読書感想文
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似てません?


嵐山光三郎「不良定年」を読む
著者は若いじぶんから作家稼業専門だと思っていたら間違いで、40歳近くまで平凡社に勤めて雑誌「太陽」などの編集をしていた。だから「不良定年」という書名で本が書ける。脱サラ後になんとか文筆でメシが食えたのは本人の才能もあっただろうが、一番役立ったのは豊富な人脈ではないかと思う。不良定年なんてアンチな本を書きながら、腰を低くして付き合いを増やす。この才能、努力は欠かせない。まあ、不良ぶってるトコもあるわけです。
発行は2005年、今から15年前になるけど、やはり時代感覚の差は感じます。当時は60歳定年がきまりだったというだけなのに今とちがうなあと感じてしまう。会社の定年人物の扱い方はだんだん厳しくなって50代から給与カットや役職停止など、イジメが続く。60歳で、軽くても役職つきで定年になれば幸せというものです。
著者は40歳直前に希望退職した。しばらくぶらぶらしたあと、仲間を募って出版会社を立ち上げた。総勢7人だからみんな役職つきになれる。著者は常務を選んだ。脱サラしながら、結構、役職つきにこだわってます。こういう選択ができたのは、やはり人脈があったからでせう。男子たるもの、退職したらみんな不良定年になるべし、なんてかっこいいこと言えるのは自信のあらわれです。ちなみに、著者推薦の不良定年の模範(あこがれの不良ジジイ)は永井荷風と谷崎潤一郎だそう。これに共感覚える人、多いと思います。
話変わって、今朝の新聞の人生相談欄にこんな投稿がありました。「69歳男性。都会から田舎に引っ越したけど、文化施設皆無の町で、友だちもできず、妻と二人きりの生活。長いサラリーマン時代にこれという趣味もなかったので、この先どう暮らせばいいのか。最近、ウツ気味です」という相談。(過去にガンを患ったが、克服し、今は健康)
いまどき、趣味がない人なんて日本中に3人くらいしかいないだろうと思っていたが・・、おられるのですね。これ自体、感動ものです。さりとて、仕事が趣味だったとも思えないから、不良定年どころか「純粋退屈男」として生きてきたのでせう。気晴らしのネタがゼロの田舎町に来て「退屈」が際立ってきた。それにしても、69歳になるまで「楽しく暮らす術」を考えなかったという生き方、それに同調してきた妻って、いったい・・・(と、また感動する)
15年前、著者は「不良定年になろうぜ」と呼びかけたが、世間の情勢は逆に「善良定年」になる人が増えているように思う。その理由は退職金の減少や年金生活への不安などの経済情勢のせい。著者の唱える不良定年に必須な「無頼生活に要する遊び資金」の乏しさでありませう。
嵐山センセが不良定年を実践できるのは甲斐性があるからです。ほとんどの男は善良定年しかなれない。いま、この本を再版してもぜんぜん売れないと思いますよ。(2005年 新講社発行)
追記
本書を読み終えた明くる日、半藤一利氏の訃報が伝えられた。出版界では標準的なカタブツと思っていたが、本書の表紙絵(下の写真)が半藤氏の作品と知って驚いた。こんな楽しい裏ワザをもっていたなんて・・。著者と半藤氏が昵懇の間柄であることを知るとともに、頼まれた半藤氏としてはこの裸婦絵が精一杯の「不良」ぶりの表現だったのでは、と想像したものです。半藤氏の奥さんが夏目漱石のお孫さんであることは知ってました。
酒井順子「泡沫日記」を読む
前回感想文に続いて酒井順子の登場です。「金閣寺の燃やし方」とはぜんぜん趣の違う酒井流本来のエッセイ。同氏のエッセイはすでに数冊読んでいるけど、今回は「何が魅力で酒井順子の作品を何冊も読むのか」検証してみようという下世話な興味があって読んだ。
