泣かせます・・大阪昔風景画集

 ●泣かせます ~大阪昔風景画集~
    ~野村廣太郎「明治・大正 大阪百景」から~ (完)

■その8・・四天王寺西門の風景
 今まで紹介してきた大阪風景は、昔と今の風景の変化が大き過ぎて、ピンとこない場面が多々ありました。最後に紹介する四天王寺西門風景は、今昔の差が小さい、珍しい例です。やはり、神社仏閣は変化が少ないロケーションといえるでしょう。明治時代どころか、創建以来1400年、平城京より古い歴史をもち、かつ、伽藍配置など基本設計は当時のままだから、この風景の「変わらなさ」スゴイと思います。

明治時代の風景
明治時代の西門風景を描いた絵も、もしや写真を元にしているのでは、と察します。鳥居や堂塔の遠近感が写真的にリアルな感じがします。人物は全部和装、タクシーの変わりに人力車が客待ちしているのが明治らしくて、左手前の男も客の膝掛けに使う赤毛布を手にして客を呼び込んでる感じです。当時は石畳がなく、地道だったようで、雨の日は歩行がたいへんだったでしょう。
四天王寺今昔1 

現代の風景
 この明治の絵から現在に至るまで、四天王寺は、鳥居や六時堂などを除いて、二度にわたりカンペキに倒壊、焼失した経験をもっています。昭和9年の室戸台風と20年の空襲です。いや、明治以前にも、台風や火災、戦乱の災難はあって当然で、シンボルといえる五重塔は、コケては建て、焼けては建てを繰り返し、現在八代目。これは日本で一番かもしれない(未確認) 塔に比べて石の大鳥居は約700年前の建立で重要文化財指定。石づくりでこの巨大サイズとしては日本最古級です。
四天王寺今昔2 現代


四天王寺七代目五重塔炎上を目撃
 余談ですが、昭和20年の3月の空襲で五重の塔が炎上、倒壊するシーンを偶然、目撃しました。当時6才でしたが、未だにそのシーンが脳の隅っこ記憶されています。夜中だったので、塔の各層から吹き出す炎によって五重塔の輪郭がシルエットになって浮かび(映画なら絵になる場面でありますが)まもなく下のほうが折れてドドドと崩れ落ちたのでありました。

塔から家まで約300m、こんなに迫力ある火事シーンを見たのはこのときだけです。・・と、書いてみたものの、記憶のリアルさを確かめるためにあれこれ検索しました(ヒマ人やなあ)。結果、画像が見つかりました。自分が見たのとは反対方向(北西)から撮影したみたいですが、炎上の様子は記憶と同じです。塔の左手は金堂と思われます。
 この七代目の木造五重塔は、室戸台風で倒壊後、昭和16年に再建されたもので、わずか4年の寿命。こんなに薄命な塔も珍しいと思います。

■四天王寺五重塔炎上の写真(大阪市のHPより)
http://www.city.osaka.lg.jp/somu/page/0000004095.html

■四天王寺五重塔の履歴については、こちらで詳しくみることができます。http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_sitennoji.htm

この今昔風景シリーズは当分の間保存します。専用カテゴリーをつくっていますので、そちらから入って下さい

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●泣かせます ~大阪昔風景画集~
    ~野村廣太郎「明治・大正 大阪百景」から~

■その7・・天神橋界隈の風景
原画・明治時代の天神橋と夜店
 明治時代の天神橋は、当時の最新工法を取り入れた鉄骨トラス橋だった。しかし、車はほとんど通らず、原画のように長閑な歩行者天国だった。原画の解説文は「大阪の夏は子供達には夕方から夜にかけてがもっとも楽しかった。夕刻、行水を済ませ、ゆかたを着て橋上で、つり糸でトンボとりをした後、夕涼みをする大人たちと共に夜店をみて、甘酒やあめ湯、枇杷湯などを飲むことがとても嬉しいものであった。(略)」

都会で、つり糸でトンボとり・・の経験世代は、昭和25年生まれくらいまででしょうか。これ以後は、お家でテレビ、の世代になります。行水、トンボとり、夜店、かき氷・・トンボとりのつり糸を放り上げるときのかけ声がなんだったか、ううう、思い出せない。
昔絵天神橋

