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犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
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(80)きよっさん(清さん)

 きよっさんは僕らの遊び仲間というより、そのリーダーである。何故リーダーかって。彼が一枚加わると電車ごっこにしろ、B玉にしろ、何か一味変って斬新で魅力的なものになる。その上一つの遊びが終わると次はこれ、次はそれと次の遊びを言い出して一同それに従って飽きる事がない。きよっさん、本名は小川清。背ほ小柄で頭でっかち。おまけに鼻の頭が赤い。実際には赤いわけではないが、何となくそんな感じで、イメージとしては白雪姫に出てくる小人がそれに近い。要するに風采の上がらないチビ助なのに、もっと体の大きい連中まで嬉々として後について行くのは彼にそうさせる何か持って生まれたものがあったのだろう。

彼とは学年こそ同じだがクラスは違うし、家もそう近くでもなく、どう考えても遊び仲間になるようなつながりもないのに何故そうなってしまったのか、不思議と言えば不思議である。一度彼の家を訪ねた事がある。入口から裏まで土間が突き抜けていて右側の壁との間に二間(ふたま)ほど。左の中ほどに竈とそれだけの家で、母一人、子一人の母子家庭だった。彼との仲も二、三年でいつとなく疎遠になり、卒業後は全く音信不通である。ただずっと後に駅のホームで彼らしい姿を見かけたが 声を掛ける事もなく そのまま別れてしまった。
 その後、私のまわりの友人、知人を見るに何故か「清」という名の人はどうも父親との縁が薄いように思えてならない。ケースとしては数人に過ぎないから一般論にはできないが、知っている限りでは100%だからすごい。余計なお世話だし、根拠も薄弱だが「清」という名は敬遠された方が良いように思う。


ついでと言えばご本人に申し訳ないが、もう一人、小川君が居た。丸顔に眼鏡で「坊や」と言う綽名がぴったりだった。彼もクラスが違ったので付き合いもない。こちらも母子家庭だったが彼のお母さんは女の眼医者だったのできっと裕福だったろうと思う。折から小学生の間にトラホーム(トラコーマ)が流行って私もお世話になった。治療と言ってもフラスコにはいったピンクの水で眼を洗うだけの事だった。

 
(81)へる(蛭の方言)
 前に(76)へし(菱の方言)を書いた。どうやらこの辺の方言では「ひ」が「へ」になると言うよりイ段がエ段になるようだ。たとえば、蚯蚓(みみず)を「めめず」と言うが如しである。それはさておき、蛭って嫌な虫だ。形もサイズも蚯蚓と似たり寄ったりで、片や水の中、片や土の中というだけの違いに過ぎない。何かの折に田植の手伝いで素足のまま田圃にはいったのが間違いの元で、忽ち蛭に吸い付かれてしまった。

最初は気付かなかったが、何だか足首の辺がおかしい感じがするので触ってみると蛭だった。早速引きちぎったが、胴は千切れても口はしっかり吸いついたままで これを取るまで出血が止まらない。全く始末の悪い虫だ。まわりを見るとプロの百姓はみんな手甲脚絆で、これでは流石の蛭も、手の、いや口の出しようもない。最初に一寸注意してくれれば良かったのにと思うが、彼らにしてみればそんな事は常識以前の問題で注意するまでもない事だったのだろう。


蛭にもサイズがあって巨大型になると大人の親指よりも太い。一度そんなのが池の底をウネウネと這っているのを見た事がある。背筋がゾッとした。もう絶対池では泳ぐまいと思った。そうでなくとも池には藻もあって危ないから泳ぐなとは聞かされてはいたのだが。耳からはいるだけでは馬の耳に念仏でも こんなのを見せられると もう泳げと言われても泳ぐ気になれない。


それは水中。これを陸上で見たらどうだろう。四国遍路で阿波の焼山寺行く途中の山道で出くわしたのは山蛭だろうか。それとも蚯蚓の化け物だろうか。蚯蚓なら何も恐れる事はないが これが山蛭というもので、もしこんな奴に吸い付かれたらなんどと思うと、考えるだけでも背筋が寒くなる。とにかく、あんなブヨブヨとしたものは性に合わない。


蛭にご用心
道明 99ひる・田植え 





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小学生時代の思い出    作:DH
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(79)上善寺

 わが家から徒歩5分圏内にお寺が6ケ寺もある。その中4ケ寺は、まわりを石垣と白塀で囲い、頑丈な門は一年中殆ど開けられる事もなく まるで「寄るな寄るな、どいちょれ どいちょれ」と言わんばかりに傲然と構えている。「衆生済度」を説きながら、この姿は一体何だと、寺,僧にたいする私の不快感の源である。確かに石山本願寺のように寺が城郭である事が必要とされた時代もあった。しかし当時からして四百年。現代、その閉鎖的な姿はアナクロ以外の何物でもない。これと正反対が神社である。こちらは鳥居こそあれ、一年365日、誰でも何時でも中に入れる。なにがオープンと言ってこれ程オープンな建物は他にあるまい。


わが家から東に半町の上善寺は、東と南側こそ土塀(白塀ではない)だが、北は紀州街道に面した商店街で、その西隅が脇門であり、西側の正門と共に昼間はいつも開いていて誰でも中に入る事ができた。正門から入ると真正面が本堂で、そこまで丁度お寺を中央で真っ二つに分けるように、まっすぐな石畳の道が地面からかなりの高さで通っていた。脇門からの石畳はこれより一段低く、斜めにこの石畳にぶっかる。そのあたりが三人組の遊び場だった。本堂の南側、ちょっと奥まった所に小さいお堂があり、中には子供の背丈より高い台の上に何仏とも知らぬ仏様の座像があった。仏像の頭の上はすぐ天井であり、また、台とお堂の壁の間は大人一人がやっと通れるだけの幅という狭さで壁には窓一つない。明かりと言えば入口から射す光だけで堂内は常に薄暗く、仏像の裏あたりは殆ど闇に近い。子供たちにはこの暗い事自体が半分怖さ交りの魅力で何はなくともお堂の中をうろつき廻っては満足していた。


更にその南側は鐘楼である。或る日何人かのガキンチョがここに集まって鐘を見上げていた。鐘というものは見ていると撞きたくなるのが人情らしい。「いっぺん鐘ついて見たいナ」「撞いたら おこられるど」「そやけど撞いてみたい」「撞いてすぐ逃げたらどやろ」「やってみよか」と衆議一決。昼の日中にゴーンと一発。後は一目散。暫くして後ろの方から「こらーっ。鐘ついたのは どいつじゃーっ」という声が聞こえたがその時分には 一同知らぬ顔の安全圏である。何かと楽しい思い出の残る上善寺だった。

