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(69)余談・・マレー沖海戦の知られざる美談

 太平洋戦争の緒戦にマレー沖海戦がありました。海戦と言っても、イギリスの東洋艦隊の主力である戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と「レパルス」の二隻を日本の航空隊が襲撃して撃沈したもので、実際には空対海の戦闘でした。「レパルス」は老朽艦でしたが「プリンス・オブ・ウエールズ」は最新鋭艦で、世界一の海軍国と自負しているイギリスが「不沈戦艦」と豪語していたものだけに、そのショックは大きかった筈です。


さて、沈められた2艦の生き残った乗組員がボートで救助を待っている所へまたもや日本の航空機がやって来たので、てっきり生き残りを目当ての機銃掃射のためと慌てふためいていた所、沈められた両艦の跡へ花束を投げて帰りました。この事が英米人の間に「日本に武士道精神あり」と称揚され、美談として語り継がれて、今でも大抵の英米人なら知っている話だと、在米久しい私の長男が会社の仲間から聞かされ「お前知ってるか?」と問われて「知らないよ」と答えたら「そんな事信じられない」と言われたと。以上は久しぶりに日本に立ち寄った長男から聞かされた、誠に結構な話ではあるのですが、こんな結構な話を知らぬは日本人ばかりなり、では何とも癪な話なので、一つ「快道・・」ででも紹介して戴ければと思った次第です。

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 駄目男がこの美談の真偽を調べたところ、長男さんの話とは小さな差異はありますが、真実でした。「マレー沖海戦」でぐぐって見ると、たくさんの情報が出てきます。しかし、DHさんのように、ほとんどの日本人は知らず、むしろ、敵方だった英米人のほうがよく知っている。その理由は恐らく、当時のマスコミの判断のせいではと思いますが、後日、裏付けの調査をしてみます。まず、この花束投下事件のあらましを井上和彦氏の文で紹介します。(青色文字)


英艦隊壊滅後にみせた日本海軍航空隊の“武士道” 
  《私は独(ひと)りであることに感謝した。戦争の全期間を通じて、これほどの強い衝撃を受けたことはなかった》 英国のチャーチル元首相は戦後、著書『第二次世界大戦回顧録』で、マレー沖海戦の大敗北をこう回想している。

 1941年12月10日、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は、マレー半島東岸のクワンタン沖で、日本海軍航空隊75機によって撃沈された。英東洋艦隊は開戦3日目で壊滅したのである。この海戦に世界中が震撼(しんかん)したのは、世界で初めて航空機が高速航行中の戦艦を沈めたからだった。米国は3日前に自ら体験した“真珠湾の悪夢”が、単なる偶然や奇跡でないことを思い知らされた。


マレー沖海戦は、日本海軍のパーフェクト・ゲームだった
 参加した一式陸上攻撃機および九六式陸上攻撃機合わせて75機が、英軍の新型対空火器「ポムポム砲」の弾幕をかいくぐり、高速で回避運動中の戦艦に魚雷49発を放って20発を命中させた。命中率は40・8%だった。高度な誘導武器や火器管制システムもない時代に、海面すれすれの低空で肉薄し、かくも高い命中率を記録したというのは、まさに“神業”であり、厳しい訓練のたまものといえよう。これだけの大戦果にもかかわらず、何と日本海軍航空隊の損害はわずかに3機(戦死者21人)でしかなかったのだ。


この一戦には知られざる美談がある。
 日本海軍航空隊の猛攻を受け、洋上のたいまつと化した「レパルス」に、駆逐艦「バンパイア」と「エレクトラ」が生存者救出のために急行した。他国軍ならば、この駆逐艦も沈めるが、日本軍はそうではなかった。日本軍機は、英駆逐艦に以下のように打電した。
 「ワレの任務は完了せり。救助活動を続行されたし」
次なる標的となった「プリンス・オブ・ウェールズ」が炎に包まれ、駆逐艦「エクスプレス」が生存者救助のため横付けしたときも、日本軍機は攻撃を止めて、その救助活動を助けたのだった。日本軍人が苛烈な戦場で見せた“武士道”だった。この正々堂々たる姿勢は、英海軍将兵を感動させた。


海戦後、1機の日本軍機が現場海域に飛来し、海上に2つの花束を投下して飛び去った。散華した僚機3機の乗員と、最期まで勇敢に戦った英海軍将兵と戦艦2隻に手向けられたものだった。日本海軍航空部隊は、卓越した技量だけでなく、戦場での紳士度も世界一だったのである。
(別の情報によれば、花束投下は海戦8日後の12月18日、投下したのは
海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐)

引用元
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160622/dms1606221140006-n1.htm  (ライター 井上和彦)

海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐のこと
https://ameblo.jp/zero21nk/entry-11726974646.html


戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」
マレー 


沈みゆくウエールズから救助の駆逐艦エクスプレスに乗り移る乗員。この戦いで英軍は800余名の戦死者を出した。同乗の提督と艦長は救助可能だったが拒否して艦とともに沈んだ。
マレー沖海戦





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小学生時代の思い出    作:DH
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(67)泉州銘菓「村雨餅」「時雨餅」「村時雨」

 いろいろ名が出たがみんな同じものである。店によって名が違うだけの事で或は商標権の絡みかも知れない。銘菓であるかは兎も角、珍しい、それも他に類例のない珍菓と言っても良いと思う。我が家では簡単に「村雨」と言っていたので、以下そういう事にする。製法は想像だが、小豆と糯米の粗い目の粉に砂糖を加えて、大きな蒸籠で蒸しただけのものと思う。こうして 出来上がった御菓子は小豆色のそぼろ状で固めたりしていないから、やわらかく、壊れやすい。


これを手頃な大きさに(丁度 虎屋の羊羹を分厚くした程度)切って、底と上にお菓子と同じ大きさの経木を置き、竹の皮で包み、同じく竹の皮の紐で二三か所を縛って出来上がりである。食べる時は、包を開いた後、上の経木を刃物代わりにして好みの厚さに切って口にする。甘さも控えめでなかなか上品な味だ。ただ生菓子だから余り日持ちがしない。精々二三日が限度である。竹の皮はなかなか風情があるが、今は手に入らないから竹の皮の模様を印刷したビニール紙かなんかでパックされている。味気ない事だ。


和菓子の基本は餡と餅である。餅に餡を塗っただけのものが「赤福」であり、餡を餅で包んだものが「羽二重餅」である。饅頭の皮も餅の一種と見れば、和菓子の九割以上はこれらのヴァリエイションに過ぎない。最初に珍しい菓子と言ったのはこの点で「村雨」は小豆を原料にしているが餡ではない。糯米を使ってはいるが、餅でもない。「村雨」の「村雨」たる所以で、是非、皆様にもお試しをと言いたい所だが、どうも高島屋でも売ってそうもない。かと言って、これだけのためにわざわざ泉州くんだりまでご足労願う訳にも行かず、誠に残念だが、まあ幻の珍菓があるとだけご承知いただければ有難い。