文壇の有名作家ではない。ヒット作メーカーでもない。有名な「賞」を受けたわけでもない。TVなどのメディアで露出するタレント性もない・・日常生活の断片を切り取って原稿用紙4~5枚ぶんの文にまとめているだけの、イージーライターに思えるのですが、こんな地味な作品をコンスタントに発行してメシを食っておられるのであります。野球でいえばバントヒットだけで打率を稼いでるような作家であります。
本作「泡沫日記」のテーマは、自分はいつのまにか四十女になってしまった。しかし、このトシになっても「人生初体験」になるものはたくさんあって「世間ってこんなものなのか」と学ぶ機会になると。小さな初体験を悲喜こもごもを綴るのであります。
「ガードル」「引っ越し」「白髪」「介護」「オペラ」「コメダ」(珈琲店)・・等々について淡々と、しかし、退屈させない文章で読者を惹きつけておく。刺激はないけど飽きもしない・・ これです、酒井流「薄味の魅力」は。なんのことはない、エッセイの基本をしっかりわきまえての個性であります。他のエッセイストとのちがいは、さりげなく酒井流ユーモアを散りばめるセンスでせうか。
であれば、前回紹介した「金閣寺の燃やし方」はいつになく重いテーマに真剣に取り組んだ作品だったと言えます。資料調査や現地調査に多大の時間をかけ、いつものエッセイストではなく、ドキュメンタリー作家として取り組んだ。dameo はその意気込みをヨシとするのでありますが、内容が深刻すぎて酒井ファンにはあまり評価されなかったのではないか。ホームラン狙ったのにファウルになってしまった?。あと20~30年は書けそうだからバントヒットの合間に二塁打くらいは打てると思います。(2013年 集英社発行)
酒井順子「金閣寺の燃やし方」を読む
ものすごく深刻で悲しい話なのに、なんですか「金閣寺の燃やし方」なんてふざけたタイトルは。センセ、酒井順子のイチビリを懲らしめとくなはれ。センセとは三島由紀夫と水上勉のことであります。
昨年暮れ、図書館へいくと「三島由紀夫没後五十年」で作品の特集展示をやっていて本書が展示されていた。こんな本があるとは知らなかったので、わ、ラッキーとニンマリして借り出した。何がうれしいのかといえば、三島由紀夫の「金閣寺」と水上勉「金閣炎上」の二冊を読んだことがあり、この本は両書の成立、解説をした作品だから。
ふざけたタイトルはいかにも酒井さんらしいセンスで、他の作家なら絶対こんな題名にはしません。著者は三島由紀夫ファンだと言ってるので作品の評価は三島寄りになるのかと思いきゃ、本書では水上応援団になっている。自分自身の読後感、感銘度でも圧倒的に水上ヨイショ側なので、さらに酒井ファンになってしまった。
金閣寺放火事件は昭和25年7月に起きた。犯人は寺の徒弟であった林養賢。放火の動機は、表向き厳しい戒律のもとに維持されている禅宗寺院が実際は高僧まで堕落した生活に明け暮れていることへの反感だったといわれる。さらに林は生来吃音であることや病弱な身体から人生の将来に絶望していた、とされた。当人は放火後、自殺するつもりだったが大文字山の山中で逮捕された。
この大事件を二人の作家がそれぞれのイメージで描いた。三島は放火の動機を「美への嫉妬」などとして小説に、水上はドキュメントとして犯人の不遇な生い立ちに肩入れして執筆した。表向きの印象をいうと、文章は三島のほうがずっと上手でなめらか、対して、水上の文はのつこつして、つっかえるという感じ。車にたとえたら、三島はベンツ、水上はエンストを起こしそうなおんぼろ軽トラックという感じだ。
しかし、読後の感銘度では水上「金閣炎上」が断然勝る。水上と犯人が同郷(若狭の寒村)だということが強い共感を呼ぶ。犯人の出生地である成生という集落の細々した描写を読み、地形図を購入して犯人の育ったお寺の位置や自然環境を確かめたくらいである。酒井さんもこのあたりの現場調査に力を入れていて、水上と犯人が一度だけ峠道で偶然に出会ったシーンを自分が目撃したみたいに丁寧に描いている。
犯人、林養賢は収監後、結核が悪化し、統合失調症も発症して衰弱し、27歳で亡くなった。唯一の肉親だった母親は事件直後、警察に呼び出されて事情聴取された。そのときの衝撃が大きく、帰宅するべく乗った山陰線の列車が保津峡を通過時にデッキから飛び降りて自殺した。