上善寺
上善寺 



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 ●天王寺七坂めぐりと一献

 忘年会のAプランを日曜日に実施しました。千日前通りに面した「真言坂」をトップに「源聖寺坂」「口縄坂」「愛染坂」「清水坂」「天神坂」「逢坂」を上がったり下がったりして巡ります。休日とあって観光客もそこそこあり、団体で廻ってる人もいました。大阪にもこんな坂の町があったのかと再認識できる場所です。一心寺で休憩して、一献は天王寺駅の北どなり、あの「裏難波」のごちゃごちゃ風景を引っ越したような場末感が味わえる路地へ。そのなかではややまともな?「わすれ茶屋」を選びました。基本、飲み物も料理もオール300円というメニューは「鳥貴族」と同じです。一階では、昔流行った炉端焼きを再現していました。
(12月2日)


源聖寺坂
七坂


口縄坂
七坂


清水坂
七坂


天神坂
七坂


「わすれ茶屋」は力丸水産の系列店
無題 







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小学生時代の思い出    作:DH
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(78)伊原君・覚野君

 伊原君の家はわが家から東へ三軒の三叉路を南へ三軒だから徒歩一分もかからない。それで同級生だからどうしても遊び仲間にならざるを得ない。所が困った事にどうしようもないキカン坊で、なんでもかんでも自分の思い通りにならないとすぐ癇癪を起すという本当に付き合いにくい子供だった。有難い事に、世の中はよく出来ていて、やはりすぐ近くに覚野君という母親べったりの甘えん坊の同級生が居て、これが伊原君の腰巾着さながら、何でも彼の意のままに唯々諾々と従うものだから、伊原君はすっかり親分になった気分でご機嫌だし、お蔭でこちらは伊原君に気兼ねせずに付き合う事ができた。その意味では覚野君さまさまだった。


三人寄ると決まって近くの上善寺の境内で野球ともサッカーともつかぬ遊びをやった。ホームベースとおぼしき所からキッカーがボールを蹴る。残る二人が守備で一人が野手、一人がファーストで、セーフでもアウトでも選手が交代する。何しろ三人しか居ないのだから、こうしないと順番が廻って来ない。
 伊原君については嫌な思い出がある。いつもの仲間で近くの池へ釣りに行った。釣りと言っても、まともなそれではなく、その辺に落ちていそうな細い竹の先に普通の糸で釣針を縛り付けただけのもので、浮子もなければ餌も附けなかった。それを伊原君が闇雲に振り廻すものだから一緒に居た僕の耳に針が引っ掛かった。痛いったらありゃしない。それに針の先は鉤になっているから簡単には外れない。あの時は本当に往生した。


覚野君もちょっとまともでない所があって、我々みたいな牌を見た事もない子供に急に麻雀をしようと言いだしてみたり、かと思うと突然「オタマジャクシは蛙の子 それが何より証拠には やがて手も出る足も出る・・」と歌いだして、ジャズなんか聞いた事もない他の二人は呆気にとられてポカンとするだけという事もあった。
 伊原君の家は「木村家」というパン屋で、それはいいが、この店のショウウインドウはいつも湯気で曇っていて中が見えなかった。子供心にもこれではお客さんも買いにくいだろうと思っていたが、果たせるかな、僕たちが中学生の頃、夜逃げして居なくなってしまった。

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● くちまめ例会 ご案内

12月13日(木)

淀川三川合流地点から宇治川上流に

向かって距離決めずに歩きましょう。

何日かかる・源流まで行けたら凄い!

集 合:京阪電車八幡 9:00

⁂昼食持参の事

⁂新年1月10日を予定してます  ~藤家~

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小学生時代の思い出    作:DH
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(77)教育勅語

 校庭の一画に「奉安殿」と称する小さい建物があった。簡単に言えば神社のミニチュアで、正方形の地所を玉垣で囲い、小さいながら「いぶき」も植わっていた。杉鉄砲の弾はこれの実である。また墨をする時この葉を入れると色が濃くなるとも言われていた。「奉安殿」の内部は見た事がないが、天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語が入っているとの事だった。


これが開かれるのは式日だけ。この日は教頭先生が「奉安殿」から教育勅語を取り出して塗の盆に載せ、目八分に捧げ持って校庭に整列している生徒一同の前を静々と歩いて壇上に立っている校長先生の前の台に置く。校長先生はやおら教育勅語を持ち上げ、一杯に開いて(巻物になっていた)からおもむろに、そしてできるだけ荘重に「朕(ちん)惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト広遠ニ・・・」と読み始めるのだが、この間生徒一同は直立不動、頭をやや前に倒した姿勢で拝聴しなければならない。さして長い時間ではないが、最後の「御名御璽」の言葉を聞くと頭を元に戻してホッとする。


その中ごろに「・・父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ・・・と道徳教育の根源のような立派な言葉がある。しかし、これは山岡鉄舟の道場に掲げられていた文言をタネ本にしたものだとの説もあるやに聞いている。
 ともあれ、教育勅語は私にとっては大きなメリットがあった。「お名前は?」「どんな字ですか?」など日常よくある事だが道明はまあよい。問題は肇で、戦前なら勅語の「国ヲ肇ムル」の肇です、と言えば ああ分りましたと即座に通じた。戦後はそうはいかない。ハナ肇で通じた時期もあったが、これも大分遠くなってきた。拝啓の啓の字の上半分と筆の下半分では分かりにくくて正確に通じたかどうかも疑わしい。事実、道明筆様と記された書状が届いた事もある。ああ「教育勅語」時代が懐かしい。


教育勅語 
教育勅語



奉安殿 左の社ふうの建物
教育浴後 






 

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(76)へっつい(竃)さん、ご飯炊き、薪。

 へっついさん、竈(かまど)の事である。昔の絵では随分背が高く、薪は直接地面の上で焚かれているように書かれて居り、あれでは火とお釜の間が遠くなって効率も悪いし、炊きにくかったろうと思う。わが家の竈は下が薪の置き場になっていて薪の炎が直接お釜の底に当たる程だった。焚き口が二つあって、どちらを使ってもいいようなものだが、何故かご飯を炊くのは右と決まってた。竈の奥からの煙突は上がT字型になっていて雨が煙突から竈に入らないようになっていた。