道明 


(68)最中屋(もなかや)

 この記憶はかなりあやふやだが、我が家の西隣の家の角を南へ曲がって半町ぐらいの突き当りにその店はあった。重い障子戸を開けて「ごめん」と入って行くと土間を隔てて向かいの部屋に坐っていたご主人が「よう おこし。お幾らにしまひょ」と、いきなりこれだ。他の菓子を置いてる気配もないので余計な事は聞かない。「30個」と、こちらも子供の使いでぶっきらぼう。「少々お待ちを」と早速作りにかかる。とにかく一種類しかないのだから、あれかこれかと聞く必要もない。左手に最中の皮を持ち、右手に持った箆でさっさっと餡を詰めては表の皮で蓋をしてゆく。30位はあっという間で「お待ち遠さま」と出来上がった最中を箱に詰めて渡してくれる。注文生産だ。


確かにこの時点では最中の皮はパリパリで、じなーっとしけてはいないが、さて食べる時にはどうだろうか。予め作られた最中だとどうしても皮がしけがちだ。しけていないという事がそれ程大事な事かどうか鈍感な私にはどちらでもいいように思えるが。しかし、パリパリの最中を評価する人が多いと見えて 皮と餡とを別にしてお客さんが好きな時に いつでもパリパリの最中が食べられるようにして売り出した近江八幡の「たねや」が大ブレイクで[高島屋]にまで進出するようになった。但しここの最中は丸くなくかなり細い長方形である。


最中の形なんかどうでもいいようなもので、別段気にする訳ではないが、そもそも「最中」は「最中の月」から来ている以上丸いのが原型である。最近はそんな小うるさい事は言わず四角い最中も多くなった。わが町 佐野の菓子屋「むか新」の最中「いろは蔵」も四角で、しかも真ん中に縦の割れ目が入っていて二つに割りやすい。割った半分が二口で食べられる割と小振りな最中だ。それに皮が薄いので、かなりしけている。これに比べると、私の好きな「百楽」は大きな正方形だが皮が厚い所為か出来合いでも しけた感じがない。たまには煎茶で最中もいいものだ。


道明 村雨







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小学生時代の思い出    作:DH
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(65)漬物(沢庵)

 漬物屋もあるにはあったが各家庭でも作っていた。我が家も沢庵は自作で、まず大量に買ってきた大根を軒に吊るして十数日陰干しする。いい加減水分が抜けてしわしわになってきた処で、やおら漬物樽を持ち出し、底に糠と塩をたっぷり敷く。菜っ葉を除いた大根をできるだけ隙間の出ないように首と根を交互に組み合わせて底一杯に並べる。これが一番底の段。次にそれらが見えなくなる程度に糠と塩で埋める。その上に二段目の大根をを下の段の大根とは直角になるように並べて又もや糠と塩。これの繰り返しで、全部漬け終ったところで蓋をして重石を置く。


この状態で放っておくと蓋の上にどんどん水が上がってくる。塩と重石でまだ大根に残っていた水分が出てきたものだ。この水を何回か捨てて殆ど水が出なくなれば一応の出来上がりである。但しこの段階ではまだ色も白く味も浅い。日と共にだんだん黄色くなり,やがて黄褐色へと変わり、色も味も濃くなってくる。大根そのものも小さく萎びてくる。そして、食べ終わるころにはまた新たに漬ける季節になっている。

 余談だが私どもの地方では沢庵とは言わず、「こーこ」または 「おこーこ」と言っている。極く希だが「親に孝行(こーこー)、親に孝行」と呼びながら沢庵を売り歩く人を見る事もある。
道明 たくあん


(66)なすび (=水茄子)

 昔からこの辺では「茄子」の事を「なすび」と言い慣わしている。「水なす」なんて聞いた事もなかった。それが いつのまにやら全国版の「泉州名産 水なす」と言われるようになってしまって、何だかその辺がむずむずするような、変な気がする。昔は余程の特産品でない限り流通する事が無かったから、茄子と言えば「なすび」しか知らず、茄子紺と言われるような綺麗な細長い「茄子」の実物は見た事も無く、絵で知るのみだった。その立派な「茄子」と比べると形はずんぐりむっくりで、お世辞にもいい形とは言い難いし 色も良くない 何の取柄もない「なすび」だが皮の薄いのが取柄で「浅漬け」にして食べると誠においしい。


専用の小振りの糠床に、夕方数個の「なすび」を放り込んでおき、翌朝取り出して刃物は使わず指で割いて食べる。この時は醤油ではなく「もろみ(醤油にする前の液状の味噌)」を使う。これまた甚だおいしい食べもので、これだけをおかずにして御飯をたべても、却って食がすすむ程の代物である。そんな訳で「なすび」と言えば浅漬け、浅漬けと言えば「なすび」だが、もう一つ「じゃこごうこ」という食べ方もある。これは「じゃこ」と称する地で獲れた小エビと「なすび」をかなり辛い目に味付けした煮物だが「じゃこ」がいい出汁になって、これまた一倍食のすすむおかずだ。一体に御飯のおかずには塩辛いものが適しているようで、昔は御飯と塩だけで3年過ごした剛の者も居たとか聞いた事もある。 

道明 なすび







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小学生時代の思い出    作:DH
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(63)腹立たしい思い出

 思い出と言っても必ずしも懐かしいもの、楽しいものばかりとは限らない。これはその腹立たしいものの一つ。何年生の時の事だったか、何とかの宮が来られるというので、その歓迎のためにみんな日の丸の小旗を持って道路の片側に並んでお迎えした。そこそこ待ち草臥れた頃、やっと宮様が見えたというので一同最敬礼の号令がかかった。頭を下げている我々の前を車が通ったような気配が感じられるまでにも可なりの時間があった。最敬礼が解けたのはそれから大分経ってからの事である。


結局、我々は長い時間を潰して頭を下げただけの事で宮様の来られる所も、また通り過ぎられた後も車の影も形も見ずじまいだった。いくら皇族だって、また、幾らこちらが子供だって、これは余りにも人を馬鹿にしている。あれから約80年も経ったいまだに覚えている位だから、あの時はよっぽど腹がたったのだろう。

 小学校時代の話はまだまだ続くが、この辺で一寸一服して目先を変え、当時の生活に話を変えてみたい。


(64) 井戸

 一日の生活は起床、洗顔から始まる。いまなら水道の栓を捻ってジャーだが昔はそうはいかない。まず井戸から水を汲み、一旦それをバケツに溜め、そこから柄杓で水を洗顔用の金盥に移す。これだけの事をしないと顔も洗えない。と、字で書くと大変煩わしいように思えるが、馴れてしまえばさしたる事でもない。


