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DHさんの「昔の思い出話」

(92) 社会見学。
 社会見学と称する課外授業があった。その日は通常の授業がなく、一日中町の工場を見学し、鉛筆の一本でも手土産に貰って帰ろうというのだから生徒たちにとってはこんな結構な話はなく、どうか何度でもあって欲しいと願ってもそうは問屋が卸さず、たった2回あったきりだった。
 最初に行ったのは「星スポーク・・会社」。我が家から行けば紀州街道を東へ十丁ほど行くと道は北に向きを変え大きく曲がりながらの下り坂となる。この辺りだけは道幅も広くなり自転車ですっ飛ばすと誠に快適な所だが、その坂の中腹あたりの東側にあった。ここで造っているスポークという鉄線は自転車の車軸と外輪を繋いで外輪がポシャらぬように支える細い鉄線で、簡単に言えば自転車の部品だ。

  次が「・・シャットル・・会社」。ここでは木製の小さなボートのようなものを作っていた。シャットルとは聞きなれない言葉で何の事か分らぬが日本語にすると梭(ひ)であり織機にセットされた経糸(たていと)に横糸を通す器具の事である。どういう仕組みかよく分からぬが これに横糸をつけて経糸の間をガチャンガチャンと往復させると横糸が通り織物になってゆく。機械にやらせるからいいようなものの、これを手仕事でするとなると大変な手間だ。しかし機械になるまでは手でやるしか方法がなく、機(はた)織りは女の大きな仕事だった。一度だけ手機(てばた)の現場を見た事がある。登校の通り道に手機を織っている家があり、ある日、窓が開いていて中で(はた)を織っている姿をチラと見る事ができた。年端もゆかぬガキどもに工場を見せたって、と思うが卒業生の中にはここの職工になる者もあるかも知れず、今風に言えばPR(当時はまだこんな言葉もなかった)を兼ねての会社説明会的意味もあったかも知れない。


手前右の細長いものがシャトル

syatoru




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読書感想文

●ケント・ギルバート著
 「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」を読む

これと同じ趣向の本はすでに何冊も刊行されているのに、アメリカ人が書いたということに新鮮さ?を覚えるのか、よく売れています。(2ヶ月で7刷)読んでみればタイトルの通りでほとんどがすでに知ってることですが、なかには「そうだったのか」と新鮮な知識を得た思いの読者もいるでせう。とても分かりやすい文章なのも好感がもてます。

  悪しき儒教と日本はどう付き合ってきたか。本書の前半はこれを学べばヨシとします。本当に役立つのは後半「第4章 日本は儒教国家ではない」の、いろんな実例をあげての「真の日本人像」の説明です。たくさんの資料を漁って現代史に無知な人に知識を授けるという感じで、なんでアメリカ人に説教されなあかんねん、と、訝りつつ、納得する人が多いのではないか。ここに挙げられたような話は,本来、小中学校の教科書で取り上げるべきだと思います。


平行して、潮匡人著「そして誰もマスコミを信じなくなった」も読む。保守の論者なので、共産党や左翼の思想、行動をボロクソに貶している。共産党の政治活動がどんなにソフトになっても、その本質は暴力革命による独裁政権樹立を目指すことに変わりはないと。これを外してしまったら共産党ではなくなってしまうからです。


・・と、著者は共産党は脅威であると警告するのでありますが、駄目男の見るところ、党はジリ貧を続けて、革命どころか、早晩、今日のメシ代にも困るようなミジメ党に落ちぶれるのでは、と予想します。肝心の若い世代の支持が全くない。唯一の資金源といえる機関誌「赤旗」の読者が減って運営に四苦八苦・・。だから、本当は政党助成金が喉から手が出るくらい欲しいけど、いまさら下さいとは言いにくい・・。政治思想云々より、まず、金がない。この現実の厳しさを幹部は分かってるはずですが、責任をとるのが大嫌いな面々は知らん顔です。


今日、マスコミが信用されなくなった大きな理由は、言うまでも無く偏向報道のせいです。朝日新聞を頭に、朝日の太鼓持ちみたいに同じような論説を書く毎日新聞。そして、TVではTBSの偏向ぶりが一番ひどいと著者はいう。TBSの主犯は岸井成格で、放送法で決められている内容の公平性なんか全く無視して言いたい放題。(彼は毎日新聞の思想的リーダーでもあった)これに天罰が下ったのか、昨年、73歳で亡くなった。但し、TBSにハンセーの気はまるでなし、だそうです。(2016年 飛鳥新社発行)


ケントぎるばーと6


マスコミを・・・

閑人帳

●1人当たりの米消費量、ピークの3分の1に

 DHさんの前回掲載文に、戦前は男性大人は米を一年に一石(150kg)食べていたという記述があります。余りに多いのでホンマか?と調べたところ、ホンマでした。年に150kgの消費です。下のグラフによると、現在は年に50kgくらいだから、実に3分の1に減ってしまいました。ちなみに、駄目男の消費量は年間30~35kgです(外食分は含まず)5kg入りの袋を買えば約2ヶ月使えます。1食あたり0,4合(1,5合を4回に分けて食べる)のだから米屋さんの敵みたいなものですが、そんな人は多いと思います。さりとてご飯が嫌いなわけではない。逆に、三食ともパンや麺類なんて我慢できないタチです。しかし、別の調査によると、一日に一回はご飯が食べたいという人は少しずつ減っていて、5割台になってしまった。若者ほどご飯に魅力を感じない人が多いということでせう。


1人当たりの米消費量の変化。パン食が普及してきた昭和30年代に118kgだから、戦前は120~150kgの消費はあったと推定。


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犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
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(86)雑誌「少年倶楽部」 ~その1~

