、目下、北朝鮮との平和ごっこに邁進中であります。(平成28年 産経新聞出版発行)


加藤達也本








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●冨野治彦著「円空を旅する」を読む

 日本の歴史上でスーパーマンと言える人物3人を挙げよ、と言われたら、空海、役小角、円空、の名をあげます。身体能力抜群のうえに霊感をまとった超俗の人、という条件で考えるとこの三人です。と、いいながら、円空については皆目知らないので本書を読みました。三人のなかで最も新しい時代に生きたので情報もたくさんあるのですが、それでも「?」がけっこうある。出自、生い立ちについても諸説あってよくわからない。


「わしは生涯に12万体の仏像を彫るぞ」と言って全国行脚し、大は2mくらいの大作から、2,3センチの、キーホルダーみたいな小さい「木っ端仏」まで彫りまくったのであります。12万を数えた人がいるのか不明ですが、現在でも5000体くらいの像が残っているから、12万はホラ、ハッタリとも言えない。・・と、書きながら、円空さん自身、ちゃんと数をカウントしたのかしら、と素朴な疑問も湧きます。(10万目に達した、という本人の墨書きがあるので、本当に数えていたかも)


なにしろスーパーマンですから、新幹線も自転車もないのに、北海道から東北、関東、東海、近畿まで、歩きに歩いて、かつ現地で彫刻作品を残した。宿なんかなくても、洞窟や崖下で雨露をしのいだ。霊感を得るために厳しい山登りもいとわず、青森の恐山や大峰の山上岳にも登っている。美濃生まれの円空だから、伊吹山は「ふるさとの山」だった。


経歴はさておき、円空作品の魅力は、伝統様式や時代感覚にとらわれない優れた造形力にあります。木を見つめ、木のクセを読んでイッキに鉈(ナタ)で彫り、刻む。作業をはじめたら最後までノンストップで掘り続ける、という感じです。ゆっくりと、丁寧に・・の真逆の制作方法だと思います。そのスピード感や力強さが造形に反映される。300年前の制作とは思えないモダン感覚が観る者を魅了します。


円空は彫刻作品制作だけでなく、約1600首もの歌を詠んでいる。12万の仏を刻み、1600の歌を詠み、経典にも詳しい・・のであれば大変な教養人でもあります。いったい、どこでそんな修養を積んだのか。空海とともに、スーパーマンの上に「インテリ」の冠を載せてもいい偉人です。1695年(元禄8年)64歳で没。(2005年 産経ニュースサービス発行)


円空 


秋葉大権現像
円空 



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●「相撲」江戸時代は女人禁制ではなかった

 三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は江戸風俗研究の大家で膨大な文献を残したが、そのコンパクト版が稲垣史生編集の「江戸生活事典」。コンパクトといっても500頁に細かい文字がぎっしり詰まっているので読むのは大変であります。自らは明治生まれなのに、江戸の市井の細部を自分で見てきたかのように書く。現代でいえば、杉浦日向子さん(故人)のような「江戸のことなら何でも訊いてんか」の博学者でありました。


江戸時代の相撲についてもあれこれ書いていて、現代の相撲の原形は元禄時代に成立したと述べている。原形とは勧進相撲、すなわち「興行」としての相撲が世間に広まったとことをいう。勧進元(プロモーター)と力士と観客による興行で、現代と同じです。しかし、大事なことが違っている。興行する場所が国技館や体育館ではなく、神社やお寺の境内だった。浄瑠璃や歌舞伎は専門の芝居小屋を作って興行するが、相撲にはそんな発想がなく、神社、お寺で場所を借りるのが普通になった。そのベースになったのが深川八幡宮だそうです。


現代でも横綱が明治神宮などで土俵入りのセレモニーを披露することがあるのはその流れでせう。神さまに奉納するから神事というイメージが浮かぶけど、本書には相撲が神事という要素をもつことは触れていない。基本的に芝居と同じように娯楽だった。少なくとも観客は娯楽として楽しんだ。興行期間は10日間が普通だった。


今問題になっている土俵への女人禁制、江戸時代は「女相撲」もあったから当時は禁制もナシだったが、いっとき大人気を博したことでかえって風俗上の問題が起き、結局、幕府によって禁止された。風俗のなにがダメだったのかは書いてない。女人禁制の風習は明治以後にできたことになります。今どき女人禁制なんて時代錯誤も甚だしい。全部撤廃するべきという考えに賛成でありますが、たとえば、歌舞伎にこれを認めると歌舞伎のシステム自体が崩壊してしまうことになり、歌舞伎を見たことがない人は大方賛成するでせうが、少なくとも多数決で決めるものではない。歌舞伎を女性に開放せよ、と言う人は、当然、宝塚を男性に開放せよ、も言わなければならない。理屈と現実の乖離はなかなかに大きいのであります。

江戸事典