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プチ・ケチの研究



●冷凍庫が満員

 調理の手間を省くため、使い残しのムダをなくすため、冷凍保存を増やすうちに冷凍庫が満員になり、逆に冷蔵庫はガラ空きです。誰かに聞いたところでは、この状態のほうが電力消費が少なくて済むそうなので、満員御礼でいいかと。しかし、大型の冷蔵庫でこれをやると、どこに何をしまったのか忘れてしまうかもしれず、かえってムダが生まれるかもしれない。10種類くらいが目が行き届いて良いかも、と勝手に納得しています。年中絶やさないのは「枝豆」。


かぼちゃ
冷凍野菜


ブロッコリー
冷凍


ニンジン
冷凍


砂ズリ(砂肝)のコリコリ感が好きで常備品です。5分ほど茹でて保存。丼ものにも使います。
冷凍 


出汁は「ヒガシマル」の「ちょっと どんぶり薄口」を愛用
冷凍 





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大阪日暮綴


●巨大物流センターを見学

 Mさんの案内で茨木市にあるヤマトグループの物流センター「関西ゲートウエイ」を見学しました。宅急便の集配の要になる最新型の施設です。敷地が無茶広いと感心したら、そこはかつての松下電器テレビ工場の跡地でした。ヤマトが使う敷地が6万4000平方メートル、隣接して同じくらいの広い土地をアマゾンが使っています。


見学者用の施設がはじめから整備してあって、ガラスで遮断された空間から、装置の一部を見ることができます。専門のガイドさんがわかりやすく説明してくれます。私達がなにげに送ったり、受け取ったりしている宅急便の荷物がここで仕分けられている。とにかく、最高の効率、スピードを追求しての設計だから、見ているだけで目が回りそうです。物流倉庫というより、ハイテク工場のイメージ。


昔昔は、配達先のコード番号(数字)をプリントしたシールを、目で見分ける、それが進歩してハンドスキャナーで読み取るというシステムでしたが、ここでは、ベルトコンベアを流れるなかでセンサーが読み取り、それぞれの行き先のエリアのベルトコンベアに仕分けます。そのスピードがすごい。本線から支線へ、また、支線から本線へ合流するときは、あまりスピードが早いと荷物が振り落とされてしまうのですが、そこが、合流、分流する、ほんの一瞬だけ減速する。さらに、荷物がベルトの中心からずれると、それを判断して,一瞬で真ん中へ寄せる。大きな段ボール箱も、A4サイズの封筒もしっかりベルトの中心へ置かれます。


では、どんなモノでもこの高速コンベアで処理できるかというと、それはムリで、スキー道具やゴルフバッグはサイズ的に無理だそうです。(別扱いになる) もう一つ驚いたことは、電化製品などの修理を引き受けていることや、医療器具の洗浄など、輸送とは直接関係ない仕事を取り込んでいることで、メーカーとユーザーの間を往来しては時間の無駄が生まれる。だから、中間の輸送業者でこの仕事を増やして収益を増やす。付加価値を高めるのが狙いです。モノを運ぶだけが仕事ではないのです。(10月16日)


関西ゲートウエイ
ヤマト運輸








犬町・猫町情報



(69)余談・・マレー沖海戦の知られざる美談

 太平洋戦争の緒戦にマレー沖海戦がありました。海戦と言っても、イギリスの東洋艦隊の主力である戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と「レパルス」の二隻を日本の航空隊が襲撃して撃沈したもので、実際には空対海の戦闘でした。「レパルス」は老朽艦でしたが「プリンス・オブ・ウエールズ」は最新鋭艦で、世界一の海軍国と自負しているイギリスが「不沈戦艦」と豪語していたものだけに、そのショックは大きかった筈です。


さて、沈められた2艦の生き残った乗組員がボートで救助を待っている所へまたもや日本の航空機がやって来たので、てっきり生き残りを目当ての機銃掃射のためと慌てふためいていた所、沈められた両艦の跡へ花束を投げて帰りました。この事が英米人の間に「日本に武士道精神あり」と称揚され、美談として語り継がれて、今でも大抵の英米人なら知っている話だと、在米久しい私の長男が会社の仲間から聞かされ「お前知ってるか?」と問われて「知らないよ」と答えたら「そんな事信じられない」と言われたと。以上は久しぶりに日本に立ち寄った長男から聞かされた、誠に結構な話ではあるのですが、こんな結構な話を知らぬは日本人ばかりなり、では何とも癪な話なので、一つ「快道・・」ででも紹介して戴ければと思った次第です。