 少年時代の思い出となれば少年倶楽部(少ク)は絶対欠かせない。雑誌と言えばそれしか知らなかった。定価1円。当時としては結構高価なものだったらしく、新本では買って貰えなかった。一か月待つと「月遅れ」と称する新本同様の古本が50銭で手にはいる。しかし、当然ながらこちらには付録がない。どうしても付録が欲しくて、ねだりにねだって新本を買って貰ったのは、多分昭和13年の正月号だったと思う。欲しかった付録というのは「渡洋爆撃機」の模型だった。ボール紙を図面通りに切り取り、折線の所は折り、のりしろには糊を着けて組み立てて行く。素材は違うが、これこそプラモの原型だろう。「渡洋爆撃機」についても説明が要りそうだ。九州の基地から東シナ海を越えて、上海辺りを爆撃して帰ってくる、当時としては最も長距離を飛べる飛行機の事で、完成した模型は天井から吊り下げて得意になっていた。


いつごろからいつごろまで「少ク」を読んだかはっきりしないが、兎に角「少ク」と言えば「のらくろ」。「のらくろ」と言えば「少ク」と言う程「のらくろ」の人気は抜群で「少ク」を手にしたら真っ先に読むのが「のらくろ」だった。その「のらくろ」も「国家非常時の折から、マンガ如きフザケたものに貴重な紙を廻せるか」との軍部からの圧力で昭和16年10月号で無理矢理やめさせられてしまった。著者の田河水泡氏にとってはさぞかし断腸の思いだった事と思う。勿論こんな真相が分ったのは戦後の事で、当時はすべて闇の中だった。今はマンガの専門誌まで出て、その発売日には書店だけでなく、駅の売店までその新刊で山ができる程マンガの氾濫する時代だが、当時のマンガは非常に希少な存在で、それだけに少年たちの楽しみのタネだった。その僅かの楽しみさえ許さないのだから、軍部とは本当に視野の狭い所だ。


余談だが、戦後マンガの超ロングセラーとなった「サザエさん」の著者の長谷川町子さんは田河氏のお弟子さんである。以下私が「少ク」で読んだ諸氏とその作品について述べて見たい。
 まず吉川英治氏の「天兵童子」。これは筏に縛りつけられた「天兵童子」が青海島に流れ着く冒頭の部分だけが鮮明で、あとはゴチャゴチャとしてはっきり覚えていない。後年、吉川氏が自らの生涯を省みて、結局「宮本武蔵」と「神州天馬峡」かと語ったと聞いて、早速 図書館から「神州天馬峡」を借りてきたが、これは寧ろ国枝史郎氏の作品と見紛うような波乱万丈の伝奇小説だった。


次いで佐々木邦氏の「トム君、サム君」。お茶目な双子が活躍する内容はともかくとして、ここに出てくる久米鵬という書生の「鵬」という名の説明が凄い。「鵬」も今では「大鵬」「白鵬」という二人の大横綱のお蔭で珍しくもないが、当時は滅多に見ない字だった。で「北溟に魚あり、その名を鯤となす・・・化して鵬となる。その翼 三千里・・・」と[荘子]から引用されると少年としてはただただ呆れるばかりである。


同氏については逸話がある。彼は大のヘヴィスモーカーで、当時、日本の植民地だった釜山から岡山の第六高等学校の教授に転任してきた所、それまで安く手に入っていた洋モクの値段がベラボウに高くなって家計が赤字になった。そこで家計を補うべく内職に洋書の翻訳を始めたところ、それが軍人上がりの校長の忌諱に触れ「苟も官立校の教授ともあろう者が内職をするとは何事か」と大目玉。しかし、氏はそれで恐れ入るような玉ではなく「じゃ官立でなければいいのでしょう」とさっさと東京の私大に転職してしまったという話だ。佐々木氏はわが国では殆どただ一人のユーモア小説作家でその意味でも特異な存在と言えよう。


少年倶楽部の人気漫画「のらくろ」から「のらくら出世物語」
少年倶楽部 



渡洋爆撃機 形式不詳
少年倶楽部





お知らせ・ニュース



●ブログ再開・・ぼちぼち始めます

 約3週間ぶりの更新です。心配をかけてすみませんでした。入院中、ブログを継続するか、廃止するか、考えましたが、大巾に縮小して継続することにしました。不人気でも、履歴だけは「老舗」で、記事の数は約3800(下書き・非公開も含む)写真の数はおそらく1万点くらいあり、いちいち取捨選択するのは大変なので、一部のカテゴリーを除いては「継続する」「廃止する」のどちらかにします。名前を変えたり、新設するカテゴリーもあります。タイトルは未定です。再編集が終わるまで、一ヶ月くらいかかると思います。
 もし、病気をしなかったら、今までの調子でズルズル続けたと思うので、リニューアルの良い機会になりました。病気に感謝?!?!。


二回目の入院で泊まった部屋からの眺め。病院のアドレスが想定できます。自分が患った病名は「総胆管結石・急性膵炎」高齢者に増えているそうです。ご用心。
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同じフロアの西側、談話室からの眺め。川は尻無川です。
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お知らせ




●お知らせ

ただ今、ブログ更新を停止しています。

管理人が病気のため、更新を停止しています。
再開は、1月中旬を予定しています。再開後、日をおいて、タイトル、内容とも大巾に変えるか、又は、閉鎖するか、考え中です。

10年を超える長い履歴のなか「快道ウオーキング」を訪問して下さった皆様方に厚く御礼申しあげます。平成最後の新年が明るい年になりますようお祈りします。 ~駄目男~


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1月例会ご案内
イラスト  梅本三郎


例会も神社仏閣神だのみ

入らすと0191月号

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●1月くちまめ例会 ご案内 ~担当 藤家さん~

13日は 快晴の宇治川べりを歩いてきました。

約14KM気持よく歩き、中書島到着でした。

新年早々は千里方面の散歩コースです

1/10(木)約5.4㎞ 水鳥いるかしら?

