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読書と音楽の愉しみ



●山本功次著「阪堺電車177号の追憶」を読む

 図書館へ返本に行ったら、たまたま著者の講演会に出会い、拝聴してこの本を買い、サインしてもらった。本書は「2018年 大阪ほんま本大賞」受賞作。先日、紹介した有栖川有栖氏の「幻坂」に続いての受賞作品購読であります。主人公は阪堺電鉄の最古参車両「モ161型」の177号(実在しない架空の番号)であります。


主人公は昭和の初めから85年働いてとうとう廃車になるまでの乗客や沿線住民の暮らしぶりを六編の短編小説で描く。戦前、終戦直後、高度成長期、バブル崩壊・・と時代の様相をとらえて描くが、著者は戦後生まれなので、戦前のことは父親に聞いて書いたという。題名からは鉄道ファン向けの作品を想像するけど、まあ、普通の人情小説と言えるでせう。


著者は鉄道会社に勤めるサラリーマンなので電車の知識が豊富なのは当然として、では,どこに勤めてるのか。当然、阪堺電鉄と想像するところ、ご本人は言わない。趣味で小説を書くことは会社の了解を得ているけど、社名は明かさないこと、とクギをさされている。であれば、阪堺電鉄以外の会社、阪急とか近鉄とか、かもしれない。(一時、東京へ転勤になったというから、阪堺電鉄はあり得ませんね)


サラリーマンの傍ら小説も書く、という二足のわらじ生活は羨ましいと思われがちだけど、ご本人の話ではやはり苦労も多い。使える時間が限られているから集中できるのは土曜の晩くらい。ということは徹夜です。エッセイやコラムくらいならともかく、小説を書くとなれば相応の才能が要る。それを考えれば本書はよく出来た作品と言えます。(2017年 早川書房発行)


小説の主人公になった車両。もしや現役で最古参?
阪堺電鉄
 

阪堺


阪堺 









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●多胡輝著「正岡子規 運命を明るいものに変えてしまった男
●ドナルド・キーン著「正岡子規」を読む

 図書館の近代文学本の棚には子規に関する本がどっさりあって,何を選ぶか迷ってしまう。今回は上記の二冊を借りたが、キーン先生の本は大部なので、チラ読みで終わってしまった。しかし、子規という人はだれもが評論したくなる魅力的な男だったこと、理解できた。


多胡氏の本を開いた途端に誤植を見つけた。本文1頁目、「辛い」を「幸い」に誤植している。著者、編集者のショックを想像する。ご両人、ヤケ酒煽ったでありませう。しかし、1ページ目でのチョンボは珍しい。
 この本は子規の生き方を人生論に置き換えて艱難辛苦の凌ぎ方を語っている。ちょっと子規を誉めすぎとちゃいます?と文句つけたくなるくらい。子規は伊予で育って上京し、東大へ入るが、そのときの同窓に夏目漱石や南方熊楠がいた。文学者として身を立てようと張り切っていたのに、二十歳くらいで喀血し、それは脊椎カリエスという難病に転じて、以後、34歳で亡くなるまでほとんど病人暮らしを強いられた。


晩年は、今で言う「寝たきり」生活に近い状態だから、不安や絶望感はいかばかりかと察するけど、子規はそんな境遇でも「自分には何ができるか」と、身辺へのささいな好奇心から文学論まで、考え事でアタマは年中フル稼働状態で過ごした。病院暮らしなら、結核感染のリスクから見舞い客との面会は制限されるが、子規は自宅療養だったので、門人、友人の来訪多く、それをいやがるどころか、歓迎した。客のない日はえらく寂しがったという。


キーン氏の論によると、子規は蕪村の俳句を高く評価し、芭蕉の作品にはあまり共感しなかったらしい。「写生」という概念を大事とした子規のスタイルから納得できるが、この辺は諸説ありそう。

 さて、芭蕉の最有名句は・・・
 
古池や 蛙飛び込む 水の音

 そして、子規の最有名句は・・・
 
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺


この二句の印象を駄目男が簡潔に表すれば「それで ええやん」であります。解釈するからややこしくなるのだ。先日、何かの本?で目にしたのは「古池や、というが、池は概して古いものである。出来たての池など滅多にみることはない。では、なぜ、わざわざ古池というのか、云々」とあって、古池をあれこれ詮索する。柿食えば・・だって、なんで柿なのか、ミカンじゃ鐘が鳴らないのか、とセンサクしてもあまり意味がないと思いますけど。


これらの句がしょーもない等とは申しませぬ。世間の評価に合わせて名作だと思ってますよ。しかし、だったら、真剣に誉めてみよ、と言われると、んぐぐぐ、言葉がでないのであります。この「古池や・・」の句を完璧に誉めた論文ってあるのだろうか。あれば読んでみたい。(多胡本 2009年 新講社発行)(キーン本 2012年 新潮社発行)


正岡

正岡








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●大越哲仁著「マッカーサーと幣原総理」
  
~憲法九条の発案者はどちらか~ を読む

 以前から興味をもっていた問題に答えてくれそうなこの本に出会い、さっそく読み始めるも、まあ、なんとややこしい話であることよ。3頁読み進んでは1頁後戻り・・という感じで、これは著者の文章力が拙いせいではなく、語られる問題が複雑すぎるせいであります。どの時点で、誰がああ言い、其れがこう言う、さらに別の某はかく言った・・と、そこは混乱しないように書かれているのですが、それでも頭がこんがらがってしまう。


そんなゴチャゴチャは全部端折って著者が言うのは「憲法九条は幣原総理の発案である」という説であります。かなり説得力があります。マッカーサーとの交渉をそばで見ていたような書きぶりのせいでもありますが。ところが、この説にどっこい待ったをかけた人物がいる。それが幣原総理の長男、幣原道太郎なのだから、ガチョーン(ふる~~)であります。これじゃ話が前へ進まない。


半分くらい読み進んで、ようやく九条発案の輪郭が見えてきた。幣原総理が憲法案づくりにおいて一番頭を悩ましたのは天皇の位置づけだった。戦勝国の中には天皇は有罪である、処罰するべきという意見があり、この要求を呑まされると日本の歴史がひっくり返り、大混乱に陥る。で、これだけは避けたい。そこで、天皇は象徴として権力から離れ、憲法で国民主権を謳う。その代わり、戦争に関わる問題では武力放棄をうたい、世界に前例のない非武装国として再出発する・・。この国民主権と非武装の考えはマッカーサーの要求に十分応える内容である。もう一つの要求、華族制度の廃止も受け入れた。