現代の風景 原画の橋は明治21年(1888年)に開通、その後昭和9年(1934年)に現在の三連アーチ橋に架け替えられた。今年で76年になり、けっこう老舗の橋です。原画の橋のてっぺんにある橋名板は現在、橋の北西端に保存されています。天神祭のときは大混雑でこれは昔も今も同じです。
現代天神橋 

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原画・天満座前子供初午(大正時代)
  いまや、知らん人はモグリと言われる、天満天神繁昌亭の前の風景です。天満宮の裏側になりますが、当時天満座のほかに、吉川館、国光席といった芝居小屋があったそうです。子供の行列は、天満宮境内の「白米稲荷」の初午行事で、狐の面をかぶり、太鼓をたたいて町内を巡る初春のシーンを描いています。
昔絵天満街角


現代の風景・なんとも素っ気ない風景ですが、繁昌亭前四つ辻から北方向を見たところ。100mほど先が国道です。繁昌亭は画面右手、手前側にあります。  繁昌亭の向かいは現在空き地(駐車場)で、いささか殺風景なのが惜しい。ここに何か集客できる和風デザインの施設ができれば、雰囲気は俄然よくなり、さらなるにぎわいが期待できそうです。
現代天満街角 

連日大にぎわいの天満天神繁昌亭
繁盛亭 

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     ~野村廣太郎「明治・大正 大阪百景」から~

■その6・・北新地本通りの今昔
原画・曾根崎新地の瓦斯燈屋(明治時代)
 曾根崎新地は、明治42年の「天満焼け」と言われる大火事で壊滅した。そのとき出た火災の残骸、廃棄物の捨て場がなく、川へドカドカ投げ込んだため、川は埋まってしまった。こうして蜆川(曾根崎川)はあっけなく姿を消してしまう。
■天満焼けの被災状況の説明。焼失家屋11,000戸、空襲以外では最大規模の火災。
http://www.eonet.ne.jp/~otora/page172.html

  原画は、火災後に再建された新地の風景。夕焼け空の通りで「瓦斯燈屋」が一軒ずつ灯をつけてまわってる様子を描いています。良き時代の京都の町並みと変わらない情緒たっぷりの風景です。夜が更けてひっそり静まった通りに、新内流しの哀調たっぷりの三味線の音が近づき、遠ざかってゆく・・たまりませんなあ。
明治の北新地

瓦斯燈職人の仕事の様子をアップで分かりやすくしました。
北新地クローズアップ


現在の風景
 商売の中身はさほど変わらないのですが、情緒もクソもない、無味乾燥の町並みです。この新地本通りだけ電柱の地中化工事が済んで、以前よりは猥雑さはマシになったけど、どう見ても美しくはない。しかし、日が暮れると、がらりと雰囲気変わって、なにやら楽しげな街になるのでございます。昼と夜のコントラストが大きい。ミナミとの違いはこれですね。

写真の通りの右手、雑居ビルがぎっしり並んでるところが蜆川の南岸になります。川は手前から向こうに流れ、四つ橋筋に出会ったところにかかっていたのが桜橋。桜橋って交差点の名前とちがいまっせ。さらに進んで、前回案内した出入橋のある堀川とクロスしていました。前方の高層ビルはリッツ・カールトンホテル。
今の北新地 

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     ~野村廣太郎「明治・大正 大阪百景」から~

■その5・・大阪駅の今むかし
原画・2代目大阪駅(梅田ステンショ 明治時代)
 
 明治時代の大阪駅はこんな建物・・なんか別世界の風景に見えます。この駅舎は2代目で、いかにも文明開化ふうのデザインです。
 ちなみに、初代は1874年(明治7年)に田んぼの中に開業。この2代目は1901年(明治34年)開業で、駅前を市電が走っていますが、貨物運搬はまだ荷馬車や大八車がメインという感じ。