集 合:北大阪急行線 桃山台駅 10:00

コース:駅~春日大池~ぼだい池~牛ヶ首池~桃山台駅着





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小学生時代の思い出    作:DH
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(82)水泳

 水泳と自転車は一度覚えたら一生忘れないと聞く。どちらが先だったかとなると泳ぎだろう。自転車はある程度大きくならないとペダルに足が届かない。泳ぎをいつ覚えたかは定かではないが、場所ははっきりしている。従姉弟の家から一~二町北への海苔拾いをした海岸で、まずは背の立つ所で両手を持って貰い、息を詰めてうつ伏せになる所から始める。バランスのとり方が問題で、これを崩すといやでもガブリとやって泣きをみる。また、海水というやつはしょっぱいだけではなく、苦いんだ。何はともあれ浮く事が第一歩で、次は顔を上げる事。この後はいろいろな泳ぎの型を覚えるだけでさしたる事もない。


まず平泳ぎ。これは両手で水を掻くし、足は蛙型で一番覚えやすい。これの欠点は正面から波の抵抗を受けてスピードも出ない上に結構シンドい事だ。中学校の遠泳では全員これだったが、泳ぎ終わって浜に辿り着いた時には足が草臥れ、膝がガクガクになって立つのもやっとだった。横泳ぎはこれに比べるとぐっと楽になるが、一番楽なのは何と言っても背泳ぎだろう。プールでスピードを競うならともかく、泳がずにただ浮いている事もできる。夏休みなんか一人で海に出ては波の上によく大の字になって寝たものだ。こんな事も浮力の強い海水なればこそで、極端な場合、体は直立でも、頭を後ろに倒して鼻だけを水の上に出して浮いている事もできる。

淡水だとこうは行かない。高校の時、徹マンで火照った頭を冷やすつもりで川にはいった所、それまでの海で泳いでいた感覚とはまるで勝手が違い、体は沈むは流れがあるはで、これはヤバイ事になった、ひょっとすると溺れるかも知れぬと泡をくった。水泳競技でスピードを競うとなればクロールだが、あれには遂に馴染まなかった。あのバタ足がどうも性に合わぬようだ。クロールなんて所詮プール用のものだと、これは使えぬ者の負け惜しみである。


学校行事の一つ、遠泳
道明 水泳 


 

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小学生時代の思い出    作:DH
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(80)きよっさん(清さん)

 きよっさんは僕らの遊び仲間というより、そのリーダーである。何故リーダーかって。彼が一枚加わると電車ごっこにしろ、B玉にしろ、何か一味変って斬新で魅力的なものになる。その上一つの遊びが終わると次はこれ、次はそれと次の遊びを言い出して一同それに従って飽きる事がない。きよっさん、本名は小川清。背ほ小柄で頭でっかち。おまけに鼻の頭が赤い。実際には赤いわけではないが、何となくそんな感じで、イメージとしては白雪姫に出てくる小人がそれに近い。要するに風采の上がらないチビ助なのに、もっと体の大きい連中まで嬉々として後について行くのは彼にそうさせる何か持って生まれたものがあったのだろう。

彼とは学年こそ同じだがクラスは違うし、家もそう近くでもなく、どう考えても遊び仲間になるようなつながりもないのに何故そうなってしまったのか、不思議と言えば不思議である。一度彼の家を訪ねた事がある。入口から裏まで土間が突き抜けていて右側の壁との間に二間(ふたま)ほど。左の中ほどに竈とそれだけの家で、母一人、子一人の母子家庭だった。彼との仲も二、三年でいつとなく疎遠になり、卒業後は全く音信不通である。ただずっと後に駅のホームで彼らしい姿を見かけたが 声を掛ける事もなく そのまま別れてしまった。
 その後、私のまわりの友人、知人を見るに何故か「清」という名の人はどうも父親との縁が薄いように思えてならない。ケースとしては数人に過ぎないから一般論にはできないが、知っている限りでは100%だからすごい。余計なお世話だし、根拠も薄弱だが「清」という名は敬遠された方が良いように思う。


ついでと言えばご本人に申し訳ないが、もう一人、小川君が居た。丸顔に眼鏡で「坊や」と言う綽名がぴったりだった。彼もクラスが違ったので付き合いもない。こちらも母子家庭だったが彼のお母さんは女の眼医者だったのできっと裕福だったろうと思う。折から小学生の間にトラホーム(トラコーマ)が流行って私もお世話になった。治療と言ってもフラスコにはいったピンクの水で眼を洗うだけの事だった。

 
(81)へる(蛭の方言)
 前に(76)へし(菱の方言)を書いた。どうやらこの辺の方言では「ひ」が「へ」になると言うよりイ段がエ段になるようだ。たとえば、蚯蚓(みみず)を「めめず」と言うが如しである。それはさておき、蛭って嫌な虫だ。形もサイズも蚯蚓と似たり寄ったりで、片や水の中、片や土の中というだけの違いに過ぎない。何かの折に田植の手伝いで素足のまま田圃にはいったのが間違いの元で、忽ち蛭に吸い付かれてしまった。

最初は気付かなかったが、何だか足首の辺がおかしい感じがするので触ってみると蛭だった。早速引きちぎったが、胴は千切れても口はしっかり吸いついたままで これを取るまで出血が止まらない。全く始末の悪い虫だ。まわりを見るとプロの百姓はみんな手甲脚絆で、これでは流石の蛭も、手の、いや口の出しようもない。最初に一寸注意してくれれば良かったのにと思うが、彼らにしてみればそんな事は常識以前の問題で注意するまでもない事だったのだろう。