つまり、天皇の存在自体を守るために、平和を謳う思想は自虐精神満点の、諸外国に土下座するようなへりくだった案をもってマッカーサーと会談した。終戦後、まだ日本への憎悪、侮蔑の感情に満ちていたマッカーサーとの交渉が対等であるはずがない。日本を、二度と白人社会に刃向かわせる国家にしないために叩きのめす、との思いは欧米すべての国に共通する感情だった。


著者のこの説によれば、憲法案に関する重大な交渉を幣原総理一人で交渉したことになる。当時の録音やメモがないので、実際はどんなやりとりがあったのか分からない。しかし、この交渉のあとでGHQが憲法の原案をつくり、これを議論して憲法案がまとまってゆく。
 日本には再軍備させない・・という強い意志で支配を続け、憲法九条に戦争放棄をうたわせたたマッカーサーだが、なんという皮肉か、数年後に朝鮮戦争が勃発すると、一転して日本に再軍備を要求した。以後、九条は空文化してまもなく70年になる。(2018年 大学教育出版発行)


マッカーサー 


<参考>憲法第九条
一項・・日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二項・・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。




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●有栖川有栖著「幻坂」を読む

 書店員が選ぶ「本屋大賞」にはローカル版があるそうで、本書は昨年の「大阪ほんま本大賞」を受賞した。よって、本の中身は大阪がテーマで、幻坂とは天王寺七坂のことであります。その坂ごとに短編小説を書き、別にオマケ?なのか、芭蕉の終焉を描いた「枯野」と藤原家隆の日想観を描いた「夕陽庵」が添えてある。


七坂の物語で一番面白いのは「天神坂」。死んだことになっている中年女と私立探偵がこの坂を訪れ、客席わずか五席の小さな割烹を訪ねる。「ははん、あれやな」大阪人読者の半分くらいは気づくかもしれない。この店主が浪花割烹の親方、上野修三さん。「㐂川」の元オーナーであります。一度引退して、ここにある自宅の一部を改装し、小説のように、五、六人しか入れない小さな割烹を開いた。その店のありさまが描かれる。えも言えぬ味わいに舌鼓をうっていた女は、死んだことを忘れて?生気を蘇らせる・・という話。しかし、上野さんはこの店をたたんで、今は幻坂の幻の店になってしまった。


天神坂にはもうひとつ幻の店があった。芭蕉ファンなら誰でも知っている「浮瀬」(うかむせ)であります。芭蕉ファンでなくても、この店への憧憬をもつ人は多い。現に、下の写真のように当時の絵が残されているので、もし、元祖とされるこの料亭が再現されたらどんなに素晴らしいかと夢を描く。当時の浪花の文人たちが集っての宴会風景はどんなものだったのか。料亭の跡地は星光学院が買い取り、保存しているが、非公開なのが残念であります。


この店の主が俳人という縁で芭蕉は招かれた。大勢の弟子たちに囲まれて宴会になるが、この宴の意図は芭蕉の弟子どうしの不和を仲裁するためという鬱陶しいものだった。本当は大坂なんかに来たくなかったのだ。この「義理の旅」が結果的に「死の旅」になってしまった。

この席で二句を読んだ
 
此道を行く人なしに秋の暮れ
 此秋は何で年よる雲と鳥

華やかな宴席でも体調はよくなかったが、以後、医者の手当ての甲斐もなく、下痢が続いて体力衰え、一人でトイレにも行けなくなる。死を悟ったうえで最後に詠んだのが「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」浮瀬の宴会から半月後、10月12日に亡くなった。(平成28年 角川文庫発行)


幻 


天神坂にある案内板の画像「浮瀬」
幻坂 

幻






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●高橋輝次(編)「誤植読本」を読む

 誤植についての自分のイメージは、年中ドタバタの原稿作りをしている新聞や週刊誌に意外と誤植が無い(少ない)ことで、これは誉めてもいいと思います。なのに、少しは時間的余裕があるはずの一般の出版物に誤植がよく見つかる。特に、文学作品での誤植は、著者と編集者には大ショックで、見つけた日には眠れないほど気に病む。やけ酒飲んでも醒めたらジンジンと心が痛む。とても「ま、ええがな」気分にはなれない。


本書には、作家や編集者、のべ42名が誤植体験を綴っていて、その半分くらいは、ニヤリ、ガハハと笑える文章なのが楽しい。ガハハと笑える誤植例の一つが林真理子サン。まだ若かりし独身時代のエッセイで大ミスが発生した。原稿で「こういうふうな言い方をすれば、女性の心を動かすことができて」に続いて「イッパツできまる」と書いた。それが、本ではなんと「イッパツできる」となっていたのだ。うら若き乙女?にあるまじきエロ作文ではないか。カーッと頭に血が上った林サン、出版社に駆けつけて猛抗議したが・・。


作家、中村真一郎センセの話。尊敬する哲学者が翻訳本を出版され、中村センセにも一冊恵送された。その「あとがき」に哲学者は出版が遅れた理由を書いていて、それが「或る情事のため」となっていたのだ。「事情」を「情事」と誤植してしまった。著者も編集者も真っ青・・この本、どうなったのかしら。


外山滋比古センセの話。明治32年、歴史的誤植事件が起きた。読売新聞がロシア皇帝について社説に書いた文に「無能無智と称せられる露国皇帝」なる字句があって大騒ぎになった。原稿は全能全智であったが、原稿文字の崩し方がヘタで、文選工が全を無とまちがって拾ってしまった。それはともかく、国際的大事件だ。どうしたか。空前絶後の「訂正号外」を発行して、なんとか事なきを得た。はじめに、新聞は誤植が少ないと書いたけど、この大誤植事件の教訓が今でも生きてると好意的に考えたい。


誤植は絶対許さない、という印刷物がある。印刷と同じ歴史を有する聖書であります。それでも不幸なことにミスは生まれる。聖書の印刷でチョンボしたらどうなるか。関わった人は死刑になった。聖書に「人は誰でも過ちを犯す」という文言があったように思いますけどねえ。神は許すけど、人は人の過ちを許さなかったということです。


とても悩ましい誤植があると書くのは詩人の長田弘センセ。人一倍感受性が強く、一字一句にこだわる詩作に誤植なんてあり得ないはずですが、それが・・ある。あった。センセの「貝殻」という作品の一行・・・