駅の北側はまだ田園風景でした。キリンビールはもうあったのですね・・。
駅前にずらりとタクシーが・・ではなく、人力車が客待ちしています。
明治画 大阪駅 

プラットホームの左側は現在の環状線の位置なのかもしれない。遠くの駅舎の右手に陸橋が見えますが、これと同じものが現在の大阪駅でつくられています。下の「現在の風景」写真の一枚目をご覧ください。斜めの大屋根のあるものと、手前の トラス構造の陸橋がそう。110年目に復活ってわけです。
明治画

「出入橋」は残っている
当時、貨車はあったが、大きなトラックが無かったので、貨物は駅の西よりの堀で舟に移し、堀川で堂島川へ出て運んだようです。その堀川にかかっていた橋の一つが「出入橋」 ラジオの交通情報なんかで「梅田の出入橋ランプ付近で渋滞・・」なんてアナウンスをよく聞きますが、本当に「出入橋」という橋があったのです。堀川で堂島川へ出入りするから出入橋。

現在は?・・おお、出入橋は残っていました。川は埋め立てられたけど、橋はベタな地面に残っています。路面は石敷き、欄干も石製、重厚なデザインです。通行人はなんの興味も無さそうだけど、川のない橋は健在でした。橋のすぐそばに、きんつばの老舗「出入橋屋」の店があります。橋なんか知らんけど、このきんつばは知ってるで、の方多いかもしれません。

地べたに橋がかかってるって・・けったいな風景ですなあ。
出入橋 

高速道路を「車の川」としたら、なんか天地が逆さまになったような気がして・・。
出入橋 

しばりいで・・とちゃいまっせ
出入橋 

車道なのに石敷きのデラックス道路です。
出入橋 

けっこう有名らしいです。
出入橋きんつばや

現在の風景
さて、現在の大阪駅は4代目、アクティ大阪として改築されたのが1983年でした。
ということは、いま、30歳くらいの若者は3代目の駅の姿を知らないのですね。3代目は1940年(昭和15年)に開業。箱形の無愛想なデザインの、取り壊されても惜しむ気にならない駅舎でした。もっか、駅は大改築工事中なのはご存じのとおり。来年には完成するそうですが、おそらく5代目とは言わないと思います。

阪急グランドビルから見た大阪駅。改築工事が完成すると、駅プラットフォームの上を往来できます。明治時代の設計に戻ります。
明治画 

参考・・初代の大阪駅。陸橋(跨線橋)がありました。(1874年開業)
大阪駅初代モノクロ

右手、クレーンのあるところが大丸百貨店の増築部分。
左手前の白い建物は阪急百貨店のオフイスタワー。
明治画 大阪駅 


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~野村廣太郎「明治・大正 大阪百景」から~

■その4・・東横堀川と高麗橋
原画・高麗橋川辺の蔵並(明治時代)
 今までご覧になった昔の大阪風景画で涙をちびっていただいたでせうか。かくいう駄目男は、花粉症で涙ぼろぼろ状態でありますが。
 下の原画「高麗橋川辺の蔵並」は偶然、モトになった写真が見つかりました。季刊誌「大阪春秋」平成20年秋号の58頁「東横堀川追想」という記事にそっくりの風景写真が出ていたのです。野村画伯はこれをもとに描いたこと間違いないでしょう。誇張も省略もなく、写真をリアルに油彩で描き直しています。
 こんな風景があったんやなあ・・感無量です。
高麗橋 
 
「大阪春秋」に載っている明治時代の写真。
高麗橋 


現在の風景
 前回に紹介した湊町界隈の道頓堀川と接する西横堀川は完全に埋め立てられて、上を高速道路が塞ぎ、川跡は駐車場などになっていますが、こちらは、高速道路はつくったけど、川は残しました。なぜか。これを埋めると、南端で接する道頓堀川を維持できなくなるからです。道頓堀川の水は大川から東横堀川を経て西に流れ、木津川に合流しています。川べりに並ぶ蔵屋敷の風景が100年後はこんな風景に。ま、しゃーないがな、どうにもならんさかい・・。ちびる涙も涸れそうでございます。
高麗橋3

原画・高麗橋櫓番所跡(明治時代)
高麗橋欄干の「櫓」の原風景はコレでした。橋の欄干部に石造りの櫓が置かれていて、何を表しているのだろうと思っていましたが、明治時代には橋のたもとにこんな櫓があり、各地への距離を示す「里程元標」も設けられて、ちょっとした情報センターの役目を担っていたみたいです。
 高麗橋4