金閣寺と保津峡トロッコ列車・・観光客で賑わう有名観光地が薄幸の母子の悲劇の現場であったことを知る人はもうほとんどいないのではないか。もう70年昔の事件ですからね。
三島由紀夫と水上勉、いずれもファンの多い作家だけど、両方とも好きという人は少ないような気がします。この本との出会いをきっかけに「金閣寺」と「金閣炎上」読み比べてみてはいかがでしょうか。同じテーマを扱いながら、作家の個性の違いがくっきりとあらわれている作品です。
参考
三島由紀夫 「金閣寺」 1956年発行
水上 勉 「金閣炎上」 1979年発行
沢木耕太郎が語る<旅の魅力>論を紹介
コロナ禍のせいで日本全国旅行禁止みたいな風潮になってしまいました。当面、リアルな旅はしにくいなか、ネットで出会った新潮社のPR記事を紹介します。沢木耕太郎の「旅のつばくろ」刊行に際してのインタビューです。
引用元 https://www.shinchosha.co.jp/book/327521/
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つばめのように軽やかに。人生も旅も――。沢木耕太郎、初の国内旅エッセイ
編集者―この作品は、日本国内の、とりわけ北の地方を歩いて書いたエッセイ集ですが、沢木さんの「はじめての旅」をなぞるようなところがあるのが印象的です。十六歳、高校一年生の春休み、国鉄の東北均一周遊券と三千円ほどのお金を持って出かけた旅でした。
沢木 当時ちょっとしたアルバイトをしていて少しお金が貯まっていたんです。それを使って、ザックに毛布を詰めて上野駅から奥羽本線に乗り込みました。でも、長い年月のあいだに、どこをどう歩いたのか、記憶が曖昧になっていたんです。いつかその旅を「再構築」してみたいという気持ちはずっと持っていたんですが、折よくJR東日本の「トランヴェール」という車内誌が、旅のエッセイを書いてくれないかと声をかけてくれました。はじめての旅から五十年以上がたった今、新たに北の土地を歩いてエッセイを書くことで、はじめての旅を再構築できるかもしれないと思いました。十六歳のときの旅が蘇るかもしれない。あるいは全然蘇らないということがわかるかもしれない。はじめての旅の記憶がひとつの層としてあり、そこに新しい旅をして生まれる層を重ねて書いたら面白いんじゃないかと思ったんですね。
司馬遼太郎の旅
――旅を重層的に書くということですか?
沢木 司馬遼太郎さんが『街道をゆく』という一連の作品を書いていますよね。司馬さんの旅というのは、出版社が何もかもお膳立てして、記者や編集者、挿絵画家、その土地に詳しい人なんかがマイクロバスに乗って大勢同行するというものです。それじゃあ旅というよりは「大名行列」じゃないかなんて、ちょっと冷ややかに見ていた(笑)。
だけどある機会があって、青森を歩いて書かれた『北のまほろば』を読み返してみて、印象が変わったんです。そんな単純な話ではないぞと思って。この作品の一番の表層は、もちろんその大勢の同行者たちと土地を歩いて取材していくというものですが、そのすぐ下に司馬さんが産経新聞の記者だった頃に取材をしたり、会った人々の記憶の層が加わる。青森出身の棟方志功と一度だけ会った時の印象なんかが語られるわけです。さらに作家として生きてきた時間の中で交わった、作家や文化人とのかかわりから生まれてきた記憶の層がある。
たとえば直木賞の選考委員だった今日出海やその長兄の今東光。二人も青森に縁の深い人で、素敵なお母さんの話が出てくる。そして司馬さんが小説を書くために取材をし、勉強もした、戦国時代から幕末、明治に至る歴史の層がある。最後に「仮説の証明」という層も加わってくる。縄文時代に青森を中心とする北の国に豊かさや美しさがあったという司馬さんの仮説がいろいろな形で明らかになっていく。あるいは自分自身で深く納得していく……。