涙が洗ったきみやぼくの苦い指は

しかし、印刷された詩集では次のようになっていた。

涙が洗ったきみやぼくの若い指は

 苦い指が若い指に誤植されていた。許せる? 絶対許せない。地図で言えば、北海道と九州の位置を逆にしたくらいの大間違いだ。センセは即、編集部にミスを指摘し、友人知己には「若い指は苦い指の誤植です」と触れ回った。ところが、である。詩に造詣の深い友人知己の反応が意外だった。みんな「苦い指より、若い指のほうがいいじゃないか。苦い指では感興が浅くなる」というのだ。センセは誤植だけでもどーんと気分が落ち込んでいるのに「誤植のほうが良い」なんて言われて、さらにどどどどど~んと落ち込み、詩人のプライドはぐわらぐわらと崩壊した。


で、どうなった?。長田センセ、誤植を是としたのであります。何百回も苦い、若い、のあいだを彷徨しているうちに、誤植の「若い」指のほうが詩的に優れていることを認めた。たった一字の違いにどれだけ悶々と思い悩んだか・・ご本人しか分からない苦悩であります。誤植は悪である。しかし、万にひとつ、こういう想定外のどんでん返しもあります。


複数の作家が誤植について同じ悩みを書いている。熱心なファンがいることはとても有り難いけど、なかには誤植探しに熱心なファンもいるというのだ。新刊が発行された。著者が最初に目を通して不幸にも誤植を見つけてしまった。十分に落ち込んでるとしばらくして「熱心な読者」から手紙が届く。「先生におかれましては既にご存じのことと拝察しておりますが・・」と丁寧な文章に〇〇頁の何行目、〇〇頁のどこそこに誤植があります、と指摘してくる。著者は読者より先に目を通して誤植を見つけ、ガックリきているところへ読者に追い打ちされる。傷口に塩を擦り込まれるってこのことだ。しかし、その読者には御礼と感謝の言葉を連ねて返事を書かねばならない。嗚呼・・・。


と、他人の誤植話を楽しみながら、ならば、駄目男の文の誤植(誤字・脱字)はどないやねん、と言われると、無論「あり」としか言えない。掲載前に読み直し、掲載後でも気づいたら訂正しているけど、ゼロにはならない。なのに他人の作文(ブログ)のミスは気づいたりして・・。もしや、人間には「誤植病」という不治のビョーキがあるのではないか。(2013年 筑摩書房発行)

 誤植読本







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●お楽しみ「フェニーチェ堺」

 ホールの話をもう一つ。南大阪ではじめてのホール「フェニーチェ堺」がオープン一年前になり、カウントダウンイベントが実施されます(16日)。旧堺市民会館を解体撤去して、150億円を投じての立派な施設ができます。これで堺のカルチャーシーンは俄然レベルアップするはず・・です。市民の熱い要望に応えて、という話を聞かないだけに、正直、心配な面もありますけど。しかし、立派なハコができて、これに惹かれて千客万来ということもあるから、まずは楽しみにしておきませう。


ホールのイラストを見ると、西宮の「兵庫県立芸術文化センター」大ホールと似た設計で、座席数は同じです。心配なのは音響。芸センのような音楽専用ホールではないから残響2秒なんて無理でせう。設計趣旨には、クラシック音楽、ポップス、演劇、市民集会など多目的に使えるとあり、多目的は無目的という、旧来の市民会館と同じコンセプトです。交響楽団の演奏会があれば、天童よしみのコンサートもある。ま、しゃーないですね。最近の技術的進歩で、なんとかマシな音が聞けるよう期待します。


ホールの完成による一番ハピーな成果は、堺市を本拠とする「大阪交響楽団」のホームグラウンドができることです。(以前は大阪シンフォニカー交響楽団などといった楽団)いままで堺に音楽ホールがなかったから、大阪市内で演奏会を続けてきたのですが、これで堺市に腰を落ち着けて演奏会を開くことができます。定期演奏会もこちらに移すかもしれません.。来年はフェニーチェ堺と古墳遺産で盛り上がりませう。

■大阪交響楽団
http://sym.jp/publics/index/199/#page199_500

■フェニーチェ堺 資料
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/bunka/geibunhall/index.html


sakai


sakai 






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●Zepp Nanba で「大阪クラシック」

 どういう風の吹き回しか、ふだんはロックやポップスのライブをやるホールが、一回だけクラシックをやるというので,見物がてら訪ねてみました。場所は浪速区の「木津市場」のとなりです。定員は800人くらい? 座席は無くパイプ椅子。演奏曲はチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」。ステージで演奏できないので(回りに音を吸収されてしまうため)土間に椅子を並べての演奏です。


ホールは天井高は12mくらいあって十分ですが、反射音を抑えているので、弦楽器の音は全然響かない。自分は前から二列目で聴いたけど、後のほうで聴いた人はいささか貧弱な演奏を聴かされたことになります。全体にいかにも安っぽいつくりで、若者はこんなプアな空間で音楽を楽しんでるのかと同情したくなりますが、それは思い違い、照明やつくりもの、それに大音響で十分盛り上がるのでせう。よい経験になりました。(9月10日)


ゼップなんば 








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●高樹裕著「今のピアノでショパンは弾けない」を読む

 ピアノに纏わる話は面白い。本と映画で紹介した「羊と鋼の森」もそのひとつだけど「調律」という仕事だけであんなロマンチックな話ができた。本書は、ピアノのメーカーとピアニスト、その中間で仕事するチューナー(調律師)の話がメインになっている。著者が言うに、世界最高のピアノはスタインウエイ、世界最高のピアニストはホロヴィッツ、だという。著者はその最高のスタインウエイ・CD75と言うピアノを所有している。これを手に入れるまでの苦労話が面白い。


さて、題名の「今のピアノじゃショパンは弾けない」というのは、モーツアルトは弾けない」と変えたほうが分かりやすい。この意味は、ピアノの性能が断然良くなっために、作曲家が作曲当時に意図した音楽が表現できないということを指す。この難儀は、協奏曲や室内楽の演奏で顕著にあらわれる。今のピアノは音が大きすぎて他の楽器とのバランスがとれないのであります。特に室内楽では難儀する。さりとて、フタを閉めて演奏すれば音がモコモコしてかっこつかない。(実際に演奏会で体験すると自分の聴覚が自動的にコントロールされるのか、演奏が進むほどバランスがとれた音量に聞こえ、不快感は減ってくる)これはライブの場合で、レコーディングではきちんとバランスの取れた録音になる。