蛭にもサイズがあって巨大型になると大人の親指よりも太い。一度そんなのが池の底をウネウネと這っているのを見た事がある。背筋がゾッとした。もう絶対池では泳ぐまいと思った。そうでなくとも池には藻もあって危ないから泳ぐなとは聞かされてはいたのだが。耳からはいるだけでは馬の耳に念仏でも こんなのを見せられると もう泳げと言われても泳ぐ気になれない。


それは水中。これを陸上で見たらどうだろう。四国遍路で阿波の焼山寺行く途中の山道で出くわしたのは山蛭だろうか。それとも蚯蚓の化け物だろうか。蚯蚓なら何も恐れる事はないが これが山蛭というもので、もしこんな奴に吸い付かれたらなんどと思うと、考えるだけでも背筋が寒くなる。とにかく、あんなブヨブヨとしたものは性に合わない。


蛭にご用心
道明 99ひる・田植え 





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小学生時代の思い出    作:DH
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(79)上善寺

 わが家から徒歩5分圏内にお寺が6ケ寺もある。その中4ケ寺は、まわりを石垣と白塀で囲い、頑丈な門は一年中殆ど開けられる事もなく まるで「寄るな寄るな、どいちょれ どいちょれ」と言わんばかりに傲然と構えている。「衆生済度」を説きながら、この姿は一体何だと、寺,僧にたいする私の不快感の源である。確かに石山本願寺のように寺が城郭である事が必要とされた時代もあった。しかし当時からして四百年。現代、その閉鎖的な姿はアナクロ以外の何物でもない。これと正反対が神社である。こちらは鳥居こそあれ、一年365日、誰でも何時でも中に入れる。なにがオープンと言ってこれ程オープンな建物は他にあるまい。


わが家から東に半町の上善寺は、東と南側こそ土塀(白塀ではない)だが、北は紀州街道に面した商店街で、その西隅が脇門であり、西側の正門と共に昼間はいつも開いていて誰でも中に入る事ができた。正門から入ると真正面が本堂で、そこまで丁度お寺を中央で真っ二つに分けるように、まっすぐな石畳の道が地面からかなりの高さで通っていた。脇門からの石畳はこれより一段低く、斜めにこの石畳にぶっかる。そのあたりが三人組の遊び場だった。本堂の南側、ちょっと奥まった所に小さいお堂があり、中には子供の背丈より高い台の上に何仏とも知らぬ仏様の座像があった。仏像の頭の上はすぐ天井であり、また、台とお堂の壁の間は大人一人がやっと通れるだけの幅という狭さで壁には窓一つない。明かりと言えば入口から射す光だけで堂内は常に薄暗く、仏像の裏あたりは殆ど闇に近い。子供たちにはこの暗い事自体が半分怖さ交りの魅力で何はなくともお堂の中をうろつき廻っては満足していた。


更にその南側は鐘楼である。或る日何人かのガキンチョがここに集まって鐘を見上げていた。鐘というものは見ていると撞きたくなるのが人情らしい。「いっぺん鐘ついて見たいナ」「撞いたら おこられるど」「そやけど撞いてみたい」「撞いてすぐ逃げたらどやろ」「やってみよか」と衆議一決。昼の日中にゴーンと一発。後は一目散。暫くして後ろの方から「こらーっ。鐘ついたのは どいつじゃーっ」という声が聞こえたがその時分には 一同知らぬ顔の安全圏である。何かと楽しい思い出の残る上善寺だった。

上善寺
上善寺 



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小学生時代の思い出    作:DH
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(78)伊原君・覚野君

 伊原君の家はわが家から東へ三軒の三叉路を南へ三軒だから徒歩一分もかからない。それで同級生だからどうしても遊び仲間にならざるを得ない。所が困った事にどうしようもないキカン坊で、なんでもかんでも自分の思い通りにならないとすぐ癇癪を起すという本当に付き合いにくい子供だった。有難い事に、世の中はよく出来ていて、やはりすぐ近くに覚野君という母親べったりの甘えん坊の同級生が居て、これが伊原君の腰巾着さながら、何でも彼の意のままに唯々諾々と従うものだから、伊原君はすっかり親分になった気分でご機嫌だし、お蔭でこちらは伊原君に気兼ねせずに付き合う事ができた。その意味では覚野君さまさまだった。


三人寄ると決まって近くの上善寺の境内で野球ともサッカーともつかぬ遊びをやった。ホームベースとおぼしき所からキッカーがボールを蹴る。残る二人が守備で一人が野手、一人がファーストで、セーフでもアウトでも選手が交代する。何しろ三人しか居ないのだから、こうしないと順番が廻って来ない。
 伊原君については嫌な思い出がある。いつもの仲間で近くの池へ釣りに行った。釣りと言っても、まともなそれではなく、その辺に落ちていそうな細い竹の先に普通の糸で釣針を縛り付けただけのもので、浮子もなければ餌も附けなかった。それを伊原君が闇雲に振り廻すものだから一緒に居た僕の耳に針が引っ掛かった。痛いったらありゃしない。それに針の先は鉤になっているから簡単には外れない。あの時は本当に往生した。


覚野君もちょっとまともでない所があって、我々みたいな牌を見た事もない子供に急に麻雀をしようと言いだしてみたり、かと思うと突然「オタマジャクシは蛙の子 それが何より証拠には やがて手も出る足も出る・・」と歌いだして、ジャズなんか聞いた事もない他の二人は呆気にとられてポカンとするだけという事もあった。
 伊原君の家は「木村家」というパン屋で、それはいいが、この店のショウウインドウはいつも湯気で曇っていて中が見えなかった。子供心にもこれではお客さんも買いにくいだろうと思っていたが、果たせるかな、僕たちが中学生の頃、夜逃げして居なくなってしまった。