さて、井戸。勿論、釣瓶で水を汲みあげるのだが、その方法も時代と共にどんどん進歩する。最初は多分縄の先に釣瓶を縛り付けてドボンと放り込んだのだろう。次いでは竿の先に釣瓶を縛り付けたもの。千代女の「朝顔に釣瓶とられて貰い水」はこれである。その次は「撥釣瓶(はねつるべ)」。柱の上に横木を渡し、一方の端に重しを もう一方の端に釣瓶を付けたもので これだと余り力が要らずかなり楽になる。


我が家のそれは両端に釣瓶を付けたロープを滑車に掛けたもので、エレベーターのように一方が水に浸かっている時は 他方が上に上がっている式のもので、これも余り力が要らなかった。それに我が家の井戸は近辺では一番深い方で水の涸れた事がなかった。浅い井戸だと雨が降ると水が浸み込んで濁るが、深いからそれもなかった。更に地下水の温度は年中一定しているから夏は冷たく冬は暖かい。水道のように結氷する心配もないし、夏は一種の冷蔵庫となり よく西瓜を冷やしたものだ。この時は容器に入れて吊るさないと直接 水に漬けると味が薄くなる。


井戸にもメンテが必要で、年に一度「井戸替え」と言って 溜まっている水を掻き出し 井戸の底を掃除して新しい綺麗な水が流れるようにしていたが、水道の普及と共に「掻き出す」人足が絶滅職種となりメンテが出来なくなった為、今はモーターで洗濯用と表の植木鉢と撒き水にだけ使っている。


井戸と水道についてこんな話がある。都会の子供が田舎の従兄妹の家に遊びに行った。田舎の子が井戸から水を汲むのを見て、都会の子が街では栓を捻ればいくらでも水が出てくると一寸田舎を馬鹿にする。田舎の子は悔しがるが、その中、水道にはお金がかかると聞いて、なんだ ただじゃないんだと田舎の方がいいように思う。これは大正末期に発行された児童専門誌「赤い鳥」に出ていた話だ。


以上とは違い「釣瓶」のない「手押しポンプ」型の井戸もある。詳しい構造は知らないが、読んで字の如く、把手をギッコンギッコンと上下させると反対側の蛇口から水がジャージャー出てくる式の至って簡便なものだ。ご近所には今もこれを専ら撒水用に使っているお宅がある。


更にその上を行く「掘り抜き井戸」という物もある。言ってみれば人口の泉のようなんもので地下の水脈とパイプで直結して、年中、水が出っ放しという何だか勿体ないような代物だが、地下水はどちらにしろ、何処かへ流れて行くのだから途中で多少汲み上げようが、どうしようがどおって事も無いのだろう。この辺の水には微量ながら鉄分が含まれていると見え、井戸から流れ出る水路は永年のうちに鉄錆色になってしまう。


ずっと昔の話になると、都の随身院の外郭に「小野小町の井戸」と称されている、いかにもインチキ臭い井戸がある。かなり広い長方形の地面を階段状に掘ったもので、その一番底の部分に溜まった水を汲んで壁にくっついた階段のような所を運び上げる式のものだ。


いずれにせよ、何処を掘っても水が湧くという事は、皮膚の何処を突いても血が出るのと同じで、地下一面に水脈があるという事になる。血液は体内を循環するが水は低きにしか流れない。しかし、必ず循環する筈となると、どんな地下水脈もいずれは海水の中に流れ入らねばならないという結論になる。

釣瓶式の井戸
道明 井戸


手押しポンプ式の井戸
道明 井戸



電動ポンプ式の井戸
道明 井戸 






 

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小学生時代の思い出    作:DH
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(62)1900年(明治33年)

 1900年は単に切がいいというだけでなく、私にとっては一寸特異な年でもある。その第一は母の生年だという事で、しかも3月10日(陸軍記念日)生まれとくれば何となく作為的な匂いがする。事実どうやらそうだったようで、ある時母が「私は子年生まれという事になっているけれど本当は亥年なんよ」と言ってるのを聞いた覚えがある。当時の戸籍は今ほど正確なものではなく、出生届けにしても医師の出生証明書を付ける事もなかったようだから、(第一、分娩は殆どが産婆さんの仕事で、産院でのお産なんか滅多になかった)出生日を早める事は無理にしても、少しぐらい遅くする分には簡単にできたのではなかろうか。


それはともかく、1900年生まれと言うのは暦年と生年が同じという事で誠に便利なのだ。つまり1920年なら20歳、50年なら50歳で紛れがない。88歳で亡くなったから1988年と没年が瞬時に分かる。他の年だとこうはいかない。父は85歳で亡くなったが、その没年となると、えーっと明治29年は西暦では・・・と、よく計算しないとなかなか正確な答えが出てこない。それと もう一つ、1900年は19世紀の最後の年だから、母がもし、もう13年ながらえて2001年まで生きたとすると、実に3世紀に亘って生きた事になり、これ亦一つの記録になったろう。今ほど長寿大国でなかったにしても、そんな人も何名かは居たに違いないと思っている。


もう一つは私の母校、第六高等学校(略称・六高)が創立されたのも明治33年、1900年だったという事。残念な事に、六高は昭和25年(1950年)にGHQ(占領軍総司令部・長官マッカーサー将軍)の方針で廃校になってしまった。丁度50年の寿命だったという事になる。敗戦後のゴタゴタも漸く治まり、同窓会の発足したのが昭和36年。多くの資料が散逸していて名簿一つ作るのも大変だったようだ。ともあれ、こちらの方も2000年が創立100周年と非常に分り易い。2010年の110周年はいいとしても、120周年はとてもできまいとあって半端になるが、115周年を強行。おそらく総会としては これが最後となろう。大阪支部も結成当時は略2000人ほど居たらしいが、年々減る一方で今年現在のメムバーは約100名、内、同窓会に出てきたのが20名余りという事で今年を最後とする事にした。何しろ一番若いのが87歳という超高齢者集団とあっては「老兵は消えるのみ」である。

六校の校歌「山紫に」
https://www.youtube.com/watch?v=2sHYc1ED4MY

同 寮歌
https://www.youtube.com/watch?v=YLbse44o80A


六校の在りし日の姿
道明 六校 



道明六校

 









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●10月例会 ご案内
 イラスト 梅本三郎


青春81きっぷ シリーズ
若者よ、メールは短し レールは長く 旅に出よ!!


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●くちまめ 10月例会 ご案内    ~担当 藤家~

10/11(木)秋景色を探そう 約5,5㎞
どこへ行っても台風21号の影響か 公園の木々も紅葉?枝葉もすっきりしてます。さーて皆さんゆっくり歩き始めましょう!!