なぜ、ピアノの音がでかくなったのか。ホールが大きくなったためです。それまでは王様や貴族の前で弾くのが仕事だったのに、数百人入るホールで演奏するにはより音の大きいピアノが必要になった。音楽の大衆化がピアノの音をでかくしたのです。大きなホールで大勢の聴衆に聴かせる、という文化をつくったのはアメリカで、その象徴がカーネギーホール。そして、高性能のピアノを開発、提供したのがスタインウエイ。このピアノは今でも圧倒的に支持されていて、ヤマハもプロの評価ではB級に甘んじている。何がどう違うのか、これを説明するには本一冊分の言葉が要る。(2013年 日本経済新聞出版社発行)

ピアノ









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●訪ねてみたい、すてきな図書館

 2日のEテレ「美の壺」は全国のかっこいい図書館の紹介。もう、みんな行きたくなります。各地にこんなお洒落な図書館があることを知りませんでした。生涯、図書館に縁のない人もいるけど、ほんともったいない。館を訪ねるだけでも十分観光になります。


閲覧室は長さ200mというスケールの仙台市立図書館
図書館


和書より洋書のほうが多い秋田国際教養大学の図書館。内装は秋田杉。
図書館


昔の織物工場の煉瓦壁を生かした洲本市立図書館
図書館


木造校舎を移転、改造した滋賀・甲良町立図書館
図書館 


図書館 


図書館


このロケーションもすばらしい
図書館


東京・成蹊大学図書館 
図書館








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●高橋洋一著
 「これが世界と日本経済の真実だ」を読む

 本書のような国際情勢を論じた本は賞味期限がせいぜい2年。それより古い発行のものはまず読む気がしないほど中身が陳腐化が早い。著者は元財務省(大蔵省)のエリート官僚。あわよくば最終、事務次官に出世できたかもしれない。しかし、売れっ子ぶりをみると、下野したのは正解でせう。東大の数学科卒というのがミスマッチだったかもしれない。


一番興味があるテーマは中国の現状と将来
 しかし、2年前の発行だから最新の情勢はなく、中国のGDPのええ加減さを論じて、経済発展はもう行き詰まってると説く。そして今、米中貿易戦争が勃発して形勢は中国に不利であります。人民元の下落、外貨の急減、「一帯一路」政策の不振から先行きを不安視する人が多い。そして、つい最近は習近平への反感を露骨に表す人もいて、写真のようにポスターに墨汁をぶっちゃける事件まで起きた。(即逮捕された)コツコツと神格化をすすめてきたのに挫折する可能性5割と予想します。規制が厳しいとはいえ、これほどの情報化社会で個人崇拝=神格化を目指すほうがおかしい。


高橋 本



国の借金1000兆円、のインチキ
 財務省を主として「財政再建至上主義」を唱えるひとが国の借金1000兆円だぞ、どうするのだ、といって国民を脅かす。実際、これを真に受けて心配する人が多い。マスコミも財務省の言い分をそのまま垂れ流すから、単細胞人間は「えらいこっちゃ」気分になってしまう。1000兆円の借金があるのは事実だが、これは国の資産がゼロみたいな勘定での表現であります。うんと話を絞って、100万円の借金がある人を想定してみる。100万円の借金があるからといって、その人は野外で裸の無一物暮らしをしているわけではない。家があり、家財道具があり、普通に服を着ている。趣味も楽しむ。つまり、資産があるわけです。これを無視して素っ裸の状態で借金だけあると仮定するのが1000兆円借金説です。


国には1000兆円の借金があるけど資産もある。本書では貸借対照表で細かい数字を並べているけど、資産のうち、換金価値が高いものを選ぶとおよそ650兆円ある。これをさっ引いた金額が本当の借金といえます。先進国でもふつうは借金で国政を賄っていて、これくらいの比率なら「えらいこっちゃ」のレベルに非ず、というのが著者の見立てです。この極めてノーマルな話を無視して借金だけ吹聴するのは財務省の基本姿勢であり、その下心は明快に「増税」であります。


日本の「左巻き報道」に騙されるな
 これは本書のサブタイトル。左巻の具体名は挙げていないけど、あの新聞、あのTV局、などを指す。彼らは「国の借金1000兆円」で国民の不安を煽り、反安倍政権思想に誘導する。さらに、高齢化や人口減という事態を踏まえて「もう経済成長はしなくていい」と国の活力を削ぐような思想を刷り込む。左巻という言葉は左翼を指すとともに馬鹿なメディアであることもあらわす。経済問題を感情論でしか語れない左巻メディアを数学の達人は許しがたいらしい。(2016年 悟空出版発行) 

高橋本 








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●下重暁子著「家族という病」を読む

 よくもこんなにイヤミな題名をつけたもんだ。まあ、幻冬舎らしいセンスも感じますけどね。でも、この題名に惹かれて買った人も多いと思う。ヒットしたのかどうか知らないけど、中身より題名のインパクトで売れたこと確かでせう。著者、下重さんはNHKのアナウンサー出身らしいけど覚えていない。


一家団欒という言葉に象徴されるような「幸福な家庭」なんて本当にあるのか。幸せぶってるだけではないか。という根源的な問いから著者自身の生い立ち、人生を振り返って、自分は幸福な家族の一員ではなかったと断じる。父は軍の高官だったので経済的に困ることはなく、母にも溺愛された、という境遇からみれば「食うのに精一杯」な庶民にはとても贅沢な、幸せな家族に思えてしまう。幸福の次元が違うのであります。


真に自立した人生を送りたければ、家族のしがらみを捨てよ、と説くのでありますが、インテリで、実際、自立できている著者だから言えるのであって、シモジモの民は共感できないでせう。ただ、著者も言うように、現代の家族における不幸、親殺しや子の虐待死事件の増加は家族における「病」の増加であり、家族であるゆえに解決が難しい。・・というわけで、なかなか著者の家族論にはついていけないのでありますが、世間づきあいという点まで見方を広げれば納得できることもあります。でも、著者のような洞察力の高い人とつきあうと、自分は常に観察されてると負い目を感じてしまいそう。自分とちょぼちょぼの、スキマだらけの人間と付き合うほうがうんと楽しい。(2015年 幻冬舎発行)



家族という病 








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●鳥海 修著「文字をつくる仕事」を読む

 私達が新聞や本をよむとき、印刷された文字の書体について、なんという名前の書体か、誰がデザインしたのか、なんて気にすることはまあありませんね。しかし、その文字にはすべて書体名があり、デザインした人(グループ)がいます。そんな文字のデザインについてのウンチクを語っているのが本書です。こんな本、誰が読むねん、と訝りつつ、実際、退屈なページもあるけど読んでみました。