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小学生時代の思い出    作:DH
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(77)教育勅語

 校庭の一画に「奉安殿」と称する小さい建物があった。簡単に言えば神社のミニチュアで、正方形の地所を玉垣で囲い、小さいながら「いぶき」も植わっていた。杉鉄砲の弾はこれの実である。また墨をする時この葉を入れると色が濃くなるとも言われていた。「奉安殿」の内部は見た事がないが、天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語が入っているとの事だった。


これが開かれるのは式日だけ。この日は教頭先生が「奉安殿」から教育勅語を取り出して塗の盆に載せ、目八分に捧げ持って校庭に整列している生徒一同の前を静々と歩いて壇上に立っている校長先生の前の台に置く。校長先生はやおら教育勅語を持ち上げ、一杯に開いて(巻物になっていた)からおもむろに、そしてできるだけ荘重に「朕(ちん)惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト広遠ニ・・・」と読み始めるのだが、この間生徒一同は直立不動、頭をやや前に倒した姿勢で拝聴しなければならない。さして長い時間ではないが、最後の「御名御璽」の言葉を聞くと頭を元に戻してホッとする。


その中ごろに「・・父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ・・・と道徳教育の根源のような立派な言葉がある。しかし、これは山岡鉄舟の道場に掲げられていた文言をタネ本にしたものだとの説もあるやに聞いている。
 ともあれ、教育勅語は私にとっては大きなメリットがあった。「お名前は?」「どんな字ですか?」など日常よくある事だが道明はまあよい。問題は肇で、戦前なら勅語の「国ヲ肇ムル」の肇です、と言えば ああ分りましたと即座に通じた。戦後はそうはいかない。ハナ肇で通じた時期もあったが、これも大分遠くなってきた。拝啓の啓の字の上半分と筆の下半分では分かりにくくて正確に通じたかどうかも疑わしい。事実、道明筆様と記された書状が届いた事もある。ああ「教育勅語」時代が懐かしい。


教育勅語 
教育勅語



奉安殿 左の社ふうの建物
教育浴後 






 

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小学生時代の思い出    作:DH
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(76)へっつい(竃)さん、ご飯炊き、薪。

 へっついさん、竈(かまど)の事である。昔の絵では随分背が高く、薪は直接地面の上で焚かれているように書かれて居り、あれでは火とお釜の間が遠くなって効率も悪いし、炊きにくかったろうと思う。わが家の竈は下が薪の置き場になっていて薪の炎が直接お釜の底に当たる程だった。焚き口が二つあって、どちらを使ってもいいようなものだが、何故かご飯を炊くのは右と決まってた。竈の奥からの煙突は上がT字型になっていて雨が煙突から竈に入らないようになっていた。


燃料の薪は一寸田舎へ出れば農家の壁際に殆ど軒の高さまで積み上げられている、あの薪である。買った薪はさほど太くはないものの長さの揃った丸太で、これを小さく割るのはこちらの仕事になる。かなり太い丸太を輪切りにしたものが台で、その上に買った細い丸太を立て「よき」という小さい斧を木の真ん中目掛けて振り下ろす。うまく軸に当たるとスパーンと小気味よく割れるが、一寸でも軸から外れると木に食い込むだけで割れないばかりか、食い込んだ「よき」を抜くのにもかなり力がいる。大体 一本の木を4から6本に、時に太いものは8本に割っていた。本来は父の仕事だが、私も少し大きくなってからは手伝うようになった。最初の中はなかなか軸に当たらず、手こずったが何でも慣れでやっている中にだんだんうまくなった。


薪に火をつけるには鉋屑があれば最適だが、そういつもあるものではないので、結局新聞紙のお世話になる。ちょっとでも火がつけば今度は火吹き竹の番で、ふうふう吹いていれば、その中に火が広がる。薪の2,3本も燃え上がれば後はご飯が炊けるのを待つばかりで、火守りの仕事は一寸一服だ。ご飯の方は「始めチョロチョロ 中パッパ 赤子泣くとも蓋取るな」とご承知の通り。火守りの辛い事と言えば薪の中に生乾きの木が混じっていると、それが燻り出して竈の外まで煙の出る事があり、そうなれば煙に噎せて咳も出れば涙も出る、。もう一つ怖いのは風の強い日。風は気まぐれで時に煙突から竈へ吹き込む事がある。大変だ。思いもよらぬ時に竈から火が吹きだす。ぼやぼやしていると眉毛ぐらいは焦がす事になりかねない。風の日はくれぐれも要注意である。


さあ、ご飯が吹きこぼれてきた。炊き上がったのだ。「火を引け、火を引け」と母から言われたが、ここの所の記憶がやや曖昧で、多分燃えている薪を引き出して水で消したのだろう。その薪をどうしたかが思い出せない。熾火は火消し壺に入れて「カラケシ」にする。
 炊き上がったご飯は大きな杓文字でかき混ぜながらお櫃に移す。ここで可なりの水分が飛ばされる。お櫃自身も若干ながら水分を吸収し、かくしてカーワリとしたおいしいご飯となる。今の炊飯器ではなかなかうまく行かないように思う。外食のご飯も殆どがベチャ飯だ。水分の多い方が嵩が増えるから当然と言えば当然だろうが。米食に関してはコンビニのおにぎりが最高で本当に良くできている。


お釜でご飯を炊くとどうしてもお焦げができる。どうするかと言うと、お釜に少しお湯を注ぎ、お焦げをコソげ落し、お茶碗に移して少し塩を加え「お焦げ粥」にする。香ばしくて一寸乙な味がする。お米は一粒と言えども無駄にしない「勿体ない」精神そのものだ。