燃料の薪は一寸田舎へ出れば農家の壁際に殆ど軒の高さまで積み上げられている、あの薪である。買った薪はさほど太くはないものの長さの揃った丸太で、これを小さく割るのはこちらの仕事になる。かなり太い丸太を輪切りにしたものが台で、その上に買った細い丸太を立て「よき」という小さい斧を木の真ん中目掛けて振り下ろす。うまく軸に当たるとスパーンと小気味よく割れるが、一寸でも軸から外れると木に食い込むだけで割れないばかりか、食い込んだ「よき」を抜くのにもかなり力がいる。大体 一本の木を4から6本に、時に太いものは8本に割っていた。本来は父の仕事だが、私も少し大きくなってからは手伝うようになった。最初の中はなかなか軸に当たらず、手こずったが何でも慣れでやっている中にだんだんうまくなった。


薪に火をつけるには鉋屑があれば最適だが、そういつもあるものではないので、結局新聞紙のお世話になる。ちょっとでも火がつけば今度は火吹き竹の番で、ふうふう吹いていれば、その中に火が広がる。薪の2,3本も燃え上がれば後はご飯が炊けるのを待つばかりで、火守りの仕事は一寸一服だ。ご飯の方は「始めチョロチョロ 中パッパ 赤子泣くとも蓋取るな」とご承知の通り。火守りの辛い事と言えば薪の中に生乾きの木が混じっていると、それが燻り出して竈の外まで煙の出る事があり、そうなれば煙に噎せて咳も出れば涙も出る、。もう一つ怖いのは風の強い日。風は気まぐれで時に煙突から竈へ吹き込む事がある。大変だ。思いもよらぬ時に竈から火が吹きだす。ぼやぼやしていると眉毛ぐらいは焦がす事になりかねない。風の日はくれぐれも要注意である。


さあ、ご飯が吹きこぼれてきた。炊き上がったのだ。「火を引け、火を引け」と母から言われたが、ここの所の記憶がやや曖昧で、多分燃えている薪を引き出して水で消したのだろう。その薪をどうしたかが思い出せない。熾火は火消し壺に入れて「カラケシ」にする。
 炊き上がったご飯は大きな杓文字でかき混ぜながらお櫃に移す。ここで可なりの水分が飛ばされる。お櫃自身も若干ながら水分を吸収し、かくしてカーワリとしたおいしいご飯となる。今の炊飯器ではなかなかうまく行かないように思う。外食のご飯も殆どがベチャ飯だ。水分の多い方が嵩が増えるから当然と言えば当然だろうが。米食に関してはコンビニのおにぎりが最高で本当に良くできている。


お釜でご飯を炊くとどうしてもお焦げができる。どうするかと言うと、お釜に少しお湯を注ぎ、お焦げをコソげ落し、お茶碗に移して少し塩を加え「お焦げ粥」にする。香ばしくて一寸乙な味がする。お米は一粒と言えども無駄にしない「勿体ない」精神そのものだ。

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駄目男の蛇足・・お米は日本人の命の糧。ゆえに、他の食材とは違った、別格の扱い、呼ばれ方をしています。たとえば・・・

・米は洗うのではなく「研ぐ」
・炊けたご飯を混ぜるのではなく「切る」
・お茶碗に入れるのではなく「装う」

など。米を大切にすることや、美味しさの追求を重ねているうちに、こんな尊敬の念が含まれた言葉が自然に生まれたのでは、と思います。



かまど 


かまど 


子どものご飯炊き体験
かまど 




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小学生時代の思い出    作:DH
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(75) 活動写真

 活動写真がやがてキネマ(或はシネマ)から映画と呼ばれるようになるかなり以前の話で、勿論、無声、白黒でカツベン(活弁)が活躍した時代である。客席のまだ前に弁士の席があり、有名な「東山三十六峰 静かに眠る丑三つ時、突如として起こる剣戟の響き・・」とか「春、南風のローマンス・・」などと言った名調子が言い伝えられている。


わが町には「電気館」と「春日座」の二つの映画館があった。但し「春日座」の方はその名前からも察しられるように、映画もやるが旅回りの芝居も出すの二刀使いで どちらかというと後者の方が主だったかもしれない。活動を見ると言っても専らチャンバラで、ストーリーも分からぬまま、斬った方が良い方で、斬られた方が悪なのだ。当時の主役として羅門光三郎、綾小路弦三郎、木暮月之介などの名前が記憶に残っているが、いずれも恰好良く強そうな名前ではないか。見て帰って暫くの間は興奮覚めやらず、エイ、ヤッと一人で物差しを振り回しては人を斬ったつもりになって喜んでいた。嵐寛十郎、片岡知恵蔵、市川歌右衛門など一流俳優のものは、こんな田舎町にはやって来ない。


その中トーキーが始まった。映画の題はもとより、ストーリーも何も覚えていないが、主演女優の顔がアップになって「あたし 淋しいの」と言ったシーンだけが強烈に印象に残っている。殊に「あたし」という言葉が耳新しく、フーン、東京の女性は自分の事を「あたし」と言うんだと感心するとともに、何だか背筋がゾクッとしたものだ。


田中絹代と上原謙の「愛染かつら」が大ヒットしたのは何時頃の事だったろうか。これ亦、記憶にあるのは看護婦姿の田中絹代がプラットホームで、汽車で去って行く上原謙を見送って(謙の方は絹代が来ている事を知らなかったのではないか)「浩三様~」っと叫ぶラストシーンだけである。尤も「花も嵐も 踏み越えて・・」の歌の方はよく覚えている。
 「絹代の初恋」という映画のポスターがどういう訳かわが家の中の壁に貼られていた事があって「初恋」の意味が分らないから、折から家に来ていた派出婦さんに聞いたところ「その中 大きくなったら分かるわよ、ウフフフ」と笑われてしまった。失礼な奴だ。


返す返すも残念なのは、エノケンの映画を殆ど見ていない事で、見たのは「ちゃっきり金太」ぐらいだ。「西遊記」なんか見たかったナ~。エノケンは逸話の多い一種の天才で、例えば走っている自動車の左のドアから飛び出して自動車を追い越し、右のドアからはいったとか、走った勢いで垂直の壁を駆け上がったばかりか、そのまま向きを変えて地面と平行に何メーターか走ったとか。特に見たかったのは映画ではないが彼の演じる「瀕死の蠅」で勿論バレーの「瀕死の白鳥」をもじったものだが、蠅取り紙に捕まった蠅がじわりじわりと身動きならなくなってゆく所をバレーでやったとかで観客は抱腹絶倒で涙を流しながら、その天下一品の至芸に酔いしれたそうだ。見たかったナー。


映画「愛染かつら」の一部と主題歌「旅の夜風」昭和13年
https://www.youtube.com/watch?v=TOlgIIhMwYk


道明 映画


道明 映画 









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●12月例会(忘年会)ご案内
       
イラスト 梅本三郎

青春81きっぷ シリーズ ラスト
赤い糸 解けない 切れない ユルマない


12月イラスト 2018 


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忘年会のご案内
 今年も補助金つきの忘年会を二つ企画しました。日曜日に行いますので、ふだん、例会に出にくい人もぜひご参加下さい。