A新聞を10年間購読したあとB新聞を読むと、ん?・・と違和感を覚えることがあります。新聞名が変わるのだから当然ですが、記事紙面だけ見ても「なんか違う」という感じです。その原因が書体の違いのせいだと気づく人は少数ですがいます。そう、各社同じように見える書体が実は異なっています。朝日、読売、日経・・と各社専用の書体で紙面をつくっている。なおかつ、何十年かに一度、全部作り替えることがあります。それを請け負っている人の一人が著者で、書体デザイナー(フォントデザイナー)と呼ばれています。


書体は新聞社のように専用のものといろんな印刷物に使う汎用があり、デザイナーがこだわるのは汎用の書体です。自分のデザインした書体が世間でたくさん使われることでお金になるし、やりがいもあるからです。そして、一番チカラを入れるのが「本文明朝体」。新聞や本で普通に使われる書体です。では、優れた書体の条件はなにか。
 □読みやすいこと
 □美しいこと   

この二点です。言い方を変えると、良い書体とは、「水のような 空気のような」書体、即ち、個性や主張は許されない。読者に「書体」を意識させるようなものはアウトです。


こんなに厳しい制約のもとでデザインしたら、逆に、良い書体、悪い書体が生まれることなく、全部ワンパターンになってしまうのではと思いますが、そこがまた違うのですね。ものすごくビミョーな相違がある。優劣のある証拠に、著者がつくった「ヒラギノシリーズ」という書体は2005年にグッドデザイン賞を受けています。要するに、彼らプロに言わせれば、書体は年々進化、改善されてるというのですが、一般人(読者)には全然気がつかないくらいのミクロ的改善です。


そんな新書体開発の熱意が昂じると、本文明朝体においても、時代小説向きの書体とか、翻訳小説向きの書体とか、ついには「藤沢周平」作品にぴったりの書体をつくろう、なんてことを言い出すデザイナーが出て来る。言うのは簡単だけど、新しく書体を開発するには一万~二万字をデザインしなければならず、今はコンピュータを駆使するといっても、膨大な労力と時間がかかります。私達一般人が知らないところで熾烈な開発競争が行われているわけです。


逆にいえば、漢字や仮名文字には汲めども尽きぬ魅力があるということでせうか。読みやすい、美しい、というテーマでまだまだ追求するだけの奥深さがある。こんなデリケートな表現ができる文字って、日本語だけではないかと思いますが、それは一人よがりで、外国語にはそれぞれの「読みやすい、美しい」書体があるのでせう。(2016年 晶文社発行)


明朝にもいろいろな書体がある
文字をつくる仕事 



大正時代の活版文字の書体
文字 



文字 






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●佐藤優著「読書の技法」を読む

 読書人にもピンとキリがあって、佐藤氏はまちがいなくピンの一人でせう。作家だから、読むより書くほうが仕事では、と単純に思ってしまうが、書くためには膨大な読書が必要であります。では、どれくらい読んでるのか。一ヶ月平均で300冊だという。え?・・30冊の間違いでは? いいえ、300冊です。


まず、献本が月100冊くらいある。これは義理もあるから全部読む。それから新刊本を70~80冊、さらに古本を120~130冊くらい読む。これは平均で、多いときは月に500冊読むことがある。一日に10冊以上読むのが佐藤氏の読書習慣であります。その数の多さでビックリしてしまいますが、問題は中身。大半が哲学、思想、歴史、政治、法律、語学関係の本で、ちゃらい小説なんか皆目ない。(たまにマンガも読むらしいけど)


本は難易度で三種類に分けると著者は言う。「簡単に読める本」「そこそこ時間がかかる本」「ものすごく時間がかかる本」で、簡単に読める本は1~2時間、そこそこ・・本は政治や思想に関する本が多く、一週間くらいかかることもある。ものすごく時間がかかる本の見本は、田中美知太郎「ギリシャ語入門」改訂版で、一年以上かかった。月間300冊のうち、7~8割は一冊1~2時間で読める。これくらい早く読まないと「書く仕事」の時間がとれなくなってしまう。


佐藤氏は独自の速読術をもっている。では、世間に流布する速読術の本を素人が読んでも役立つのか、といえば、アウトだそうだ。そもそも、速読ができるのは、本の内容に関してある程度知識を有していることが必要である。哲学書なんか読んだことのない人が「哲学入門」なる本を速読できるわけがない。速読を学ぶ前に膨大な知識のストックが必要であります。そんなにムリしないで、普通に読んでスピードアップしたければ、1頁を15秒で読むトレーニングをしなさいと。う~ん、これだって相当に難しい。


こんなにモーレツに読みまくるのはなぜか。人生は有限、読書に費やせる時間は限られている、という切迫感のせいであります。時間がないのに、読みたい本はうじゃうじゃ湧いてくる。そんな気分は多少理解できます。駄目男が年間30冊の本を読めば、50年間で1500冊。たった1500冊、という少なさにガクゼンとします。これぽっち読んで何ほどの意味、価値があるだろうか。この無意味感は常にあります。(2012年 東洋経済新報社発行)



読書 佐藤優 





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●野坂昭如著「火垂るの墓」を読む

 著者の少年時代の実体験をもとに書かれた短編で、文庫版でも34頁しかない。しかし、本作品は「アメリカひじき」とともに直木賞を受賞した。新潮社で文庫化され、昭和47年以来76刷と地味ながら長く読み続けられたロングセラーです。尤も、人数でいえば、本を読んだ人より、アニメで観た人のほうがずっと多いような気がする。アニメは観たことがないので、出来栄えはわからないけど、著者と同世代の、つまり、戦争の記憶がある人は原作を読むほうがずっと共感しやすいと思う。


ところで、この本を読んだ動機は作品自体の評価とは別のところにあります。産経新聞6月24日の文化欄「道ものがたり」で本書がとりあげられ、作品の舞台になった神戸市灘区界隈を紹介しています。ライター、福島敏雄が注目したのは「作家はどこまでウソが許されるか」という、なんだか穏やかでない話です。もちろん、小説=フィクションだからウソが当たり前であること前提にしつつ、本書以外の自伝的作品におけるウソの記述に首をひねる・・というルポです。


著者の14歳時の空襲体験は作家としての原体験であって「火垂るの墓」以外の作品でも度々語られている。その生い立ちや人間関係の記述が安定しない。そんな細かいこと、どうでもええがな、と思うのですが、ライターは気になったらしい。また、著者自身、晩年になって今まで「自伝」として書いてきたことの真偽を反省しているようにも思える。
 最後に、野坂昭如はペンネームで、本名はの姓は「張満谷(はりまや」という変わった名前だった。そして中央区春日野の墓地に代々の墓があって、毎年6月(空襲を受けた月)に墓参りに出かけたと「ひとでなし」という作品に書いている。