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駄目男の蛇足・・お米は日本人の命の糧。ゆえに、他の食材とは違った、別格の扱い、呼ばれ方をしています。たとえば・・・

・米は洗うのではなく「研ぐ」
・炊けたご飯を混ぜるのではなく「切る」
・お茶碗に入れるのではなく「装う」

など。米を大切にすることや、美味しさの追求を重ねているうちに、こんな尊敬の念が含まれた言葉が自然に生まれたのでは、と思います。



かまど 


かまど 


子どものご飯炊き体験
かまど 




犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
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(75) 活動写真

 活動写真がやがてキネマ(或はシネマ)から映画と呼ばれるようになるかなり以前の話で、勿論、無声、白黒でカツベン(活弁)が活躍した時代である。客席のまだ前に弁士の席があり、有名な「東山三十六峰 静かに眠る丑三つ時、突如として起こる剣戟の響き・・」とか「春、南風のローマンス・・」などと言った名調子が言い伝えられている。


わが町には「電気館」と「春日座」の二つの映画館があった。但し「春日座」の方はその名前からも察しられるように、映画もやるが旅回りの芝居も出すの二刀使いで どちらかというと後者の方が主だったかもしれない。活動を見ると言っても専らチャンバラで、ストーリーも分からぬまま、斬った方が良い方で、斬られた方が悪なのだ。当時の主役として羅門光三郎、綾小路弦三郎、木暮月之介などの名前が記憶に残っているが、いずれも恰好良く強そうな名前ではないか。見て帰って暫くの間は興奮覚めやらず、エイ、ヤッと一人で物差しを振り回しては人を斬ったつもりになって喜んでいた。嵐寛十郎、片岡知恵蔵、市川歌右衛門など一流俳優のものは、こんな田舎町にはやって来ない。


その中トーキーが始まった。映画の題はもとより、ストーリーも何も覚えていないが、主演女優の顔がアップになって「あたし 淋しいの」と言ったシーンだけが強烈に印象に残っている。殊に「あたし」という言葉が耳新しく、フーン、東京の女性は自分の事を「あたし」と言うんだと感心するとともに、何だか背筋がゾクッとしたものだ。


田中絹代と上原謙の「愛染かつら」が大ヒットしたのは何時頃の事だったろうか。これ亦、記憶にあるのは看護婦姿の田中絹代がプラットホームで、汽車で去って行く上原謙を見送って(謙の方は絹代が来ている事を知らなかったのではないか)「浩三様~」っと叫ぶラストシーンだけである。尤も「花も嵐も 踏み越えて・・」の歌の方はよく覚えている。
 「絹代の初恋」という映画のポスターがどういう訳かわが家の中の壁に貼られていた事があって「初恋」の意味が分らないから、折から家に来ていた派出婦さんに聞いたところ「その中 大きくなったら分かるわよ、ウフフフ」と笑われてしまった。失礼な奴だ。


返す返すも残念なのは、エノケンの映画を殆ど見ていない事で、見たのは「ちゃっきり金太」ぐらいだ。「西遊記」なんか見たかったナ~。エノケンは逸話の多い一種の天才で、例えば走っている自動車の左のドアから飛び出して自動車を追い越し、右のドアからはいったとか、走った勢いで垂直の壁を駆け上がったばかりか、そのまま向きを変えて地面と平行に何メーターか走ったとか。特に見たかったのは映画ではないが彼の演じる「瀕死の蠅」で勿論バレーの「瀕死の白鳥」をもじったものだが、蠅取り紙に捕まった蠅がじわりじわりと身動きならなくなってゆく所をバレーでやったとかで観客は抱腹絶倒で涙を流しながら、その天下一品の至芸に酔いしれたそうだ。見たかったナー。


映画「愛染かつら」の一部と主題歌「旅の夜風」昭和13年
https://www.youtube.com/watch?v=TOlgIIhMwYk


道明 映画


道明 映画 









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(74)スキヤキ

 竹の皮から連想されるもの・・・スキヤキというとまるで判じ物のようだが。母が「晩はスキヤキにしよか」と言うと喜び勇んで肉屋に走る。「ロース(?)の肉 百目。」(目は匁で3・75グラム)と言うと肉屋さんが竹の皮を拡げ(そーら竹の皮が出てきた)それに、おおよその肉を盛って秤に載せ、多少足したり減らしたりして丁度百目にし、最後に四角い脂身を添えて一丁上がり。竹の皮の端をピッと割いて作った紐で縛って「はい、お待ち遠さん」となる。


さてスキヤキ。世の中にこれ程ヤヤコシイ料理があるだろうか。ヤヤコシイというのは、料理の仕方も味付けも地方によっても違い、各家によってもやり方がいろいろあるという意味で、それぞれの家でその家のスキヤキをする分には何の問題もない。所が、赤の他人が五六人集まってスキヤキ鍋を囲む段になるとさあ大変。肉が先だ、野菜が先だ、いやまず下地だと収拾がつかない。結局、ご苦労でも誰かが鍋奉行になって仕切らないと前に進めない。


所で、肉以外の具も所により季節により様々あるとして、これだけは絶対欠かせないものとなると、まず葱、焼き豆腐に糸蒟蒻ぐらいだろうか?ほかには、玉葱,シイタケ、春菊、白菜などなどはその時任せという事にしておこう。
 ここに卓袱台なる「すぐれもの」が登場する。丸い板の裏に一対の二本脚が折り畳まれているだけの簡単なものだが、平素は部屋の隅にでも立て掛けて置けば場所を取らないし、望みの場所まで運ぶにしても転がしてゆけるから子供でもOKだ。場所が決まれば四つ脚を開いて食卓の出来上がり。おまけにテーブルの真ん中辺の四角い部分を外すとそこにカンテキがすっぽり納まるようになっている。こうして居間が食堂に早変わりし、狭い家を出来るだけ有効に活用する生活の知恵である。