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 駄目男がこの美談の真偽を調べたところ、長男さんの話とは小さな差異はありますが、真実でした。「マレー沖海戦」でぐぐって見ると、たくさんの情報が出てきます。しかし、DHさんのように、ほとんどの日本人は知らず、むしろ、敵方だった英米人のほうがよく知っている。その理由は恐らく、当時のマスコミの判断のせいではと思いますが、後日、裏付けの調査をしてみます。まず、この花束投下事件のあらましを井上和彦氏の文で紹介します。(青色文字)


英艦隊壊滅後にみせた日本海軍航空隊の“武士道” 
  《私は独(ひと)りであることに感謝した。戦争の全期間を通じて、これほどの強い衝撃を受けたことはなかった》 英国のチャーチル元首相は戦後、著書『第二次世界大戦回顧録』で、マレー沖海戦の大敗北をこう回想している。

 1941年12月10日、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は、マレー半島東岸のクワンタン沖で、日本海軍航空隊75機によって撃沈された。英東洋艦隊は開戦3日目で壊滅したのである。この海戦に世界中が震撼(しんかん)したのは、世界で初めて航空機が高速航行中の戦艦を沈めたからだった。米国は3日前に自ら体験した“真珠湾の悪夢”が、単なる偶然や奇跡でないことを思い知らされた。


マレー沖海戦は、日本海軍のパーフェクト・ゲームだった
 参加した一式陸上攻撃機および九六式陸上攻撃機合わせて75機が、英軍の新型対空火器「ポムポム砲」の弾幕をかいくぐり、高速で回避運動中の戦艦に魚雷49発を放って20発を命中させた。命中率は40・8%だった。高度な誘導武器や火器管制システムもない時代に、海面すれすれの低空で肉薄し、かくも高い命中率を記録したというのは、まさに“神業”であり、厳しい訓練のたまものといえよう。これだけの大戦果にもかかわらず、何と日本海軍航空隊の損害はわずかに3機(戦死者21人)でしかなかったのだ。


この一戦には知られざる美談がある。
 日本海軍航空隊の猛攻を受け、洋上のたいまつと化した「レパルス」に、駆逐艦「バンパイア」と「エレクトラ」が生存者救出のために急行した。他国軍ならば、この駆逐艦も沈めるが、日本軍はそうではなかった。日本軍機は、英駆逐艦に以下のように打電した。
 「ワレの任務は完了せり。救助活動を続行されたし」
次なる標的となった「プリンス・オブ・ウェールズ」が炎に包まれ、駆逐艦「エクスプレス」が生存者救助のため横付けしたときも、日本軍機は攻撃を止めて、その救助活動を助けたのだった。日本軍人が苛烈な戦場で見せた“武士道”だった。この正々堂々たる姿勢は、英海軍将兵を感動させた。


海戦後、1機の日本軍機が現場海域に飛来し、海上に2つの花束を投下して飛び去った。散華した僚機3機の乗員と、最期まで勇敢に戦った英海軍将兵と戦艦2隻に手向けられたものだった。日本海軍航空部隊は、卓越した技量だけでなく、戦場での紳士度も世界一だったのである。
(別の情報によれば、花束投下は海戦8日後の12月18日、投下したのは
海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐)

引用元
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160622/dms1606221140006-n1.htm  (ライター 井上和彦)

海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐のこと
https://ameblo.jp/zero21nk/entry-11726974646.html


戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」
マレー 


沈みゆくウエールズから救助の駆逐艦エクスプレスに乗り移る乗員。この戦いで英軍は800余名の戦死者を出した。同乗の提督と艦長は救助可能だったが拒否して艦とともに沈んだ。
マレー沖海戦





ウオーキング・観光


●ひさしぶりに「快道マップ」づくり

 「お好み散歩道」以来、4年ぶりに「西除川」コース地図を制作中。なにしろ「快道」の乏しいエリアなので、なんとかカッコつけようと苦労しています。それに、コースの区分も難しい。しかし、それだけ作りがいがあるとも言え、下見で、なんやかんや70キロくらい歩いてしまい、おかげさまで、ええ運動になりました。第1回のコース地図は、コース表示しかない未完成地図になります。