ライター氏は春日野墓地に出かけて墓を探した。管理事務所でも登録簿を調べてもらったが、張満谷という名の墓はなかった。だからといって、戦争を描いた文学作品のなかで傑作といわれる「火垂るの墓」の評価を貶めることにはならない。それを認めつつ、ライター氏は「作家の倫理」に一抹の不信感を抱いて文を閉じている。


「火垂るの墓」の舞台を訪ねる
http://www.hyogonet.com/drama/hotaru/index.html

アニメ制作では小説で描かれた神戸や西宮の現地をロケして、かなりリアルに風景を再現しているらしい。上記のブログでその説明があります。下の写真は、14歳の主人公、清太と4歳の妹、節子が意地悪な親戚の家を出て、池の畔に穴を掘って暮らす場面に出て来る「ニテコ池」。ここでたくさんの螢を見た。節子はこの穴で餓死し、一ヶ月後、清太も三宮駅構内で、誰にも看取られずに餓死する・・という筋書きになっている。


ニテコ池 遠くの山は甲山
ほたるの墓 ニテコ池

(昭和47年 新潮社発行(文庫版)
表紙


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●V・E フランクル著 「夜と霧」を読む
 
 若いころから、いつかは読まねばと気にしつつ幾星霜、ふと気がつけば半世紀も経っていたのであります(笑)。しかし、ぐずぐずして良かったことがある。著者が原稿に手を入れて版をあらため、訳者もチェンジして、巷の評価ではとても読みやすくなったとある。実際、池田香代子の新訳はとても読みやすい。翻訳文にありがちな、まわりくどい、もったいぶった表現がなく、スイスイ読めます。


フランクルは、フロイトやアドラーの指導を受けた精神科医。オーストリア生まれのユダヤ人。1942年、ナチスの強制収容所に入れられ、妻、二人の子供、父母は収容所のガス室等で殺された。本書は三年足らずの収容所体験をいかにも精神科医らしい思考、判断で綴ったもの。明日、殺されるかもしれないという状況でも、人間とはなにか、何が出来、何ができないか、冷静に見ていた。ノートや筆記具なんかないから記憶だけが頼りで、ゆえに、出来事の時系列ははっきりしない。(いっとき、紙くずに速記用語でメモしたこともある、という記述はある)


収容所の劣悪な環境は心身の弱者を自動的に選別した。ガス室に入れなくても勝手に死んでゆく。栄養失調状態で、昔の繁盛山小屋のように、タタミ一畳に二人、三人、というような生活が続けば、次々に死ぬ。ゆうべ言葉を交わした隣の男が、朝、死んでいた。こんな状況で人間らしい感性は麻痺し、感情の起伏さえ失われてゆく。のみならず、死んでまだ体温の残ってる身体から服をはぎとって自分が着る。どうせボロ靴なのに脱がせて交換する。全員がポーカーフェイス。誰も悲しまない。


著者自身、飢えや寒さや疲労のあまり、幻覚を起こしたりするが、まだ、自己と他者を認識できる精神力は残っていた。99%の絶望的状況にあっても「まぎれもない自分」でありたいと思う
。「人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ」この個人の尊厳だけはナチスも奪うことはできない。

 「行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」(青色文字は引用文)


ナチス(ドイツ人)に対する怨念の強さ、いかばかりかと思うのですが、1945年の解放時にはこんなことがあった。ただ一人、人間味を失っていなかった収容所長(こっそり、みんなに薬品やたばこを差し入れてくれた)には穏便な扱いをするように連合軍の兵士に頼み、その通りにさせた。普通なら、被収容者全員で掴みかかって殴り、踏み殺してもおかしくない場面である。この場面、全員の意志のように書かれているが、訳者は著者、フランクル個人の計らいだったのではと書いている。


もう一つ、訳者が驚いたと書いていることがある。新版の本文で「ユダヤ人」という言葉は二回しか出てこず、旧版では一度も使われなかったという。これは、ナチス(ドイツ人)=加害者、ユダヤ人=被害者、という図式ではなく、ユダヤ人でなくてもあり得るホロコーストであることを言いたかったのではないか。実際、被収容者のなかには、同性愛者、ジプシー、社会主義者もいた。戦後70年以上経って、現在のイスラエルのありさまを考えると、どう見ても「やられっぱなしのユダヤ人」ではない。被害者感覚ではアラブ人のほうがずっと強い。


ホロコーストの規模(犠牲者数)においては、スターリンや毛沢東のほうがずっと悪質だと思うが、ドイツのそれは、言い訳はともかく「国民の合意」があったことが最悪である。いや、日本だって、戦時中はマスコミと軍部が一丸となって戦争を煽ったではないか、ナチスと変わらない、という見方もあるけど「民族浄化」なんて恐ろしい発想はなかった。ソ連や中国の大虐殺は、憎き敵国人を殺したのではなく、自国民を殺した。なのに、毛沢東が「建国の英雄」として尊敬の対象になってるのは笑止千万であります。(2002年 みすず書房発行)



夜と霧 







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● 映画「羊と鋼の森」鑑賞

羊と

 主人公はピアノの調律師をめざす若者。その成長の物語であります。こんな地味な話でお客さんくるんかい? 誰しもマユにツバするでせう。世の9割以上の人はクラシック音楽に興味がない。なのに、さらに重箱の隅をほじくるような「調律」のことなんか、100人に一人くらいしか興味がないでせう。企画したプロデューサー氏は客入りのことが気になって眠れなかったのではないか。


上映最終日に行くと、案の定、お客さんは十数人。そのほとんどが女性で、オジンは自分だけでした。ま、しゃーないか。この映画は、2016年度の「本屋大賞」を受賞した同名作品の映画化、作者は宮下奈都。本のほうはよく売れて100万部突破のヒット作となった。全国で地味に活動されてる調律師のみなさんには大きな励みになったと思います。


もともと小説でも映画でも表現が難しい「音」の話ゆえ、絵づくり(音づくり)はデリケートにならざるを得ない。そこで救いになるのが、この映画には悪役が一人もいないこと。原作もそうでしたが、悪役が登場して話の起伏が大きくなると「調律」なんかぶっ飛んでしまいます。あくまで、地味に、しずしずと話を進めなければならない。そんな話の背景になったのが、北海道・旭川とその周辺の美しい森林風景です。この映像美は原作では表現しにくいので上手くはまった。コンサートホールでのシーンでも、外観を写さなかったのは〇だと思います。あくまでも、カントリーシーンの中の地味な物語です。出演は、山崎賢登、鈴木亮平、三浦友和など。エンディングで辻井伸行がピアノを弾いている。