現在の風景
 原画と同じアングルでは撮影できないので、橋寄りから撮りました。(西から東方向を見る)かつての櫓をモニュメントとして橋のデザインに取り入れただけでも少しは救われるかと思います。ただ、この橋を通行する人は欄干の櫓の意味など分かってないだろうし、興味もないでしょう。
高麗橋5 

高麗橋6

ところで、東横堀川という名前、南北方向に流れているのに何故「横堀」なのか。なんか不自然やなあと思っていたところ、昔の地図はおおむね東を上にして描いたから、南北方向が東西方向になり、だから「横堀」であると。なあるほど、納得です・・・なのに、どの資料で読んだのか思い出せない。地図は北が上、という概念は明治以後で、それまでは川の上流や都(京都)を上に、海を下側にするレイアウトが一般的だったようです。

泣かせます・・大阪昔風景画集

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■その3・・江之子島 大阪府庁舎
 移転問題でモメている現在の大阪府庁舎は3代目。2代目がこの江之子島のおしゃれな洋館でした。では、初代は?というと、今の本町あたりにあった江戸時代の奉行所の建物を使ったそうです。
 西区江之子島という地名は今でも残っています。当時は四方を川や堀に囲まれていて、本当に「島」の地形だったからでしょう。昔の島の南端が、<その2>の現在風景に写っているマンションです。

原画
原画の左手に描かれた人物が蛇の目傘でなく洋傘だったら外国の風景と見間違いそうです。竣工は1874年(明治7年)ですから、大川上流の重要文化財「泉布観」(1871)とほぼ同じ古さです。規模はこちらのほうがずっと大きいので、さぞ壮麗な建物だったでしょう。残念ながら、太平洋戦争の空襲で焼失しました。
江之子島原画 


現在の風景
この絵もビューポイントをほぼ正確に特定できます。写真は木津川橋の西よりから撮しました。敷地は府立産業技術総合研究所として使われていましたが、これも老朽化して移転、土地は民間に売却されて、今は開発者として「長谷工コーポレーション」の標識が見えます。大型のマンションが建てられるらしい。
江之子島 


何か明治時代の痕跡はないかと探したところ、敷地外周の低い石垣がひどく古びた感じで、もしやと思って写真に撮って帰りました。ネットで検索したところ、古い写真と絵はがき?が見つかり、カラーの絵はがき?のディティールにかろうじて石柱の間の鉄柵らしきものが見えます。この石垣は130年昔のものに間違いなさそうです。空襲での破壊も免れて、しかし、誰に注目されることもなくひっそり生き残ってきたものです。
 長谷工がこれを撤去するのか、歴史価値を認めて残すのか、気になります。なんか「建築探偵団」気分になってきました。
■古い写真はここを開けて下さい。一枚目と二枚目です。一枚目に木津川橋が写っています。
http://homepage3.nifty.com/kindaikenchiku-yuuho/sakusaku/1_3.htm

江之子島 

石の上面に柵の鉄のバーを差し込んだ穴が残っている
江之子島 


敷地の隅っこに残された旧研究所。昭和初期くらいの建物でしょうか。これを残したのは文化財価値を認めて再活用の意図があるのかもしれず、ならば、石垣も残りそうな気が・・・。地下鉄中央線の北側車窓から見えます。
江之子島 
江之子島 


泣かせます・・大阪昔風景画集

●泣かせます ~大阪昔風景画集~
     ~野村廣太郎「明治・大正 大阪百景」から~ 

 2月下旬、中央図書館3階の資料室でごそごそ資料を探してるとき、ふと手にしたのが「明治・大正 大阪百景」。頁を開けるなり、こ、この風景はホンマか?と見入ってしまいました。明治、大正の大阪の風景は絵画や写真、版画、錦絵などでたくさん見てきましたが、それらは中之島や道頓堀など市の中心部のよく知られた街の風景が主でした。