Aプラン■「天王寺七坂散歩と一献」
 寺町の七坂をぜんぶ歩きます。一心寺で休憩して天王寺界隈の酒場へ行く予定。徒歩3,5キロ、アップダウン100m 。先着3名まで。
□12月2日(日)
□午後2時30分 地下鉄谷町線 谷町九丁目駅 東梅田方面行きの改 札口集合 (雨天の場合、延期しますが、日程は未定です)

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Bプラン■道頓堀「千房」で昼忘年会
お好み焼き+αのメニューで忘年会。昼間に行います。参加人数の制限はありません。
□12月9日(日)
□午前11時30分 地下鉄御堂筋線 難波駅 南改札口(出口専用の改札です)

□両プラントも一人2000円の補助金を出します。オーバー分を個人負担して頂きます。どちらか一つを選んで申し込んで下さい。
□申込み締め切り 11月25日(日)
□当日、年会費千円を集金しますので、よろしくお願いします。

■企画は誰でもできます。案のある人はお知らせ下さい。

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■くちまめ例会
 12月13日の予定です。

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(74)スキヤキ

 竹の皮から連想されるもの・・・スキヤキというとまるで判じ物のようだが。母が「晩はスキヤキにしよか」と言うと喜び勇んで肉屋に走る。「ロース(?)の肉 百目。」(目は匁で3・75グラム)と言うと肉屋さんが竹の皮を拡げ(そーら竹の皮が出てきた)それに、おおよその肉を盛って秤に載せ、多少足したり減らしたりして丁度百目にし、最後に四角い脂身を添えて一丁上がり。竹の皮の端をピッと割いて作った紐で縛って「はい、お待ち遠さん」となる。


さてスキヤキ。世の中にこれ程ヤヤコシイ料理があるだろうか。ヤヤコシイというのは、料理の仕方も味付けも地方によっても違い、各家によってもやり方がいろいろあるという意味で、それぞれの家でその家のスキヤキをする分には何の問題もない。所が、赤の他人が五六人集まってスキヤキ鍋を囲む段になるとさあ大変。肉が先だ、野菜が先だ、いやまず下地だと収拾がつかない。結局、ご苦労でも誰かが鍋奉行になって仕切らないと前に進めない。


所で、肉以外の具も所により季節により様々あるとして、これだけは絶対欠かせないものとなると、まず葱、焼き豆腐に糸蒟蒻ぐらいだろうか?ほかには、玉葱,シイタケ、春菊、白菜などなどはその時任せという事にしておこう。
 ここに卓袱台なる「すぐれもの」が登場する。丸い板の裏に一対の二本脚が折り畳まれているだけの簡単なものだが、平素は部屋の隅にでも立て掛けて置けば場所を取らないし、望みの場所まで運ぶにしても転がしてゆけるから子供でもOKだ。場所が決まれば四つ脚を開いて食卓の出来上がり。おまけにテーブルの真ん中辺の四角い部分を外すとそこにカンテキがすっぽり納まるようになっている。こうして居間が食堂に早変わりし、狭い家を出来るだけ有効に活用する生活の知恵である。


スキヤキの中で何が一番好きと聞かれたら、躊躇なく「脂身」と答える。肉にはなかなか砂糖の味が浸み込まないが、脂身はすぐ甘くなり、それが口の中で溶けるおいしさ。最高である。しかし、これもたった一つしかないから余計おいしく思うのかも知れない。それよりも翌日の食べ残し(もしあれば)の方がもっとおいしい。こってりと味が着いている。スキヤキの最中はただもう食べる事に忙しくてゆっくり味の附くのを待っていない。勢い味の方は薄味となるが、一晩置いた後のじっくり浸み込んだ濃厚な味は、これこそ肉の最高の味になっている。


スキヤキ

スキヤキ








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(73) へし(菱の方言)の実

 この辺の池ならどこでも自生している水草の実である。秋も深まり実が生ってくると家庭の盥の五倍ぐらいはありそうな盥舟で菱取りに出かける人がいる。盥から身を乗り出し、菱草を手繰り寄せては葉の裏に生っている実をもいでまわる。いい加減たまったところで町へ持ってきて「へしー、へしーっ」と売りに廻る。それを二升とか三升とか買って 茹でて食べる。母が「今夜は夜なべにしょうか」と言えば夜食に菱をたべようという意味で、やったー、である。


へしは名の如く菱型で幅一寸あるかなしかの平べったい実で、両横には鋭い棘があって気を付けないと痛い目に合う。茹であがった「へし」を出刃でポンポンと輪切りにし、ミシンのドライバー(これが最適)かそれに似たようなものでほじくって食べる。実は純粋な澱粉で色は真っ白で、味もなんにもない。実の外側の薄皮に渋みがあり、その味が実にも微かについている。決しておいしい物ではない。しかし おいしくないから飽きがこず、一度食べ出したらなくなるまで止められない。冬の夜の大きな楽しみの一つだったが戦後は「へし売り」が来なくなった。「へし」を取って売るぐらいでは稼ぎにならないらしい。


もう一度食べたいものだと話していると、それを聞いた嫁がネットか何かで探して佐賀県から取り寄せてくれた。確かに菱には違いないのだが一寸イメージのものとは違って両横の随分大きなものだった。
 以上は「真べし」の事で、この他に「鬼べし」もある。こちらはサイズも一回り大きい上に左右表裏に4本の角(棘ではない)があって甚だ割りにくく且食べにくい。しかしこちらの殻だと思うが何かの薬になるらしく、漢方薬の店先に干してあるのを見たような覚えがある。


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●11月例会 ご案内 ~第二部~

くちまめ例会
京都大原野方面
□11月8日(木)
□阪急京都線 東向日駅集合 10時00分
 10:12分発 阪急バス乗車
□弁当不要 外食します。
 12月は13日(木)の予定

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●西除川歩行 第三区間 
北野田駅~滝谷駅 7,5キロ 平坦路
□11月15日(木) 雨天16日に延期
□集合・・・10時30分
 南海高野線 北野田駅改札口
 参考ダイヤ 難波10:02分発 橋本行き急行乗車
 10:22分 北野田駅着(380円)
□弁当要 コーヒータイムあり(お湯を持参下さい)
□コース・・・北野田駅~狭山池(昼食・T)~狭山池博物館見学~
 滝谷駅(博物館は無料です)
□第二区間参加の方は➁の地図を持参下さい。