貧乏性、駄目男はやっぱりカネのことが気になって、帰宅して売上げ(興行収入)を調べました。約4億4千万円。ま、これなら赤字にはならない。健闘といえます。察するに、原作を読んだ人の三人か四人に一人が映画も鑑賞したといえます。自分がそうであったように、原作を読んだ者は「こんな地味な話をどうして映像化するのか」が気になるのです。その期待を裏切らなかった出来栄えといえるでせう。


あとで知った事ですが、この映画は天皇、皇后両陛下がご覧になった。上映の半月くらい前に六本木の映画館で鑑賞され、監督はお褒めの言葉を頂いたという。コレが効いた。ン万人分の売上げアップに貢献したはずです。本来なら、カンヌで金賞をとった「万引家族」をご案内するべきところ、家族そろって万引きに励むという話ではねえ・・。で、タナボタで「羊と・・」にチャンスがきた、と想像します。あるいは、もしや、皇后陛下が原作を読まれて鑑賞をご希望されたのかもしれない。(上映終了)


羊と 



皇后陛下の右が主演の山崎賢登。
羊と




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●川口マーン恵美著
    「そしてドイツは理想を見失った」を読む

 たまには少しカタイ本も読む。著者は本来ピアニストとしてドイツ暮らしをしていたのに、なぜか政治に興味をもち、というかドイツ人の思想や民族性への関心が高く、それも共感ではなく,批判的な見地で語るのが得意のようであります。本書も基本はメルケル政権に対する疑問や批判でスジを通している。ドイツの政界はゴタゴタしていると言う点では日本以上の混迷ぶりで、本書を読む限り、政権運営でドイツから学ぶべきことはあまりなさそうであります。むしろ、メルケルおばさんの苦労ぶりに少し同情の気持ちも湧きます。


ドイツ政府が抱える難儀な問題四つ
・難民問題
・EU内部のゴタゴタ
・エネルギー問題
・貧富の格差問題 言論統制の問題


三年前、各地からドイツを目指して大量の難民が押し寄せたときのメルケルの対応ぶりは高く評価された。困った人たちは全部受け入れるという超寛容な、人道主義の鑑みたいな態度だった。しかし、そんなの長く続くはずがない。ドイツは長年、外国人労働者を大量に受け入れてきたが、初期はともかく、現在求めている外国人の人材は知的レベルの高いエンジニア等であり、家政婦や工場労働者レベルの人材ではない。そういうレベルの難民が押し寄せても、もう受け入れる余地はなくなっている。


かくして、難民受け入れ反対派が国民の支持を得て議席を増やしてくる。日本に於ける「安倍一強」みたいに強かったメルケル政権も次第に力を失い、不本意な妥協を余儀なくされる。国内だけでなく、周辺国もドイツの難民策に対して露骨に異論を唱えだした。この間までドイツの幇間みたいだったフランスはマクロン大統領が登場して「うちの政策で対応する」と言いだし、地味で従順なオーストリアには31歳、世界最年少のクルツ首相が難民に厳しい政策を掲げて当選した。今後、メルケルの舵取りは難しくなる一方だ。


EUの成立を人類の理想の一つが実現したと手放しで賞賛する世間知らずがたくさんいるけど、発足以来、ドイツが一人勝ちしている状態では「みんな平等で仲よし」であるはずがない。日本に置き換えれば、ドイツが東京都、フランスが埼玉県、ベルギー、オランダが千葉県・・みたいな感じで、上下の格差がハッキリしている。この格差はEUが亡くなるまで消えない。のみならず、EUの発展ぶりを見て「後出し」で新たに加わったポーランドやチェコ、ハンガリーなどは、はっきり言ってEUの「ええとこ取り」が目当てで、美味しいところは取り込むが、面倒な義務は負いたくないという態度が見え見え。難民問題についても、はじめに損得勘定ありきが政府のスタンスになっている。こんな国を仲間として説得しなければならないのだから、メルケルおばさんも苦労します。


ドイツは、少なくとも日本よりは成熟した民主主義の国というのも常識?になっているが、本当か。シモジモの民まで議論好きという点は学びたいが、ドイツ人らしい「理想を掲げ、実現に向かって邁進する」国民性はときに理想と現実のアンビヴァレンツに悩むことにもなる。そのサンプルが原発廃止、自然エネルギー推進政策の矛盾であります。
 これに関しては過去に書いたので省略するが、福島原発事故をうけて、ドイツ国内の原発は即時廃止せよの過激な世論が生まれたあと、案の定、期限付きで廃止というゆるい施策を余儀なくされ、未だに議論が続く。自然エネルギー発電には,バックアップ用に石油か石炭による同量の発電が必要だが、これが環境汚染のモトになるという因果な事態が解決できない。あちら立てれば、こちらが立たず、であります。ただ、日本に比べてドイツが有利な点は、電力不足が起きたら周辺諸国から簡単に買えるということ。島国の日本でこれは出来ない。


格差問題や言論問題に関しては日本と同じような悩みを抱えている。しかし、問題の複雑さという点では多民族を抱えるドイツのほうが深刻であります。何度も書いてきたけど、単民族、島国という日本の国勢はドイツだけでなく、EU諸国民にとって羨望の的でありませう。
 おしまいに、見習いたいことが一つ、ドイツでは得票率が5%以下の政党には議席を与えないというルールがある。これは塵芥的野党を掃除するために日本にも取り入れてほしい。(2018年 KADOKAWA 発行)


ドイツは・・








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●あの飛田新地と背中合わせにあるドッキリ空間

 西成のジャズシーンで使われる会場は変遷のうえ、二箇所に絞られてきました。小汚い喫茶店、又は大汚い酒場とさよならして選ばれたのがいずれも元銀行のオフイスというのが面白い。なんの因果で銀行やねん、と怪しむが、お堅い銀行も身売りして生々流転の挙げ句に、西成ならではの変身を遂げた。昔日の銀行の姿を覚えてる人が見たら絶句すると思いますよ。