野村画伯の絵は下町のなんでもない街角も情緒たっぷりに描いていて、これがなんとも魅力的です。この本、図書館に返したあともなお未練があったので古本検索で探したらすぐ見つかったため、2000円を投資して手に入れました。本書は昭和53年(1978)保育社発行で、序文は当時の大阪市長、大島靖氏、解説は宮本又次氏(大阪生まれの歴史学者、文化功労者)という豪華メンバーでつくられていますが、皆さん既に物故者になり、保育社も倒産してしまいました。従って無断掲載になるのですが、許可を得る相手が死去や倒産で不明の場合はどうすれば良いのでしょうか。

自分一人でニンマリしたり、涙ちびってるのはもったいない(これも貧乏性?)ので、ここに掲載して、読者にも涙をちびって頂こうと目論みました。ただし、原画だけ掲載すると絵の鑑賞だけに終わってしまうので、描かれた場所の現在の風景を参考として掲載します。100年のタイムトリップができます。

 画集にも描いたポイントが地図に記されており、同じアングルの「現在」の写真が小さくのっていますが、その「現在」が昭和40年代~52年ごろ、つまり今から30年以上昔になるため、平成の今とは大きく風景が変わってしまってます。これもまた興味深い。この旧写真も参考に駄目男が現在の風景を撮影しました。むろん、きっちり一緒というわけには参りません。アバウトです。

画集の表紙 
各ページの下の小さい写真が「現在の風景」だが、その撮影が
昭和40年代~52年ごろで、もう「過去の風景」に。
画集の中身 

野村画伯がこれらの絵を描きはじめたのは終戦後かなり経ってからですから、当然、明治、大正時代の風景のスケッチはできません。だから子供時分のかすかな記憶に写真や絵を参考にして描き、完成後は地元の古老や学者にリアルさを検証してもらっています。要するに、芸術性より記録価値に重点をおいて描いたと本人も述べています。
 現場確認に結構手間がかかるので、まとめての掲載は出来ませんが、トータルで10カ所くらいはアップしたいと思ってます。

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■その1・・秋の薩摩堀水郷(明治時代)
 この風景画がどこか地方の町の一角を描いたものなら涙ちびることはないでしょう。しかし、大阪市西区阿波座交差点のすぐ近くの風景と知ったら涙ちびりますよね。ホント、信じられない風景です。
 薩摩堀川なんて聞いたこともない。なので、画集の地図と「現在の風景」写真をもとに、図書館で古地図を漁ったところ、幸運にもほぼピンポイントで位置を特定できました。イヤハヤもう何とも・・まさしく「明治は遠くなりにけり」の感慨ひとしおでございます。というか、同じ場所のあまりの変化の大きさにボーゼン、涙ちびるのを忘れてしまうくらいでありました。 

原画・明治時代の薩摩堀
画集 薩摩堀 原画 

同じアングルの現在の風景。道路が堀川だった。道の先は中央大通
り。現在の道路は直線だが、原画は左へカーブしている、下の旧地
図にそれが表われている。(地図の橋は後にできた?)

画集 薩摩堀 

中央大通り。前方が阿波座の交差点。人物の左手が堀川だった。画集 薩摩堀

大正11年の薩摩堀界隈の地図。
逆L字形の角から北(上)方向を見て描いたと思われます。
画集 薩摩堀 


現地の小公園にある石碑。明治風景の墓標に見えます。
画集 薩摩堀 

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その2・・松島の水都風景(明治時代)
 上の薩摩堀風景の現地から南へ300mくらいの木津川風景です。
北の方向、つまり木津川上流を見て描いたのではと想像しますが、
よく分からない。松島という地名は、明治のはじめ、新しい遊郭が
できるさいに、松ケ鼻と呼ばれた名物の老松と本来の地名、寺島か
ら一字ずつとって「松島」になったという。画面の松がその由来の
松。これぞ水都風景と言いたい雰囲気をもっています。
松島水郷 原画 


木津川にかかる松島橋から撮した現在の風景はコレ・・と推定して
いますが、南北に多少ずれているかもしれない。明治時代は木津川
に北から江戸堀、京町堀、阿波堀、立売堀、長堀、堀江川、西道頓
堀、といった多くの堀川がつながっていたが、現在残ってるのは西
道頓堀川だけ。薩摩堀は阿波堀川の一部(支流)でした。
松島水郷 現代