■ 集 合:JR阪和線和歌山で和歌山線に乗り換え、岩出駅 11時
■ コース:JR岩出駅=南根来BS~根来寺 植物公園緑化センター~国分寺跡~下井阪駅着 ⁂弁当持参の事

11月例会 ⁂11月8日を予定してます 

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●10月例会 ご案内

 西除川遡行 第1回  ~担当 小西~
 南海高野線 浅香山駅~松原市民運動広場まで 
 
■10月18日 (木) <雨天19日(金)>
■集合・・10時30分 高野線浅香山駅集合
  参考ダイヤ 各停 難波発10:03~浅香山10:21着(260円)
■コース・・浅香山駅~つつじ公園(T)~JR浅香駅~大和川合流点~天美西公園(昼食・T)~北新町大池公園(T)~布忍神社~市民運動広場(T)~バスで近鉄河内松原駅へ(弁当持参要)  9km 平坦路
※第2回は11月1日の予定です。(全4回 11月中に終了予定)

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■ご案内
 たなかさんの古道紀行「おおばこの会こばこの部」では、大和川本流の河口から水源までフルコースを歩くプランがあります。第1回は来年3月3日(日)南港河口からJR杉本町駅 9kmコースです。

予定表

http://oskjk.blog107.fc2.com/blog-category-17.html







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小学生時代の思い出    作:DH
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(61)日露戦争余話・・前項 海軍記念日の続き

 日本海海戦の完勝によって海の戦いは終わった。残るは陸である。折からシベリヤ鉄道の輸送能力のアップもあって、日とともにロシア側の兵力は増強される。日本側は現状で精一杯という困った状況下にあった。所がロシア皇帝を頂点とする貴族制度に対し、明石少佐の諜報活動もあって、農民・労働者の不満が高じ、楫の取り方を誤れば 革命にもなりかねまじく、遠い遠い極東の戦争に全力を投入できるような状況ではなくなった。という訳で日本側にとっては絶妙のタイミング,且つ好条件で講和が成立したが、真相を知らされず、日本が一方的に勝ったと信じている国民は講和条件に納得せず、全権大使の小村寿太郎に弱腰過ぎるとの非難が集中する。勝ったと思っている日本側は講和条件を生ぬるいとする不満。戦争はまだこれからで、負けたとは思っていないロシア側はなぜ講和せねばならぬのかとの不満。で、双方に不満の残る幕引きであった。


伊藤博文暗殺事件の真相
 これが尾を引いて数年後のハルビンでの伊藤博文暗殺事件となる。えーっ。どうしてそんな事になるの?我々の教わった歴史では伊藤は朝鮮人の安重根に殺された事になっている。そうではないと木村毅氏がいろいろの証拠を挙げて説明している。

1)閲兵式は当初の予定になかったが、ロシア側からの強請で急遽伊藤が出ねばならなくさせられた事。
2)伊藤を殺した弾丸はロシアの制式銃であるカービン銃の弾丸である事。
3)その弾丸は水平方向からではなく斜め上方から伊藤の体を貫通しており、発射方向にロシアの兵舎があって、その二階から撃てば丁度角度が一致する 。

 と、暗殺の真犯人はロシア軍だと断定している。その一方、犯人とされた安重根については、
1)安重根が拳銃を入手したのは事件の数日前であり、それから射撃練習を始めた(裁判所における被告の供述)
2)立ち並んでいる衛兵達の間から撃ったというが、そんなにうまく撃てるものか?
3)第一閲兵式場に安重根のような関係のない人間がうろちょろできるものかどうか。
という事で これまた安重根は暗殺の本人ではないと論じている。このように言われると全くその通りと思わざるを得ない。


 では何故、日本側は安重根を犯人と断じ、ろくすっぽ裁判もせずにさっさと処刑してしまったのか? もし木村氏の言うように犯人がロシア軍だという事がはっきりすれば これは日露再戦とならざるを得ないが それこそロシア側の思う壺で 彼らは中途半端に終わった前回の戦争を蒸し返し今度こそ本当に決着を着けたいと思っており これはその為の挑発である。だが日本側には それを受けて立つ余力無く ここは何が何でも安重根を犯人に仕立てて 事を大事に至らぬように納める事がロシアとの戦争を避ける為の止むを得ない処置だった。と言うのが伊藤博文暗殺事件の真相だったようだ。


伊藤博文
伊藤博文  



安重根
安重根 




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●久しぶりにオリジナルコースを企画 ~担当 KJ~

 猛暑の真夏は全く運動をしなかったせいで脚力が著しく衰えてるのを実感、なんとかせにゃ~、と、手間のかかるオリジナルコースを企画しました。下見と本番、二度歩かねばならない分、運動量が増えます。

西除川遡行 浅香山~天野山金剛寺 約32キロ
 ・・を、調査中です。大和川の支流、西除川(にしよけがわ)という地味な川に沿って、堺市・南海高野線浅香山駅から河内長野市の天野山金剛寺まで4区分して歩く計画、何年ぶりかで、地形図「古市」「富田林」を買いました。この川沿いに「快道」なんて無さそうですが、そこをなんとかゴマカシて?、案内します。河岸に道のない区間もあるので、そこは別の道を探します。途中、第三区分では「狭山池博物館」を見学します。第4区分の後半は、いつか例会で歩いた「天野街道」を予定しています。

予定区分(変わる場合があります)
第1回 南海高野線・浅香山駅~松原市市民運動広場 9キロ
第2回 市民運動広場~南海・北野田駅 7キロ
第3回 北野田駅~滝谷駅 8キロ
第4回 滝谷駅~天野山金剛寺 8キロ
       (調査中なので各回の距離は±1キロくらい変動します)

第1回は、10月18日を予定しています。11月中に終了の予定。
詳しいことは、近日「10月例会案内」でお知らせします。

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●9月 お楽しみ食事会

 TMさんの案内で、道頓堀「銀平」でランチ。刺身から焼き物まで、お魚メニューを堪能しました。食後は、近くの高級カフェ「カフェ・ド・ラ・ペ」へ。大阪クラシックの演奏会会場にもなった店です。参加13名(9月20日)



9月食事会







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小学生時代の思い出    作:DH
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(60)祝日:祭日:記念日

 今は○○の日として何もかも一緒だが、当時ははっきり分かれていた。学校が休みになるのは祝日(式日)だけで、それらは以下のとおり。

四方拝―1月1日。勿論、元日で学校はもともと休みである。
紀元節―2月11日。神武天皇の即位の日とされ、今の建国記念日。
春季皇霊祭―3月の春分の日。今の春分の日。
天長節―4月29日。昭和天皇の誕生日で今は昭和の日。
秋季皇霊祭―9月の秋分の日。今の秋分の日。
明治節―11月3日。明治天皇の誕生日。今は文化の日。