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●西除川歩行 第四区間
滝谷駅~天野山金剛寺 9,0キロ 少し坂道あり
□11月29日(木) 雨天30日に延期
□集合・・・10時20分
 南海高野線 滝谷駅改札口
 参考ダイヤ 難波発9時49分 三日市町行区間急行乗車
 10時17分 滝谷駅着(途中乗り換えの必要ありません)490円
□弁当要 コーヒータイムはありません。
□コース・・・滝谷駅~寺ガ池公園(昼食・T)~荘園町~天野街道~金剛寺(T)拝観は希望者のみ~府営長野公園~天野山バス停~河内 長野駅(15時台のバスに乗る予定です)

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第二区間レポート (11月1日)

西除川に集う野鳥 カワセミもいました。
西除-2


旧西除川を埋め立てた跡に遊歩道を整備した
西除け¥2








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小学生時代の思い出    作:DH
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71) 床屋

 我が家の隣りのブロックにある「床源」さんが行きつけの床屋さんだった。床屋へ行くのは大嫌いだった。何しろ痛いのだ。床源さんが下手なのか、それともバリカンの切れが悪いのか、しょっちゅうピッピッと髪を引っ張られる。当時のバリカンは勿論手動式で、ぐっと握って髪を切り、緩めるとバネで元に戻る式のものだったが、それの何処が悪いのか兎に角痛くて嫌がるので、床屋へ行くたびに後で玩具を買って貰う事になった。全くどちらが高くついたか知れたものではない。


所でバリカンは英語かなと思って辞書を見るとフランスのメーカーの名だった。ホッチキスと同様である。こちらもメーカーの名前で品物の名はステイプラーである。この事を知らなかった日本人の留学生がホッチキスを買うべくホッチキス、ホッチキスといくら言っても通じなかったという笑い話だか苦労話だかがある。いやこれは余談でした。

戦前の床屋の店構えの例
道明 床屋

(72) 電話局・郵便局

 局番がある以上何処かに電話局があるはずだが、さて何処にあるのか何をしているのか現実に見る事はない。以下は局番もダイヤルも無かった時代の話。勿論、電話がある以上、番号はあった。我が家のそれは271番だった。そして我が家の西隣が一つの棟を真ん中で仕切って我が家側が電話局、向こう側が郵便局だった。


電話を掛けるには、受話器を取って出てきた交換嬢に話したい相手方の番号を言うと繋いでくれる。町外にも掛けられたのだろうが掛けた事も掛かってきた覚えもない。その電話局の前を通った時、偶々窓が開いていて中が見えた事があった。数名の交換嬢がコードのような物を持ってうろうろしていた。大きなボードのような物も見えたが、一体何をどうしているのやらさっぱり分からなかった。


さて郵便局。説明の要もないようだが、まだ貯金も扱っていたとだけ言っておこう。私の関係するのは貯金だけ。貯金を始めると通帳がもらえる。お金を持ってゆくと通帳に年月日と金額を書いて朱印を押してくれる。その朱印貰いたさに毎日一銭ずつ持って郵便局に日参した。仮に五銭持っていても一度に貯金せず、一銭ずつ五回に分けて貯金した。朱印も欲しかったが窓口が感じのいい青年で近所の子供たちの間でもなかなか人気者だった。というのも、子供らが「蛸の真似して!」とせがむと別に嫌がりもせずに口を尖らせて真似てくれる、その様が本当に蛸によく似ているので忽ち「蛸さん」の愛称で有名になった。なぜか西巌という名前まで知ってしまった。残念な事に戦争(日支事変)が始まると程なく召集令が来てその後は音信不通である。戦死などせずに無事に帰国して欲しいと願うのみだ。


手動交換式の電話局。戦後しばらくはこのシステムが続いた
道明 昔の電話局




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●マレー沖海戦の美談は報道されなかった?

 10月17日掲載の「(69)余談・・マレー沖海戦の知られざる美談」について、なぜ、当時の日本人が知らなかったのか、新聞を調べた限りでは、記事が見つからなかった。(調べたのは朝日新聞と各社の総合縮刷版だけ)。英国の戦艦を撃沈したのが12月10日、弔いの花束投下が18日なので、この日以後、年末までの記事を調べましたが、美談のニュースはなかった。しかし、12月26日の朝日新聞記事で、香港において英国の将官が降伏を申し出たので、日本軍関係者は彼を丁重に遇し、ペニンシュラホテルに宿泊させた。これはわが軍の武士道精神による処遇云々、という、海戦とは関係の無い事案での報道があります。


海戦の美談が無視されたのは、そもそも記事にするほどの「事件」ではないという記者の判断かも知れませんが、それより、新聞各社の当時の戦意高揚をあおる記事の羅列を見ると、敵国人に哀悼の意を表すようなヤワイ出来事を報じる雰囲気がなかったという印象です。よって「報道しない自由」を発揮した・・と書けば、これは現代のマスコミにもきっちり当てはまる。自社の思想に合わない事案は報道しない、ということです。


美談


当時は、軍事政権とマスコミは一心同体といってもよいくらいの身内意識があって、軍政に対する批判など一切しなかった。むしろ、マスコミが積極的に戦争を煽ったというのが正しい。この戦争礼賛の報道は各社の販売部数のアップにとても効果があったので、ブレーキがかからなくなってしまった。大げさな見出しは今のスポーツ新聞のセンスと同じです。大本営発表のデータがウソと分かっていても、知らん顔して記事にした。仮に、勇気を出して、正しい、客観的事実の報道をすれば「国賊」呼ばわりされ、何より読者の契約打ち切り=部数減が怖くてできない。


下の「軍用機献納資金」 記事は、朝日新聞社の発案で、軍用機(戦闘機や爆撃機)の量産をバックアップするために、新聞社が国民から寄付金を募った、という話。日米開戦の4年前からスタートさせたのだから、ハンパなゴマスリではありません。現代に置き換えたら、自衛隊が最新型の戦闘機やオスプレイをたくさん調達できるように、新聞社が国民から寄付を募って政府に寄付するという話になります。信じられないでしょうが、ホントにあった。この記事では,最高一万円から、下は二十銭までの寄付者の名前が掲載されている。こんな新聞社が当時の軍事政権を批判する資格があるのか、笑ってしまいます。


美談




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小学生時代の思い出    作:DH
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(70) 風呂屋