『北のまほろば』という作品はこうした五つの層が豊かさを生んでいるんです。それに比べると、僕のこのエッセイ集は、たったの二層にしか過ぎません(笑)。まあ、僕が大学を卒業して、フリーランスのライターとして取材をし、人と出会い、触れ合ったり、付き合ったりしたという層が加わって、かろうじて三層ぐらいになっているかもしれませんが。
――就職した会社を一日で辞めて、フリーランスのライターになり、しかし先が見えないという時期のことも書かれています。永六輔さんや小澤征爾さんに取材したときのエピソードも印象深いですね。沢木さんにもこういう時代があったんだな、と。
沢木 でも、重層性ということでは司馬さんの足元にも及ばない。だから司馬さんには、心の中で密かに「生意気なことを思っていて、申し訳ありませんでした」と謝りました(笑)。
「旅の性善説」
――十六歳のとき、はじめての旅の行き先に東北を選んだのはどうしてだったんですか?
沢木 それはごく単純な話で、東北には長い夜行列車の路線があったから。それに乗ることで宿泊代を浮かせることができるわけです。少年の僕には、一人でどこまで長く旅を続けられるかが大事でしたからね。その旅の前年、つまり中学三年生の時、船に乗って大島まで行って、三原山に登ったんです。途中で親切なお兄さんに出会って、「このテントに一緒に泊まってもいいよ」と言われたんだけど、急に不安になってしまいましてね。どこかで罪を犯した逃亡者じゃないかと下らない妄想をしてしまって、三原山から下りたあと、まっすぐ波止場に戻って船に乗りこんで帰ってきちゃったということがあったんです。「あら、一週間は帰ってこないんじゃなかったの?」なんて、姉たちにからかわれました。よし、今度はちゃんと行くぞと思ったんでしょうね。いま思うと、よく親が出してくれたなと思うけど。
――宿を予約しているでもなく。
沢木 そう、まったく。車中泊と駅のベンチが大半で宿には二泊だけでした。なのに、帰ってきても「ああ、お帰り」というぐらいだった。でもそれが僕にとってはよかったんだろうと思います。あらゆることを任せてくれたということが……。いま思い出すと、僕は特別に早熟な子どもではなかったと思います。平凡な、ごく普通の高校生だった。ただ、一人で何でも決めて、一人で何でもやるということが、ほかの人よりほんの少しだけ早かったかもしれない。一人で何かをするという経験は、その後の僕にとって決定的に重要だったような気がします。
――旅ではいやな思いはしなかったんですか。
沢木 それが全然なかったんです。上野から奥羽本線に乗って、まず最初に秋田県の寒風山に行きました。そのときの僕の旅の基本的な方針は、かっこいい名前のところに行くという、ただそれだけだったもんだから(笑)。寒風山って、かっこいいじゃないですか。それで山から下りて道を歩いていると、トラックが止まって、「あんちゃん、乗んな」って言って乗せてくれた。運転席の前にリンゴが置いてあって、運転手さんが「そのリンゴ、一個持っていきな」と言ってくれました。
今はみんな、旅をするときにミネラルウォーターをザックに入れて歩くでしょう。昔はミネラルウォーターって高かったので、その代わりに僕はいつでもリンゴを一個用意していました。水分補給できるし、何かあったときにはお腹の足しにもなる。今でも旅していると、ホテルの朝食のュッフェで必ずリンゴを一個失敬して、ザックに入れておきますが、あの旅のあの経験が原点だったんだなあと思います。寒風山のトラックの運転手さんにリンゴをもらう。あるいは北上の駅でベンチで寝ていたら、ホームレス風のおじさんが滑り落ちた毛布を掛け直してくれる。
僕は「旅における性善説」の信奉者ですが、その十二日間の旅は、そういう親切に満ち満ちていたんです。まさに、旅の神様の「恩寵」に満ちていた。そもそも、最初の、上野からの奥羽本線でも、向かいに座った人にヤクザみたいなおじさんがいて、東京の裁判所から召喚状が来たから行ってきたんだとか意気がっていたんだけれど、僕が何も食べ物を持ってきてないということを知ると、バッグからあんパンを取り出して、「食べな」と言ってくれたりしてね。