これらの日には各家とも軒ごとに「日の丸」の旗を立てるので「旗日」とも言った。我が家にも旗も竿も竿の先につける金の球もあったが、何時の間にか見当たらなくなっている。今でも時々「日の丸」を立てている家を見かける事もあり、懐かしい思いがする。これらの他に休日にはならないが、
3月6日―-地久節。皇后陛下の誕生日である。行事としては何もない。これは「天長地久」という成句による言葉だが白楽天の「長恨歌」から説明していると長くなる。ちきゅう節というと、まず大方は地球節を思い浮かべ、天皇が太陽で皇后が地球だろうと勝手に納得してくれる。
3月10日―陸軍記念日。日露戦争の奉天入城式のあった日。奉天は現在の瀋陽。
5月27日―海軍記念日。同じく日露戦争で日本の連合艦隊がロシアのバルティック艦隊に完勝した日本海海戦を記念する日。
10月17日―神嘗祭(かんなめさい)。新穀を神に献上する日。
11月23日―新嘗祭(にいなめさい)。新穀を天皇陛下が始めて召しあがる日。
12月25日―大正天皇崩御の日。

 などがあって、一見して、今に比べ、いかに休日が少なかったか瞭然である。現行は何とかの日、かんとかの日と休みだらけ、恐らく世界一休日の多い国ではないか。ただ残念な事はバラバラで纏まっていない事。年末年始にしろ、ゴールデン・ウィークにしろ、目一杯休んでも10日前後である。毎年この時期になると民族の大移動となるが、休みが短いと移動だけで草臥れてしまいそうである。欧米では休日が少ない代り各人の都合に合わせてヴァケイションという一か月前後に亘る長期休暇を取り、ゆっくり休暇を楽しんでいる。文化の相違と言ってしまえば それまでだが。

昭和7年の暦
道明 昭和7年の暦 






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小学生時代の思い出    作:DH
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(59) 煙草の事

 小学生と煙草と何の関係があるのかと言われると何の関係もない。不図、思い出したままに書く事にする。我が家の筋向かいは文房具屋だが煙草のコーナーもあった。どうゆう訳かそこのおっちゃんとウマが合い、しょっちゅうその店に遊びに行っていた。相手は大人、こちらは小学生で、可笑しいではないかと言われれば確かにおかしいが、とにかくウマが合ったのだから仕方がない。勢い煙草コーナーに座って留守番の真似事のような事をしている中に幾種類かの煙草の銘柄も覚えてしまった。


一番良く売れたのが「ゴールデン・バット」で定価7銭。客の8割方はこれで、単に「バット」と言っていた。箱の図柄は二匹の蝙蝠である。その一格上が「エアシップ」で10銭。勿論、飛行船の絵で二つとも両切りの10本入りだ。別に「朝日」があって これは吸い口付の20本入り。値段は覚えていない。吸い口と言うのは、今で言えばフィルターと思ってくれればいい。その分煙草の量は少なくなるが、両切りが7~8割吸った所で捨てねばならないのに対し、こちらは最後まで吸える利がある。これは箱ではなく袋入りだった。 やがて戦争が始まり、英語は敵性語だとあって「バット」は「金鵄」に「エアシップ」は「鵬翼」にと名を変えた。


他に「ききょう」と「あやめ」だったか、或は「はぎ」だったか記憶の程は覚束ないが、袋入りの「刻み煙草」があって、これは煙管用である。今は煙管で吸う人がなくなったので想像しにくいが、一袋の刻み煙草で一体何百服吸えるだろうか。一服当りの単価にすると紙巻に比べ刻みの方が可なり安くなる。その上刻みだと2~3服吸ってやめる事もできるが紙巻きだとどうしても一本単位になってしまう。一度に数本吸う人もあるし、一日中煙草を離さず「尻(けつ)の穴から煙が出るほど」吸うヘヴィ・スモーカーもある。あちらでは「チェイン・スモーカー」(鎖のように切れ目なく煙草を吸う人)という言葉もあれば「まるで煙突のように煙草を吸う」という表現もある。


最近は社会全体に煙草を減らそう、止めようという気運の盛り上がりで「ノー・スモーキング」の場がどんどん増え、スモーカーは吸える場所を探すのに苦労する。悪名高かった「ポイ捨て」も目立って減って来たように思う。「百害あって一利無し」と言われる煙草の事だから、これはこれで結構な事に違いないが、隔世の感も否めない。本当に[移れば変わる]世の中だ。


ゴールデンバット(包装の展開形)
道明 たばこ 


エアシップ
道明 たばこ  





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小学生時代の思い出    作:DH
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(58)三年生 吉川先生

 毎年進級と共に担任の先生も変わる。それは4年生まで。5~6年は進学の事もあって変わらない。で、3年生になって吉川先生に変った。かなり年配の女の先生だった。3年までが女性で4年以降は男性の先生になる。ある時、先生の都合で自習の時間になった。静かに自習しているようにと言い置かれての事だが、先生の顔が見えなくなった途端に教室中、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。級長の制止などどこ吹く風、騒ぎはエスカレートする一方で、全然治まる気配もなく、結局先生を呼びに行く羽目になるのだが、先生が教室に戻られた瞬間にピタっと静かになるのだから、その威光は大したものだと今更に思い知らされた。当時の先生というのは絶対的存在だった。


以下は後日談になる。先生の実家は隣町の貝塚で薬屋をしているとかねがね聞いていた。で、もう少し大きくなってからの事だが、貝塚へ行った序にこの見当と思われる辺りに行ってみると、案の定、吉川薬局というお店が26号線(旧国道)に面した目抜きの場所にあった。これが先生の実家かと何となくほっとした。

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小学生時代の思い出    作:DH
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(56) 運動会

 小学生と言えば運動会だ。赤にも白にもなる便利なキャップを被り,赤勝て、白勝ての玉入れ、綱引きと競走は定番だ。ダルマ転がしもあったかも知れない。スプーン競争は先生や父兄の成人用だったと思う。パン喰い競走は無かった。初めての催しなので、もっと緊張するかと思ったが、さほどの事もなく、ただ、ワーワーキャーキャーと訳も分からず動き廻っただけで、寧ろ一喜一憂、興奮していたのは生徒より観客の父兄の方だったように見えた。「小学校の運動会、君は一等僕はビリ・・・青いレモンの味がする」という爽やかな童謡があった。あれに比べると男子小学校の運動会は華やかさに欠ける殺風景なものである。


道明 運動会 
 


(57)2年4組 辻先生の事

 二年生になり、組変えがあった。一年生の三クラスはそれぞれ80名近くあったため、これでは先生の負担が大きすぎるとあって、各組から20名近くを引出し、新たに一組を作った。それが2年4組で、以後卒業までの5年間苦楽を共にする事になる。担任も辻久子先生に変った。おや、どこかで聞いたようなと思われた方は正解である。そう、当時 数少ない女流ヴァイオリニストの辻久子さんと同姓同名なのだ。女流ヴァイオリニストはもう一人の諏訪根自子(?)さんと二人ぐらいしか居なかった。