今回、はじめて訪ねた「永信防災会館」は名の通り、災害時の避難及び救護活動の拠点で、飲料水20トンや非常食などを備蓄している。ロケーションはあの飛田新地と背中合わせで、近辺には鉄筋コンクリート造りの建物がないから、大地震や大水害のときは、元銀行(永和信用金庫)のここは貴重な拠点になります。・・と、それは納得できるけど、このインテリアは、な、なんですか。なんでこれが防災拠点やねん、と誰しもが突っ込みたくなるでせう。改装に際しては地元住民の意見も聞き、大阪市や西成区役所も深く関わったはずなのに、その結果がこれ?。


と、ひどいミスマッチぶりに異議を唱えながら、ジャズライブ会場としては上等すぎるハコであります。太子の[Donna  Lee]より10倍快適で飛田にいることも忘れてしまいそう。なんでこれが防災拠点やねん、という正しい疑惑も酒を呑んでるうちに忘れてしまい、プレイヤーの熱演に拍手を送るのでありました。ジャズファンはぜひお運びを。(ライブは現在、月2回あります)

西成ジャズ スケジュール表
http://nishinarijazz.blog133.fc2.com/blog-entry-200.html

永信防災会館の案内
https://www.plus1-nishinari.net/map

チャージは投げ銭制
永信

永信 








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●文藝春秋7月号
 石井妙子著「小池百合子 虚飾の履歴書」を読む

 小池百合子の正体について、マスコミは今までしっかり調べて来なかったのか、いまいちよく分からない。本人が語る履歴をほとんど鵜呑みにしてきたきらいがある。そこで、あらためて履歴を洗い直してみた、というのが本稿であります。今回はカイロ暮らしでアパートの同居者だった中川さん(仮名)への聞き取りが記事の中心になっている。


読んでみると、タイトルの通り、小池知事の若い頃の履歴はウソだらけだと断じている。巷間一番はなやかに語られている「難関のカイロ大学を主席で卒業」はなかった。当時も今も、アラビア語は挨拶くらいの片言しか話せない。卒論なんて、とんでもない。日本の大学で2,3年、予備的にアラビア語を学んできた人とっても、会話も作文もとても難しくて、カイロ大学になんとか入学はできても、よほど努力しないと挫折してしまう。


しかし、ご本人は卒業証書をもっているといい、カイロ大学に問い合わせると、確かに証書は発行したという。(証書のコピーを見せてほしいという著者の要望は叶わなかった)真相は如何・・。
 どうやら、コネを使ってニセの卒業証書を取得したらしい。モラル的に途上国であるエジプトでは普通にある「いんちき入学、いんちき卒業」ではないかと著者は書く。それは、中川さんが語る小池氏の生活態度、人間関係からも察しがつく。功成り名遂げた現在の小池氏からは想像外のハチャメチャの生活態度だった。しかし、一方で、彼女はモテた。しょっちゅう日本人男性が二人のアパートへ来て、彼らを要領よくもてなした。それだけでもアラビア語の学習時間なんかとれないくらいだった。


読み終わって駄目男が推理するに、彼女はソフトな「サイコパス」ではないかと。純度の高いサイコパス=反社会的人物なら東京都知事など務まらないが、世渡りの練度が高いぶん「こなれたサイコパス」はありうる。選挙で大衆の喝采を浴びるサイコパスもいた、ということです。


あらためてサイコパスの人物像を書くと・・・
・平気でウソをつく。
・良心の呵責で悩むことがない。
・リスクを負い、突破できる強さがある。
・表面的にはとても魅力がある振る舞いができる。
・心を許せる友人がいない。

都知事選挙や新政党起ち上げなどで、大成功、大失敗を経験し、ふつうなら心が折れてしまいそうな場面が何度もあったのに、少なくとも表向きはポーカーフェイスで凌いできた。必死の努力というより、天与の才能ではないかと思ってしまう。東京都職員16万人のリーダーであれば、義理人情に揺らぐ心の持ち主であるより、ソフトなサイコパスであったほうが職務遂行に向いている・・のかも知れない。


小池百合子 







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長居植物園のジャカランダ。見頃は終わりました。
jakarannda

●宮本輝:吉本ばなな 対談
            「人生の道しるべ」を読む

           
 この両者、イメージとして、保守と革新みたいにソリが合わないのではと想像しますが、そうではなく、お互い、相手には十分リスペクトの念を抱いて「わかり合える者どうし」であります。ばななさんにとって輝氏は斯界の大先輩であるとともに、父親を慕うような親密感も抱いてる。ま、そこんところ、どこまでホンネを語ったのか・・?ですが。


創作の裏側を語るというのはなかなかしんどいことなので、そこはあまり深く立ち入らないようにしている。金目当てで書いてますなんて言う人いませんし。でも、宮本輝氏はデビュー以後、マイナーな作家にならないために、金儲け目当てを含めてものすごく努力した、ということが分かります。仕事に没頭し過ぎて親子の関係がぎくしゃくするが、とにかく作家として、地位的、経済的に「安全圏」に入るまでカリカリ仕事した。


結果、それは報われて全集が出るほど作品は増えたし、芥川賞の審査員も勤めたし、ゼニのことでいえば、軽井沢に別荘を持つことも出来た。万全でありませう。氏は若い頃は広告代理店のサラリーマンだったが、神経が細いことからパニック障害を起こし、失業する。電車での通勤が恐怖で家から出られない。通勤せずに金を稼ぐには・・と考えて作家になったわけですが、食えない延長上が死であるからその恐怖もある。有名作家になってからも必死に仕事したのは、そんな恐怖感の裏返しともいえます。でも、失業→貧困→餓死、の連想は失業経験者なら大方味わう恐怖です。ただ、作家という選択肢は、ふつうはないでせう。


ばななさんのほうはそんな切羽詰まった生活ではないから、貧困がテーマの作品なんて書けない。人物設定がユニークというか、けったいというか、それが持ち味で、オーソドックスな宮本作品とは対照的。まあ、陳腐な時代小説を読んでるような人には縁のない作品です。そんな彼女もはや五十路の女、この先、何を書くんでしょうか。


二人が言うに、作家たるもの、自分独自の死生観を持つべしと。これが通奏低音のように作品の底に流れていないと薄っぺらになる。文学と娯楽読み物との違いはこんな言外の思想ありや、なしや、にある。若い、ベテラン、年齢に関係なく必要であります。芥川賞と直木賞の境目か、といえば、さあ、どうでせうか。両方を読んでいたら、なんとなく違いはわかります。


宮本氏の生涯の愛読書(度々読み返す本)は3冊。モンゴメリの「赤毛のアン」島崎藤村の「夜明け前」そして西行の歌集、だそうであります。西行の歌集なんてシブイですなあ。(2015年 集英社発行)

人生の道しるべ