長く旅を続ける方法
――そもそも(笑)、少し楽観的でないと、旅って楽しめないのかもしれませんね。
沢木 どちらかと言えば僕は楽天的な人間だと思う。文章を書く人間には向いてないのかもしれないんだけど(笑)。僕だってもちろん過去を回想して文章を書いたりします。けれど、行動においては、過去のことに拘泥するということはあまりないんですね。たとえ、うまくいかないことが起きたとしても、それを面白がるということが、とりわけ旅を続ける上では大事だと思います。家族の者には「一晩眠ると、みんな忘れちゃうだけでしょ」なんて言われるけど(笑)。実は、そうなんです(笑)。旅をしていく中で、それが強化されていったということはあるかもしれません。過ぎたことに拘泥すると前に進めなくなりますからね。旅を続けていくにはフットワークを軽くしたい。だから可能なかぎり荷物を少なくする。それと同じように、生活もできるだけ簡素にしておくと、動きやすくなる。生活を大きくしなければ、無理にお金を稼がなくても済むし、借金もせず、贅沢もせず、軽やかに生きていくことができる。旅も人生も、きっと同じなんでしょうね。
――いつでも旅に出ることができるというのは素敵なことですよね。
沢木 僕はできるだけ予定を入れないで済む人生を歩みたいと思ってこれまで生きてきました。締め切りなんていうものをなるべく抱えないでね(笑)。もちろんたまには雑誌の連載を引き受けたりもするわけだけど、そんなものはその気になれば、全部書いて、編集者に渡しておくことだって可能なわけで、さほど行動を制約されるものでもない。手帳に先の予定が埋まっていないと心配だという人がいるけど、僕はどれだけ手帳を空白にしていられるかということに、人生を懸けてきたようなところがあります。
――長い空白があるとホッとする。
沢木 そう。今年なんか、本当の意味での約束なんて、二つぐらいしかないんじゃないかなぁ。それを除けば手帳は真っ白という感じですね。そういう人生を生きたいと思ってきました。そして、ほぼ、そういう人生を送ることができてきたと思います。
好きなものが一つあれば人生はOK
――若い人たちが旅に出ない、内向的になっていることを嘆く向きがありますが……。
沢木 よくそういうことについて意見を述べよと求められるんだけど、基本的には何も言わないで来ました。これからもたぶん言わないでしょう。誰かに何か偉そうなことを言われるの、やっぱりいやだなと僕は思うから。でも、単純に何かに興味を持てば人は動き出すというところがありますよね。人生にとって一番大事なことって、好きなものを一つ持つということだと思うんですよね。
――そうですね。
沢木 どんなことでもいいから、好きなことを一つ持っていればいい。それは何でもよくて、趣味であったり、あるいは好きな人であったり、ペットだったり、とにかく好きだというものが一つでもあれば、人生は一生、楽しく生きていけると思う。それはきっと巡り巡って、例えば外国に出かけるといったことに結びつく契機になるかもしれない。とにかく好きなものを一つ持てば、人生はそれでOKだと僕は思っています。
――内向的になって、外に向く目が弱くなるということは、好きになる気持ちが弱くなることなのかもしれません。
沢木 外に向かう感情、他者に向かう感情の架け橋がなくなっていくのはあまりよくないことですよね。好きになるということは、関心を持つということで、関心を持つということは、ほとんどもう好きであるということと同じことのはずですから。何かに関心を持ち、何かを好きになるという感情が痩せてしまうと、ちょっと困ったことになるとは思います。
(さわき・こうたろう ライター) 「波」2020年5月号より
~引用おわり~
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