辻先生は家次先生よりお若くて、潔癖というか、綺麗好きだったように思う。当時、掃除当番という制度があって、放課後、持ち回りで何名かが残って教室の掃除をする事になっていた。机は雑巾がけ、床は掃くだけだったと思う。雑巾はしょっちゅう洗って綺麗にしておかないと拭いているのか、汚しているのか分からなくなる。問題は廊下の雑巾がけで、よくお寺の小坊主が廊下を拭いている、あれである。これはキツい。長い廊下を端から端まで四つん這いの姿勢で拭いていくのはいくら若い小学生でも息が切れる。雑巾もすぐ汚れる。「よく絞り出して、絞り出して!」と これが陣頭指揮の時の先生の口癖で、今も耳の底に残っている。先生が居ないと、いつの間にか姿を消すズルケも居た。


習字の時間には我々が墨で書いた字の上に朱筆で添削してくれる。先生はみんな字が上手でそれ位は当たり前の事と思っていたが、どうやら先生は書道に堪能だったようだ。そう知ったのはずっと後の事で、既に社会人になっていた私の許に、ある日突然、書道展の案内状が送られてきた。どうやら辻先生の書道の先生の個展らしい。不審に思いながらも行ってみて驚いた。それまで書は白紙の上に書くものと信じ切っていたのに、展示された作品は黄色を始め、薄い青、薄い紅など色とりどりで呆気にとられた。


先生の書の先生~栗山廬山先生だったかと思うが確かではない~の出品は「多岐亡羊」とあって意味が分らないので厚かましくも初対面の先生にお聞きしたところ「羊を追っていたが、分かれ道が多くて到頭見失ってしまった、という中国の故事に基づく四字熟語で、転じて進む道が沢山あるので、あれこれ迷っていると何処へ行くべきか分からなくなってしまう、というような意味に使われている、と丁寧に教えてくれた。一つ賢くなった。もう「多岐亡羊」は生涯忘れる事はない。それにしても何故こんな案内状を戴いたのか? この時、先生は既に学校も辞め、結婚して姓も変ってたように思う。

道明 拭き掃除






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小学生時代の思い出    作:DH
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(54)入学式異聞 付・女子の名前の事

 わが町の事ではない。姓は失念した。名は則子と書いてタダスと読ます男子の話である。入学式の日、先生が新入生を男子、女子のグループに分けて点呼を始めた。先生は則子をノリコと読んで女子だと思い込み(無理もない)〇〇ノリ子さーんと呼べども呼べども返事がなく、大変だ、女の子が一人足りないと騒ぎになった。一方男子の方ではタダス君が待てども待てどもお呼びが無くボー然と立っていた。こんな事が起る事もあるから子供には紛らわしい名をつけるな!と声を大にして叫びたい。
 さて女子の名。戦前は美智子,美代子、恵美子、貴美子のように「美」の入った三字名が多かった。少なくとも読めないとか、読み違えるような名前はまず無かった。戦後も暫くの間は変わらなかったが、最近はホステスの源氏名かスターの芸名かと思われるような名が殆どで、まず耳から聞いて字が思い浮かばない。字で書かれても どう読むのか分からないで腹だたしい限りである。その上、孫娘までが御多分に洩れずで、今更変えろと言っても変えられるものでもなく、苦々しく思っている。


(55) 靴の事、及び「靴が鳴る」事

 革靴は余所行きで、普段履きは「アサヒ靴」(ズック靴)である事は前に書いた。もう一つ「スッポン足袋」という第三の靴があった。ありようは地下足袋の底を薄くし、足首にゴムを通したものである。小学生は成長期で身につけるものは何であれ、その時のサイズに合わせて誂えるとすぐに小さくなって着れなくなる。だからどうしても一~二年は着れるようにと大き目のものにしてしまう。一年生の着るものはすべて新調だからどれもこれもガバガバになる。服はまあよい。靴も通学ぐらいならどうという事もない。しかしゴソゴソの靴で走るとなるといかにも勝手が悪い。走っている最中に脱げるかもしれない。そこで「スッポン足袋」の登場となる。これならゴムが入っているから少々大きくても まず脱げる心配だけはない。完全に競走用で、競走の時以外には履かない。

 話かわって「お手て つないで 野道を行けば・・・歌を歌えば 靴が鳴る」という誰でも知っている童謡がある。始めて聞いた時から、この「靴が鳴る」が何を言っているのか意味が分らず首をかしげた。靴は鳴らない。絶対に鳴らない。仮令革靴でも。子供の靴は。絵を見る限りではどうやら都会っ子らしいが、彼らは革靴で野道を行くのだろうか?ズックの方がずっと歩きやすかろうに。それとも彼らは靴といえば革靴しか持っていないのだろうか。などなど、あれやこれやと考えても「靴が鳴る」とはどいう事か分からなかったし、今もってこの不審は解けていない。


道明 靴が鳴る 


  


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応募ありがとうございました
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「追憶の山々」 ~投稿・YMさん~            

 子供の頃、「山」と言えは、まず「帝塚山」だった。我が家から10分かからずに行けた。弟たちはトンボとりなど、いつも、その辺りで遊んでいた。今は、当時の様子が思い出せないほど町はすっかり変わってしまった。ところが、6年生の歴史学習で、担任の先生がクラス全員を連れて帝塚山へ。そこで、初めて「帝塚山」が古墳だと知った。


同じ頃、その年の初冬に「金剛山」へ「ウサギ狩り」と称して登ったが、滑って滑って難儀した。男の子の中には、運動靴にわら縄を巻き付けて歩いていた。今のような子供の登山靴など思いも浮かばない頃だ。お昼ごろ、一応、目的の場所にたどり着いて「ウサギ汁」を頂いた。男の子に言わせると「あれは豚汁や。」と言うことだった。そうだったんやと納得した。なにしろ、ウサギの姿すら見なかったから。


中学生になって、新卒の担任の先生に誘われ、お弁当持ってクラスの数人で登ったのが「二上山」。ザラザラの道で、その時も、滑って滑って困った。けれど、木々の間を吹く風や木洩れ日の優しい穏やかさは60年以上も昔の事なのに、今も昨日の事のように思い出される。その後、高校の卒業旅行で登ったのが、長野県「白根山」。この時「硫黄のにおい」が鼻をついて、たまらなかった。その後も登る機会があったが、最初の時の印象からの逃れられず、かなわんなぁ~~ って思う。


弟も成人し、よく「ご夫婦ですか?」等と言われながら、一緒に歩いた。弟が入った山の会の毎月の例会にも、ついて行った。山小屋の雑魚寝も、この頃初めて体験した。特に、「金剛山」と「大台ケ原」は何度もコースや登る相手を変えて歩いた。