スキヤキの中で何が一番好きと聞かれたら、躊躇なく「脂身」と答える。肉にはなかなか砂糖の味が浸み込まないが、脂身はすぐ甘くなり、それが口の中で溶けるおいしさ。最高である。しかし、これもたった一つしかないから余計おいしく思うのかも知れない。それよりも翌日の食べ残し(もしあれば)の方がもっとおいしい。こってりと味が着いている。スキヤキの最中はただもう食べる事に忙しくてゆっくり味の附くのを待っていない。勢い味の方は薄味となるが、一晩置いた後のじっくり浸み込んだ濃厚な味は、これこそ肉の最高の味になっている。


スキヤキ

スキヤキ








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(73) へし(菱の方言)の実

 この辺の池ならどこでも自生している水草の実である。秋も深まり実が生ってくると家庭の盥の五倍ぐらいはありそうな盥舟で菱取りに出かける人がいる。盥から身を乗り出し、菱草を手繰り寄せては葉の裏に生っている実をもいでまわる。いい加減たまったところで町へ持ってきて「へしー、へしーっ」と売りに廻る。それを二升とか三升とか買って 茹でて食べる。母が「今夜は夜なべにしょうか」と言えば夜食に菱をたべようという意味で、やったー、である。


へしは名の如く菱型で幅一寸あるかなしかの平べったい実で、両横には鋭い棘があって気を付けないと痛い目に合う。茹であがった「へし」を出刃でポンポンと輪切りにし、ミシンのドライバー(これが最適)かそれに似たようなものでほじくって食べる。実は純粋な澱粉で色は真っ白で、味もなんにもない。実の外側の薄皮に渋みがあり、その味が実にも微かについている。決しておいしい物ではない。しかし おいしくないから飽きがこず、一度食べ出したらなくなるまで止められない。冬の夜の大きな楽しみの一つだったが戦後は「へし売り」が来なくなった。「へし」を取って売るぐらいでは稼ぎにならないらしい。


もう一度食べたいものだと話していると、それを聞いた嫁がネットか何かで探して佐賀県から取り寄せてくれた。確かに菱には違いないのだが一寸イメージのものとは違って両横の随分大きなものだった。
 以上は「真べし」の事で、この他に「鬼べし」もある。こちらはサイズも一回り大きい上に左右表裏に4本の角(棘ではない)があって甚だ割りにくく且食べにくい。しかしこちらの殻だと思うが何かの薬になるらしく、漢方薬の店先に干してあるのを見たような覚えがある。


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小学生時代の思い出    作:DH
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71) 床屋

 我が家の隣りのブロックにある「床源」さんが行きつけの床屋さんだった。床屋へ行くのは大嫌いだった。何しろ痛いのだ。床源さんが下手なのか、それともバリカンの切れが悪いのか、しょっちゅうピッピッと髪を引っ張られる。当時のバリカンは勿論手動式で、ぐっと握って髪を切り、緩めるとバネで元に戻る式のものだったが、それの何処が悪いのか兎に角痛くて嫌がるので、床屋へ行くたびに後で玩具を買って貰う事になった。全くどちらが高くついたか知れたものではない。


所でバリカンは英語かなと思って辞書を見るとフランスのメーカーの名だった。ホッチキスと同様である。こちらもメーカーの名前で品物の名はステイプラーである。この事を知らなかった日本人の留学生がホッチキスを買うべくホッチキス、ホッチキスといくら言っても通じなかったという笑い話だか苦労話だかがある。いやこれは余談でした。

戦前の床屋の店構えの例
道明 床屋

(72) 電話局・郵便局

 局番がある以上何処かに電話局があるはずだが、さて何処にあるのか何をしているのか現実に見る事はない。以下は局番もダイヤルも無かった時代の話。勿論、電話がある以上、番号はあった。我が家のそれは271番だった。そして我が家の西隣が一つの棟を真ん中で仕切って我が家側が電話局、向こう側が郵便局だった。


電話を掛けるには、受話器を取って出てきた交換嬢に話したい相手方の番号を言うと繋いでくれる。町外にも掛けられたのだろうが掛けた事も掛かってきた覚えもない。その電話局の前を通った時、偶々窓が開いていて中が見えた事があった。数名の交換嬢がコードのような物を持ってうろうろしていた。大きなボードのような物も見えたが、一体何をどうしているのやらさっぱり分からなかった。


さて郵便局。説明の要もないようだが、まだ貯金も扱っていたとだけ言っておこう。私の関係するのは貯金だけ。貯金を始めると通帳がもらえる。お金を持ってゆくと通帳に年月日と金額を書いて朱印を押してくれる。その朱印貰いたさに毎日一銭ずつ持って郵便局に日参した。仮に五銭持っていても一度に貯金せず、一銭ずつ五回に分けて貯金した。朱印も欲しかったが窓口が感じのいい青年で近所の子供たちの間でもなかなか人気者だった。というのも、子供らが「蛸の真似して!」とせがむと別に嫌がりもせずに口を尖らせて真似てくれる、その様が本当に蛸によく似ているので忽ち「蛸さん」の愛称で有名になった。なぜか西巌という名前まで知ってしまった。残念な事に戦争(日支事変)が始まると程なく召集令が来てその後は音信不通である。戦死などせずに無事に帰国して欲しいと願うのみだ。


手動交換式の電話局。戦後しばらくはこのシステムが続いた
道明 昔の電話局




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●マレー沖海戦の美談は報道されなかった?