 風呂屋。銭湯ではない。あれは東京語。我が家から半町ほど西に、みんなが「ちょうざ」と言っている風呂屋があった。どんな意味か、どんな字を書くのか未だに分からない。小さい時「うかじのばあ」(よく遊びに行った家のお婆さん。多分その家の屋号が宇賀治だったのだろう)に連れられてこの風呂屋へ行った。勿論、女湯の方だ。これは子供にとっては災難だった。なにしろ湯船に入ったら百まで数えろと言う。年寄りはなかなか温まらないが、子供は違うという事が分らないらしい。五十も数えればこちらはもう充分茹だっているのに、まだまだと言う。七十、八十となってくるともう地獄の責め苦である。それでも出させてくれない。やっと上がってからも耳の後ろやら足の指の間まで、それこそ徹底的に洗われる。もう勘弁だ。


もう少し大きくなると、一人で今度は男湯の方に行く。何をするかと言うと、まず眼を閉じ息を詰めてズブズブと湯船の底まで沈み、しゃがみこむ。息がつづかなくなってプアーっと湯から出ると今度は湯船の縁の腰掛に坐って何をするでもなく、ぼやーっとして過ごす。それで終り。まず洗わない。これで家を出てから帰るまでが約30分。いつもこんな具合だった。


この風呂屋は割と大きな風呂屋で、真四角な浴室の真ん中に真四角な湯船があり、浴室の床も浴槽の縁もすべて花崗岩作りというと、すごく豪華に聞こえるが、惜しい事に湯が汚なく、白く濁っていて底が見えない。理由もはっきりしていて、いつも湯船の七、八割しか湯を入れないからだ。しかし、風呂と言えばそこしか知らないから別段汚いとも思わず、こんなものだと思っていた。大人たちも文句も言わずに入っていたから、恐らくほかの風呂屋も似たり寄ったりだったのかも知れない。風呂代は小人で2銭。餡パンも2銭だったからよく覚えている。


風呂屋のイメージ
道明 風呂屋 






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●11月例会 ご案内
 
イラスト 梅本三郎

10月中旬 九州 九重の法華院温泉にて
 「何と読む モミジの天ぷらか 紅葉か」

イラスト11月2018  



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西除川ウオーキング 第2回  (担当 小西)

■11月1日(木) 雨天の場合2日(金)
■集合・・・10時40分 近鉄河内松原駅 改札口 
 参考ダイヤ・・阿倍野橋発10時24分
                    河内松原着10時33分
                    橿原神宮行準急 料金260円
 駅から10時48分発バス「松原市民運動場前」下車
■コース・・・市民運動場(T)~法雲寺~大池公園(昼食・T)
       ~北野田駅 約7キロ 平坦路 弁当持参要

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第1回コースから、南さんのスケッチ<北新町大池公園風景>
南さんスケッチ 

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以後の予定
第3回 11月15日(木) 雨天16日(金)7,5km
第4回 11月29日(木) 雨天30日(金)9,0km
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くちまめ例会
■11月8日(木)予定
 プランは追ってお知らせします。


     


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(69)余談・・マレー沖海戦の知られざる美談

 太平洋戦争の緒戦にマレー沖海戦がありました。海戦と言っても、イギリスの東洋艦隊の主力である戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と「レパルス」の二隻を日本の航空隊が襲撃して撃沈したもので、実際には空対海の戦闘でした。「レパルス」は老朽艦でしたが「プリンス・オブ・ウエールズ」は最新鋭艦で、世界一の海軍国と自負しているイギリスが「不沈戦艦」と豪語していたものだけに、そのショックは大きかった筈です。


さて、沈められた2艦の生き残った乗組員がボートで救助を待っている所へまたもや日本の航空機がやって来たので、てっきり生き残りを目当ての機銃掃射のためと慌てふためいていた所、沈められた両艦の跡へ花束を投げて帰りました。この事が英米人の間に「日本に武士道精神あり」と称揚され、美談として語り継がれて、今でも大抵の英米人なら知っている話だと、在米久しい私の長男が会社の仲間から聞かされ「お前知ってるか?」と問われて「知らないよ」と答えたら「そんな事信じられない」と言われたと。以上は久しぶりに日本に立ち寄った長男から聞かされた、誠に結構な話ではあるのですが、こんな結構な話を知らぬは日本人ばかりなり、では何とも癪な話なので、一つ「快道・・」ででも紹介して戴ければと思った次第です。

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 駄目男がこの美談の真偽を調べたところ、長男さんの話とは小さな差異はありますが、真実でした。「マレー沖海戦」でぐぐって見ると、たくさんの情報が出てきます。しかし、DHさんのように、ほとんどの日本人は知らず、むしろ、敵方だった英米人のほうがよく知っている。その理由は恐らく、当時のマスコミの判断のせいではと思いますが、後日、裏付けの調査をしてみます。まず、この花束投下事件のあらましを井上和彦氏の文で紹介します。(青色文字)


英艦隊壊滅後にみせた日本海軍航空隊の“武士道” 
  《私は独(ひと)りであることに感謝した。戦争の全期間を通じて、これほどの強い衝撃を受けたことはなかった》 英国のチャーチル元首相は戦後、著書『第二次世界大戦回顧録』で、マレー沖海戦の大敗北をこう回想している。

 1941年12月10日、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は、マレー半島東岸のクワンタン沖で、日本海軍航空隊75機によって撃沈された。英東洋艦隊は開戦3日目で壊滅したのである。この海戦に世界中が震撼(しんかん)したのは、世界で初めて航空機が高速航行中の戦艦を沈めたからだった。米国は3日前に自ら体験した“真珠湾の悪夢”が、単なる偶然や奇跡でないことを思い知らされた。


マレー沖海戦は、日本海軍のパーフェクト・ゲームだった
 参加した一式陸上攻撃機および九六式陸上攻撃機合わせて75機が、英軍の新型対空火器「ポムポム砲」の弾幕をかいくぐり、高速で回避運動中の戦艦に魚雷49発を放って20発を命中させた。命中率は40・8%だった。高度な誘導武器や火器管制システムもない時代に、海面すれすれの低空で肉薄し、かくも高い命中率を記録したというのは、まさに“神業”であり、厳しい訓練のたまものといえよう。これだけの大戦果にもかかわらず、何と日本海軍航空隊の損害はわずかに3機(戦死者21人)でしかなかったのだ。


この一戦には知られざる美談がある。
 日本海軍航空隊の猛攻を受け、洋上のたいまつと化した「レパルス」に、駆逐艦「バンパイア」と「エレクトラ」が生存者救出のために急行した。他国軍ならば、この駆逐艦も沈めるが、日本軍はそうではなかった。日本軍機は、英駆逐艦に以下のように打電した。
 「ワレの任務は完了せり。救助活動を続行されたし」
次なる標的となった「プリンス・オブ・ウェールズ」が炎に包まれ、駆逐艦「エクスプレス」が生存者救助のため横付けしたときも、日本軍機は攻撃を止めて、その救助活動を助けたのだった。日本軍人が苛烈な戦場で見せた“武士道”だった。この正々堂々たる姿勢は、英海軍将兵を感動させた。