その後、結婚して、弟・夫・私の3人でも仕事の合間を使って歩いた。今も楽しかったなぁと思い出すには、3人の休暇を合わせて、大台ケ原から松坂まで1泊2日の歩き旅。「桃の木小屋」に泊まり、川沿いを歩いた。今や、この道は崩落してしまった。「桃の木」も個室の山小屋となっているとの事。


又、夫と二人で「立山」へ行き、雄山へ。雪渓を恐る恐る歩いた。山腹では生まれて初めて、ライチョウの親子に出会えた。優しい鳴き声の親鳥と子鳥は、勿論、アッという間にはい松の中に消えてしまったが・・・。
ところが、その後、室堂のバス停へ帰ってきた時は、最終バスが出発した後。急いで下ったけど・・・。たどり着いたのが、黒部の工事現場の飯場。そこで、泊めていただくこととなった。親切なおばさんの炊かれたご飯とお漬物のおいしかった事。清潔なお部屋とお風呂。翌朝は、工事用のトロッコに乗せてもらって帰ることとなった。当時、幸いなことに、黒部はまだまだ工事中だった。


二上山
二上山 


立山連峰 雄山
立山 




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小学生時代の思い出    作:DH
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(53)  食(めし)家の事

 今回は眠っているような町、泉佐野市にも曾てはこんな時代もあったとの郷土史の一席を。小学校の校門を入って右側に「食家之跡」と記した石碑があった。いつの間にかなくなってしまったが、小なりとは言え、1000名を超える生徒の小学校がその跡地と言うのだから、元の邸宅が如何に広大なものであったか想像できよう。


楠氏の末裔とも言われる食家は曾ては「出羽の本間か、和泉の食か」と本間家と並び称される程の豪商で、落語にも「和泉の若大将」として ちらりと姿を見せる程の全盛ぶりだったが、ご一新でお大名がご存知のような有様になり、何十万両か何百万両か知らぬ貸付金がすべてパーになって没落した。盛時を偲ばせるものに「紀州の殿さま お国入り・・・」で始まる唄が残っていて、にわか雨に逢った殿さまの御一行が雨宿りに立ち寄った折、「冷や飯にては候えど・・」とこれで宜しければ すぐにでもご用意致します、と言ったとかの物語が縷縷として述べられている。


 この「冷や飯でも・・」が聞かせ所で、暖かいご飯なら、炊けばいくらでも用意できる。冷や飯が常時それほどあったと言いたいのだ。また「いろは四十八蔵」があったとも言われ、今もその二つ、三つが小学校から一寸離れた所に残っている。想像を膨らませば、これらの蔵のあたりまでが屋敷の内だったとも思える訳で、となると小学校のある向日出町(ムカイデチョウと読む。今は町名が変えられている)一帯がすべて食家の屋敷だったのではと話が大きくなる。お粗末様でした。


食家(食野家)の邸宅跡に建つ石碑
 道明 食家 小学校



食家の敷地に小学校が出来た(白い部分が屋敷)
道明 食家



泉佐野の和菓子店「むか新」では「食野長者」という煎餅を売っている。繁栄の象徴である千石船の型押しがある。
道明 食家




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投稿ありがとうございました
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思い出の山「白神山地」 ~佐藤由弘~

 ここは、白神岳(1235m)山頂。四方はうっそうとしたブナの森である。白神山地は1993年に日本での世界遺産第1号として登録された。世界自然遺産に登録されるような山地とはどのようなものか関心があった。また近くの十二湖にも興味があった。

2001年8月8日5:30、天気は晴れ、海抜0mの麓の小屋を出発して山頂に10:30に到着。灌木と草藪の高原に避難小屋をはさんで南端に山頂、北にトイレ小屋。どちらへも100mくらいか。小屋に荷物を置き、山頂に5時間も居座っている。日本海、岩木山、八甲田山の眺めが素晴らしい。夕方まで30数人の登山客が登ってきた。日帰りの人が多かった。

その中で3組のパーティーが印象に残っている。一組は定期的に登って環境調査をしている地元の3人。「水場に煮沸して飲むことと書いてあったが」とたずねると、「今は大丈夫。トイレができたから」と。以前は、水が汚染されていたが新しいトイレができて汚物はヘリで運んでいるとのこと。

その水場の薮から若者が一人、大きなザックを背負って現れた。東側の西目屋村から入山して1週間かけていくつもの山を越えてきた沢専門のツワモノだった。もう一組は南斜面の3人。2時間前から見え隠れしていたが山頂直下の大薮にてこずっているようだ。調査の人たちがザイルを持って下りて行った。小学3年生の女の子を連れての夫婦だった。秋田県側から沢を登ってきたという。白神山地の核心エリアには道はない。入山にも許可が必要である。
 みなさんのこの山への熱意に感服である。翌日、土砂降りの雨の中、6時間かけて尾根を縦走し、十二湖に下りた。ブナの大きさと青湖の青さが眼に残っている。

山頂にて
白神山地



渓流
白神



神秘的なブルーの青湖
白神 





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投稿ありがとうございました
■思い出の山 ~投稿 MTさん~

氷ノ山 山小屋滞在

 20代には日本アルプスなどへ登山やスキーに出かけた懐かしい思い出もあります。しかし、今の「わたしの一名山」は退職後スタートした氷ノ山の山小屋滞在です。

ことは学友T君の誘いで始まりました。彼は大学山岳部OBで今はその山岳会会員です。当時氷ノ山千本杉にあるこの神大ヒュッテの管理をしていました。そんな関係もあって。年2~3回同行、これまで約10年間で計20回以上になり今に至っている。一緒するメンバーは常連5名ですが、ほかにその友人や家族が加わることもある。山小屋滞在時期は残雪の頃(3~4月)、夏の千島タケノコ採り(6月初旬)、避暑(7~8月)、紅葉の秋(10~11月)などです。通常3~4泊し、自炊、暖は薪ストーブ、照明はランプとローソク、風呂なしの非日常生活です。登山口駐車場(標高1,100m)までは車で、そこから個人装備に加え食材、燃料、アルコール飲料などを、メンバーの体力に応じ12~25Kgに分けて、ヒュッテ(標高1,350m)までボッカする。

小屋での過ごし方は基本自由。楽しみの一つは食事で、最大の贅沢は高級牛肉ブロックの炭火焼きが恒例です。それ以外の全食は京のおばんざいを自称するNさんがもっぱら調理。事前に作った全日程のメニューメモをもとに腕を振るってくれる。ドリンク類は3~4ダースの缶ビールのほかたっぷりの各種アルコール類で酒池肉林に?。水は徒歩10分ほどにある清流からひいた豊富な蛇口の流水が利用できる。ただし、残雪シーズンはパイプ内が氷結するため、小屋のまわりの雪を融かすか、水源まで20Lのポリタンクでのボッカが必要となる。食事以外の時間はもっぱら小屋にいて昼寝などでくつろぐほか、天気がよければ頂上(1,510m)まで散策、360度の眺望を楽しんだり、鉢伏山までのトレッキングや雪のシーズンには頂上からの山スキーもできる。晴天の夜には満点の星空が満喫できるのも都会ではできない経験である。