 10月17日掲載の「(69)余談・・マレー沖海戦の知られざる美談」について、なぜ、当時の日本人が知らなかったのか、新聞を調べた限りでは、記事が見つからなかった。(調べたのは朝日新聞と各社の総合縮刷版だけ)。英国の戦艦を撃沈したのが12月10日、弔いの花束投下が18日なので、この日以後、年末までの記事を調べましたが、美談のニュースはなかった。しかし、12月26日の朝日新聞記事で、香港において英国の将官が降伏を申し出たので、日本軍関係者は彼を丁重に遇し、ペニンシュラホテルに宿泊させた。これはわが軍の武士道精神による処遇云々、という、海戦とは関係の無い事案での報道があります。


海戦の美談が無視されたのは、そもそも記事にするほどの「事件」ではないという記者の判断かも知れませんが、それより、新聞各社の当時の戦意高揚をあおる記事の羅列を見ると、敵国人に哀悼の意を表すようなヤワイ出来事を報じる雰囲気がなかったという印象です。よって「報道しない自由」を発揮した・・と書けば、これは現代のマスコミにもきっちり当てはまる。自社の思想に合わない事案は報道しない、ということです。


美談


当時は、軍事政権とマスコミは一心同体といってもよいくらいの身内意識があって、軍政に対する批判など一切しなかった。むしろ、マスコミが積極的に戦争を煽ったというのが正しい。この戦争礼賛の報道は各社の販売部数のアップにとても効果があったので、ブレーキがかからなくなってしまった。大げさな見出しは今のスポーツ新聞のセンスと同じです。大本営発表のデータがウソと分かっていても、知らん顔して記事にした。仮に、勇気を出して、正しい、客観的事実の報道をすれば「国賊」呼ばわりされ、何より読者の契約打ち切り=部数減が怖くてできない。


下の「軍用機献納資金」 記事は、朝日新聞社の発案で、軍用機(戦闘機や爆撃機)の量産をバックアップするために、新聞社が国民から寄付金を募った、という話。日米開戦の4年前からスタートさせたのだから、ハンパなゴマスリではありません。現代に置き換えたら、自衛隊が最新型の戦闘機やオスプレイをたくさん調達できるように、新聞社が国民から寄付を募って政府に寄付するという話になります。信じられないでしょうが、ホントにあった。この記事では,最高一万円から、下は二十銭までの寄付者の名前が掲載されている。こんな新聞社が当時の軍事政権を批判する資格があるのか、笑ってしまいます。


美談




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小学生時代の思い出    作:DH
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(70) 風呂屋

 風呂屋。銭湯ではない。あれは東京語。我が家から半町ほど西に、みんなが「ちょうざ」と言っている風呂屋があった。どんな意味か、どんな字を書くのか未だに分からない。小さい時「うかじのばあ」(よく遊びに行った家のお婆さん。多分その家の屋号が宇賀治だったのだろう)に連れられてこの風呂屋へ行った。勿論、女湯の方だ。これは子供にとっては災難だった。なにしろ湯船に入ったら百まで数えろと言う。年寄りはなかなか温まらないが、子供は違うという事が分らないらしい。五十も数えればこちらはもう充分茹だっているのに、まだまだと言う。七十、八十となってくるともう地獄の責め苦である。それでも出させてくれない。やっと上がってからも耳の後ろやら足の指の間まで、それこそ徹底的に洗われる。もう勘弁だ。


もう少し大きくなると、一人で今度は男湯の方に行く。何をするかと言うと、まず眼を閉じ息を詰めてズブズブと湯船の底まで沈み、しゃがみこむ。息がつづかなくなってプアーっと湯から出ると今度は湯船の縁の腰掛に坐って何をするでもなく、ぼやーっとして過ごす。それで終り。まず洗わない。これで家を出てから帰るまでが約30分。いつもこんな具合だった。


この風呂屋は割と大きな風呂屋で、真四角な浴室の真ん中に真四角な湯船があり、浴室の床も浴槽の縁もすべて花崗岩作りというと、すごく豪華に聞こえるが、惜しい事に湯が汚なく、白く濁っていて底が見えない。理由もはっきりしていて、いつも湯船の七、八割しか湯を入れないからだ。しかし、風呂と言えばそこしか知らないから別段汚いとも思わず、こんなものだと思っていた。大人たちも文句も言わずに入っていたから、恐らくほかの風呂屋も似たり寄ったりだったのかも知れない。風呂代は小人で2銭。餡パンも2銭だったからよく覚えている。


風呂屋のイメージ
道明 風呂屋 






犬町・猫町情報



●11月例会 ご案内
 
イラスト 梅本三郎

10月中旬 九州 九重の法華院温泉にて
 「何と読む モミジの天ぷらか 紅葉か」

イラスト11月2018  



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西除川ウオーキング 第2回  (担当 小西)

■11月1日(木) 雨天の場合2日(金)
■集合・・・10時40分 近鉄河内松原駅 改札口 
 参考ダイヤ・・阿倍野橋発10時24分
                    河内松原着10時33分
                    橿原神宮行準急 料金260円
 駅から10時48分発バス「松原市民運動場前」下車
■コース・・・市民運動場(T)~法雲寺~大池公園(昼食・T)
       ~北野田駅 約7キロ 平坦路 弁当持参要

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第1回コースから、南さんのスケッチ<北新町大池公園風景>
南さんスケッチ 

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以後の予定
第3回 11月15日(木) 雨天16日(金)7,5km
第4回 11月29日(木) 雨天30日(金)9,0km
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くちまめ例会
■11月8日(木)予定
 プランは追ってお知らせします。