海戦後、1機の日本軍機が現場海域に飛来し、海上に2つの花束を投下して飛び去った。散華した僚機3機の乗員と、最期まで勇敢に戦った英海軍将兵と戦艦2隻に手向けられたものだった。日本海軍航空部隊は、卓越した技量だけでなく、戦場での紳士度も世界一だったのである。
(別の情報によれば、花束投下は海戦8日後の12月18日、投下したのは
海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐)

引用元
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160622/dms1606221140006-n1.htm  (ライター 井上和彦)

海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐のこと
https://ameblo.jp/zero21nk/entry-11726974646.html


戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」
マレー 


沈みゆくウエールズから救助の駆逐艦エクスプレスに乗り移る乗員。この戦いで英軍は800余名の戦死者を出した。同乗の提督と艦長は救助可能だったが拒否して艦とともに沈んだ。
マレー沖海戦





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小学生時代の思い出    作:DH
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(67)泉州銘菓「村雨餅」「時雨餅」「村時雨」

 いろいろ名が出たがみんな同じものである。店によって名が違うだけの事で或は商標権の絡みかも知れない。銘菓であるかは兎も角、珍しい、それも他に類例のない珍菓と言っても良いと思う。我が家では簡単に「村雨」と言っていたので、以下そういう事にする。製法は想像だが、小豆と糯米の粗い目の粉に砂糖を加えて、大きな蒸籠で蒸しただけのものと思う。こうして 出来上がった御菓子は小豆色のそぼろ状で固めたりしていないから、やわらかく、壊れやすい。


これを手頃な大きさに(丁度 虎屋の羊羹を分厚くした程度)切って、底と上にお菓子と同じ大きさの経木を置き、竹の皮で包み、同じく竹の皮の紐で二三か所を縛って出来上がりである。食べる時は、包を開いた後、上の経木を刃物代わりにして好みの厚さに切って口にする。甘さも控えめでなかなか上品な味だ。ただ生菓子だから余り日持ちがしない。精々二三日が限度である。竹の皮はなかなか風情があるが、今は手に入らないから竹の皮の模様を印刷したビニール紙かなんかでパックされている。味気ない事だ。


和菓子の基本は餡と餅である。餅に餡を塗っただけのものが「赤福」であり、餡を餅で包んだものが「羽二重餅」である。饅頭の皮も餅の一種と見れば、和菓子の九割以上はこれらのヴァリエイションに過ぎない。最初に珍しい菓子と言ったのはこの点で「村雨」は小豆を原料にしているが餡ではない。糯米を使ってはいるが、餅でもない。「村雨」の「村雨」たる所以で、是非、皆様にもお試しをと言いたい所だが、どうも高島屋でも売ってそうもない。かと言って、これだけのためにわざわざ泉州くんだりまでご足労願う訳にも行かず、誠に残念だが、まあ幻の珍菓があるとだけご承知いただければ有難い。


道明 


(68)最中屋(もなかや)

 この記憶はかなりあやふやだが、我が家の西隣の家の角を南へ曲がって半町ぐらいの突き当りにその店はあった。重い障子戸を開けて「ごめん」と入って行くと土間を隔てて向かいの部屋に坐っていたご主人が「よう おこし。お幾らにしまひょ」と、いきなりこれだ。他の菓子を置いてる気配もないので余計な事は聞かない。「30個」と、こちらも子供の使いでぶっきらぼう。「少々お待ちを」と早速作りにかかる。とにかく一種類しかないのだから、あれかこれかと聞く必要もない。左手に最中の皮を持ち、右手に持った箆でさっさっと餡を詰めては表の皮で蓋をしてゆく。30位はあっという間で「お待ち遠さま」と出来上がった最中を箱に詰めて渡してくれる。注文生産だ。


確かにこの時点では最中の皮はパリパリで、じなーっとしけてはいないが、さて食べる時にはどうだろうか。予め作られた最中だとどうしても皮がしけがちだ。しけていないという事がそれ程大事な事かどうか鈍感な私にはどちらでもいいように思えるが。しかし、パリパリの最中を評価する人が多いと見えて 皮と餡とを別にしてお客さんが好きな時に いつでもパリパリの最中が食べられるようにして売り出した近江八幡の「たねや」が大ブレイクで[高島屋]にまで進出するようになった。但しここの最中は丸くなくかなり細い長方形である。


最中の形なんかどうでもいいようなもので、別段気にする訳ではないが、そもそも「最中」は「最中の月」から来ている以上丸いのが原型である。最近はそんな小うるさい事は言わず四角い最中も多くなった。わが町 佐野の菓子屋「むか新」の最中「いろは蔵」も四角で、しかも真ん中に縦の割れ目が入っていて二つに割りやすい。割った半分が二口で食べられる割と小振りな最中だ。それに皮が薄いので、かなりしけている。これに比べると、私の好きな「百楽」は大きな正方形だが皮が厚い所為か出来合いでも しけた感じがない。たまには煎茶で最中もいいものだ。


道明 村雨







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小学生時代の思い出    作:DH
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(65)漬物(沢庵)

 漬物屋もあるにはあったが各家庭でも作っていた。我が家も沢庵は自作で、まず大量に買ってきた大根を軒に吊るして十数日陰干しする。いい加減水分が抜けてしわしわになってきた処で、やおら漬物樽を持ち出し、底に糠と塩をたっぷり敷く。菜っ葉を除いた大根をできるだけ隙間の出ないように首と根を交互に組み合わせて底一杯に並べる。これが一番底の段。次にそれらが見えなくなる程度に糠と塩で埋める。その上に二段目の大根をを下の段の大根とは直角になるように並べて又もや糠と塩。これの繰り返しで、全部漬け終ったところで蓋をして重石を置く。


この状態で放っておくと蓋の上にどんどん水が上がってくる。塩と重石でまだ大根に残っていた水分が出てきたものだ。この水を何回か捨てて殆ど水が出なくなれば一応の出来上がりである。但しこの段階ではまだ色も白く味も浅い。日と共にだんだん黄色くなり,やがて黄褐色へと変わり、色も味も濃くなってくる。大根そのものも小さく萎びてくる。そして、食べ終わるころにはまた新たに漬ける季節になっている。

 余談だが私どもの地方では沢庵とは言わず、「こーこ」または 「おこーこ」と言っている。極く希だが「親に孝行(こーこー)、親に孝行」と呼びながら沢庵を売り歩く人を見る事もある。
道明 たくあん