また、何度もでかけているといろんな出来事に遭遇する。ある年の秋、初冠雪で一夜にして銀世界に。下に駐車してある車が積雪で下山できなくなるのを恐れ、急遽、小屋を出発、安全な場所へ移動を与儀なくされた。またある下山の日、車で山道を下る途中、登ってくる3台の消防車に遭遇、さらにヘリまで出動した。なんと原因は引き払ったヒュッテから煙がでていると登山者からの通報によるもので、原因は薪ストーブの残り火の煙が煙突から見えたからでした。これは反省材料となりました。


また、ある早春の山行きで、例年にない積雪のため、いつもより下方のスキー場に駐車し、まだ営業中のリフトを乗り継ぎ、アイゼンを装着、腰近くの新雪斜面をラッセルしつつ上をめざしたのですが、予想外に歩行困難で時間を要し、天候も下り坂、ヒュッテへの到着が夜になと予想を、やむなく勇気あるへ撤退となっためこともある。この初日での下山は、高速道路の通行不能もあり、夜中の帰宅で家人を驚かせた。こんな山小屋滞在も、メンバーの大半が70台後半となり、体力の低下は否めず、雪シーズンは割愛、当面80歳までの安全登山をめざしている。


小屋の内部
南さん 山小屋にて


残雪のラッセル
南さん


小屋の外観(早春)
南さん 小屋外観

 





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小学生時代の思い出    作:DH
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(52) K君の事

 学校の机は一人一人別個ではなく、一つの机に二つの腰掛のついたものだった。私の右隣がK君だった。書くのは勿論、鉛筆である。鉛筆は力が足りないと字が薄くなって読めないし、力が強過ぎると 字の部分が溝になって裏まで通ってしまう。それを防ぐためにノートの下に「下敷き」という薄いセルロイドの板を挟むのが普通だった。K君は「下敷き」を使わない。鉛筆も芯を殆ど削らず、かなり太いままで力を入れて書くものだから ノートの裏側は凸凹である。(こいつは一寸変わった奴ちゃな)と思い、余計なお世話かと思いつつも「お前 なんで下敷き使えへんのや」と言ってみたが 彼は知らんぷりである。


 そのK君が二年生の時には居なかった。後で聞いた話では彼の家はお医者さんで、お父さんがK君の将来のためにはレヴェルの低い田舎の学校より、都会の学校の方がいくらかでも良かろうと転校させたとの事だった。これで彼との縁も切れたかに見えたが、どっこいそうはならなかった。数十年の後、私の息子と彼の息子が高校の同級生で、しかも親友となった。同じ町に住んでいるのだからこうなっても別段、不思議でも何でもない。更に更に、彼は親の後を継いで個人経営の病院の院長になっていたが、その一部のホームが私の母の終焉の場になった。人間と人間の関係は何処でどうなるやら、ほんとに ややこしいものである。



道名教室  






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●9月例会 ご案内 
 
イラスト 梅本三郎

 四度目の二十歳 出たきり老人 今日は西
         (仁木悦子 古いなあ~)

㊈月例会 イラスト


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くちまめさん 9月例会案内 ~8月20日UP~
 ~日程訂正しました。お間違いなきよう~

             
9月は暑いでしょうから 先ずは軽いウオークから始めましょう、「お好み散歩道」の<7>コースです。

9月13日(木)魚崎から六甲アイランドへ  5.5㎞
集 合:阪神魚崎駅 10:00   
コース:駅~酒蔵見学~南魚崎駅(六甲ライナー乗車)アイランド北口駅~小磯記念美術館~サンセット橋~神戸国際大~サンライズ橋~アイランドセンター駅着(弁当持参要)

⁂次回は10月11日予定してます


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魚匠「銀平」でランチ ~担当 辻さん~
 
今年は少し予算をアップ ”さかな”を食べに行きましょう

■9月20日(木)
■集合・・・11時15分
 近鉄大阪難波駅 東改札口(地下鉄御堂筋線側)
■食事処・・「銀平」道頓堀店 06-6211-9825
    ミニ会席料理 11:30~13:00ごろまで。
    和歌山直送 とれたての魚が食べれます。
■費用・・・2160円 (税込み)飲み物は各自注文
■申込み・・9月10日までに梅本さんへメールで申し込んで下さい。

■店の案内はこちら
銀平 道頓堀店 案内
https://tabelog.com/osaka/A2701/A270202/27001291/





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小学生時代の思い出    作:DH
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(51) 小学校一年生

 いよいよ小学生だ。新しい制帽に新調の制服、ランドセル。何もかも新らしずくめの文字通りピッカピカの一年生の誕生である。年は数えで八つ、満では六歳だが4月生まれだからすぐ7歳になる。あの頃は年齢はすべて数えで、満は滅多に使わなかった。そうそう「胸に五つの金ボタン」を忘れるところだった。それに校章は五弁の桜の中に佐の字という、ありふれたデザインだった。さて靴は・・・入学式は多分、革靴だったろうと思うが。革靴は専ら余所行きで、履くのは年に精々数回ぐらい。平素は「アサヒ靴」というゴム底のズック靴だった。


 校長は藤田先生。小柄でおとなしそう。道ですれ違っても誰も校長先生とは気づくまい。教頭は八坂先生。こちらは背も高く恐そうな顔をしていた。担任は家次(やじ)先生。勿論女の先生だ。家次、家治(どちらも ヤジと読む)が わが町ではよくある苗字と知ったのはもう少し大きくなってからの事で、この時は耳からヤジと聞いてヤジさんキタさんしか連想できず、面白い苗字だなとおかしかった。

 
 入学に先立って担任の先生との「面談」があった。広い教室で先生とたった二人、対対での面談で何故あんな事をしたのか今もって良く分からない。何だかオジってしまいそうな場面だが、そんな事はなかったように思う。何でも動物の名前を知ってるだけ言ってみよ、との事でパっと閃いたのが干支(えと)で、あれなら動物がぞろぞろ出てくる。しかしそのままでは まずいだろうと子供心にも頭を働かせて まず鼠の後に猫、牛には馬、虎にはライオンと続けた。兎はペアになるものが思い当たらぬので兎だけ。竜は流石に出せない。蛇も蛇だけ。馬は牛の時に使ったからパス。羊に山羊・・の辺りでもう宜しいという事になったが・・。あれは一体何のためだったのだろう。