(66)なすび (=水茄子)

 昔からこの辺では「茄子」の事を「なすび」と言い慣わしている。「水なす」なんて聞いた事もなかった。それが いつのまにやら全国版の「泉州名産 水なす」と言われるようになってしまって、何だかその辺がむずむずするような、変な気がする。昔は余程の特産品でない限り流通する事が無かったから、茄子と言えば「なすび」しか知らず、茄子紺と言われるような綺麗な細長い「茄子」の実物は見た事も無く、絵で知るのみだった。その立派な「茄子」と比べると形はずんぐりむっくりで、お世辞にもいい形とは言い難いし 色も良くない 何の取柄もない「なすび」だが皮の薄いのが取柄で「浅漬け」にして食べると誠においしい。


専用の小振りの糠床に、夕方数個の「なすび」を放り込んでおき、翌朝取り出して刃物は使わず指で割いて食べる。この時は醤油ではなく「もろみ(醤油にする前の液状の味噌)」を使う。これまた甚だおいしい食べもので、これだけをおかずにして御飯をたべても、却って食がすすむ程の代物である。そんな訳で「なすび」と言えば浅漬け、浅漬けと言えば「なすび」だが、もう一つ「じゃこごうこ」という食べ方もある。これは「じゃこ」と称する地で獲れた小エビと「なすび」をかなり辛い目に味付けした煮物だが「じゃこ」がいい出汁になって、これまた一倍食のすすむおかずだ。一体に御飯のおかずには塩辛いものが適しているようで、昔は御飯と塩だけで3年過ごした剛の者も居たとか聞いた事もある。 

道明 なすび







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小学生時代の思い出    作:DH
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(63)腹立たしい思い出

 思い出と言っても必ずしも懐かしいもの、楽しいものばかりとは限らない。これはその腹立たしいものの一つ。何年生の時の事だったか、何とかの宮が来られるというので、その歓迎のためにみんな日の丸の小旗を持って道路の片側に並んでお迎えした。そこそこ待ち草臥れた頃、やっと宮様が見えたというので一同最敬礼の号令がかかった。頭を下げている我々の前を車が通ったような気配が感じられるまでにも可なりの時間があった。最敬礼が解けたのはそれから大分経ってからの事である。


結局、我々は長い時間を潰して頭を下げただけの事で宮様の来られる所も、また通り過ぎられた後も車の影も形も見ずじまいだった。いくら皇族だって、また、幾らこちらが子供だって、これは余りにも人を馬鹿にしている。あれから約80年も経ったいまだに覚えている位だから、あの時はよっぽど腹がたったのだろう。

 小学校時代の話はまだまだ続くが、この辺で一寸一服して目先を変え、当時の生活に話を変えてみたい。


(64) 井戸

 一日の生活は起床、洗顔から始まる。いまなら水道の栓を捻ってジャーだが昔はそうはいかない。まず井戸から水を汲み、一旦それをバケツに溜め、そこから柄杓で水を洗顔用の金盥に移す。これだけの事をしないと顔も洗えない。と、字で書くと大変煩わしいように思えるが、馴れてしまえばさしたる事でもない。


さて、井戸。勿論、釣瓶で水を汲みあげるのだが、その方法も時代と共にどんどん進歩する。最初は多分縄の先に釣瓶を縛り付けてドボンと放り込んだのだろう。次いでは竿の先に釣瓶を縛り付けたもの。千代女の「朝顔に釣瓶とられて貰い水」はこれである。その次は「撥釣瓶(はねつるべ)」。柱の上に横木を渡し、一方の端に重しを もう一方の端に釣瓶を付けたもので これだと余り力が要らずかなり楽になる。


我が家のそれは両端に釣瓶を付けたロープを滑車に掛けたもので、エレベーターのように一方が水に浸かっている時は 他方が上に上がっている式のもので、これも余り力が要らなかった。それに我が家の井戸は近辺では一番深い方で水の涸れた事がなかった。浅い井戸だと雨が降ると水が浸み込んで濁るが、深いからそれもなかった。更に地下水の温度は年中一定しているから夏は冷たく冬は暖かい。水道のように結氷する心配もないし、夏は一種の冷蔵庫となり よく西瓜を冷やしたものだ。この時は容器に入れて吊るさないと直接 水に漬けると味が薄くなる。


井戸にもメンテが必要で、年に一度「井戸替え」と言って 溜まっている水を掻き出し 井戸の底を掃除して新しい綺麗な水が流れるようにしていたが、水道の普及と共に「掻き出す」人足が絶滅職種となりメンテが出来なくなった為、今はモーターで洗濯用と表の植木鉢と撒き水にだけ使っている。


井戸と水道についてこんな話がある。都会の子供が田舎の従兄妹の家に遊びに行った。田舎の子が井戸から水を汲むのを見て、都会の子が街では栓を捻ればいくらでも水が出てくると一寸田舎を馬鹿にする。田舎の子は悔しがるが、その中、水道にはお金がかかると聞いて、なんだ ただじゃないんだと田舎の方がいいように思う。これは大正末期に発行された児童専門誌「赤い鳥」に出ていた話だ。


以上とは違い「釣瓶」のない「手押しポンプ」型の井戸もある。詳しい構造は知らないが、読んで字の如く、把手をギッコンギッコンと上下させると反対側の蛇口から水がジャージャー出てくる式の至って簡便なものだ。ご近所には今もこれを専ら撒水用に使っているお宅がある。


更にその上を行く「掘り抜き井戸」という物もある。言ってみれば人口の泉のようなんもので地下の水脈とパイプで直結して、年中、水が出っ放しという何だか勿体ないような代物だが、地下水はどちらにしろ、何処かへ流れて行くのだから途中で多少汲み上げようが、どうしようがどおって事も無いのだろう。この辺の水には微量ながら鉄分が含まれていると見え、井戸から流れ出る水路は永年のうちに鉄錆色になってしまう。


ずっと昔の話になると、都の随身院の外郭に「小野小町の井戸」と称されている、いかにもインチキ臭い井戸がある。かなり広い長方形の地面を階段状に掘ったもので、その一番底の部分に溜まった水を汲んで壁にくっついた階段のような所を運び上げる式のものだ。


いずれにせよ、何処を掘っても水が湧くという事は、皮膚の何処を突いても血が出るのと同じで、地下一面に水脈があるという事になる。血液は体内を循環するが水は低きにしか流れない。しかし、必ず循環する筈となると、どんな地下水脈もいずれは海水の中に流れ入らねばならないという結論になる。

釣瓶式の井戸
道明 井戸


手押しポンプ式の井戸
道明 井戸



電動ポンプ式の井戸
道明 井戸