今回ははじめてA4サイズでデザインします。従来の大きな地図に慣れた人には文句言われそうです。但し、原図はA3でつくっていますので、サイズの融通(拡大)は可能です。 デジタル時代に敢えて紙の手作り地図づくり、アナログじじいのしょーもないレジスタンスです。


西除け川地図






読書と音楽の愉しみ



●有栖川有栖著「幻坂」を読む

 書店員が選ぶ「本屋大賞」にはローカル版があるそうで、本書は昨年の「大阪ほんま本大賞」を受賞した。よって、本の中身は大阪がテーマで、幻坂とは天王寺七坂のことであります。その坂ごとに短編小説を書き、別にオマケ?なのか、芭蕉の終焉を描いた「枯野」と藤原家隆の日想観を描いた「夕陽庵」が添えてある。


七坂の物語で一番面白いのは「天神坂」。死んだことになっている中年女と私立探偵がこの坂を訪れ、客席わずか五席の小さな割烹を訪ねる。「ははん、あれやな」大阪人読者の半分くらいは気づくかもしれない。この店主が浪花割烹の親方、上野修三さん。「㐂川」の元オーナーであります。一度引退して、ここにある自宅の一部を改装し、小説のように、五、六人しか入れない小さな割烹を開いた。その店のありさまが描かれる。えも言えぬ味わいに舌鼓をうっていた女は、死んだことを忘れて?生気を蘇らせる・・という話。しかし、上野さんはこの店をたたんで、今は幻坂の幻の店になってしまった。


天神坂にはもうひとつ幻の店があった。芭蕉ファンなら誰でも知っている「浮瀬」(うかむせ)であります。芭蕉ファンでなくても、この店への憧憬をもつ人は多い。現に、下の写真のように当時の絵が残されているので、もし、元祖とされるこの料亭が再現されたらどんなに素晴らしいかと夢を描く。当時の浪花の文人たちが集っての宴会風景はどんなものだったのか。料亭の跡地は星光学院が買い取り、保存しているが、非公開なのが残念であります。


この店の主が俳人という縁で芭蕉は招かれた。大勢の弟子たちに囲まれて宴会になるが、この宴の意図は芭蕉の弟子どうしの不和を仲裁するためという鬱陶しいものだった。本当は大坂なんかに来たくなかったのだ。この「義理の旅」が結果的に「死の旅」になってしまった。

この席で二句を読んだ
 
此道を行く人なしに秋の暮れ
 此秋は何で年よる雲と鳥

華やかな宴席でも体調はよくなかったが、以後、医者の手当ての甲斐もなく、下痢が続いて体力衰え、一人でトイレにも行けなくなる。死を悟ったうえで最後に詠んだのが「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」浮瀬の宴会から半月後、10月12日に亡くなった。(平成28年 角川文庫発行)


幻 


天神坂にある案内板の画像「浮瀬」
幻坂 

幻






閑人帳



●花も嵐も踏み越えて・・・

 ときどきここで紹介する田代さんが産経「朝の詩」に三回目の入選を果たしました。今月から、選者が新谷和江さんから八木幹夫さんに変わったけど、早々の入選です。早速、新聞を切り取り、数枚のコピーとともに郵送。彼女は新聞を取っていないので、駄目男が知らせないと入選が分からないのであります。


ただ今94歳。この年齢なら、八割、九割は要介護の状態が普通ですが、まあ、元気なものです。近々「おはぎ作るからおいで」の連絡ありそう。一体、何が元気のモトなのか、よく分からないけど、意地っ張り、割り切りの良さ、くよくよしない・・タイプの人。前回、訪ねたときは、昔、子育てで忙しいさなかに座右の書として親しんだのが、カール・ヒルティの「幸福論」だといわれて少し驚いた。自分は読んだことがないけど、昔々、渡部昇一(故人)が書いた「知的生活の方法」という本のなかで紹介されていたことは覚えている。本人はあまり言わないけれど、決して順風満帆の人生を送ってきたのではない。家庭が嵐のときに、縋る思いで「幸福論」をくり返し読んだのかもしれない。


前にも書いたと思うけど、この「朝の詩」には、もっとすごい先輩がいた。99歳?で詩集「くじけないで」を出版した、柴田トヨさんだ。ここで入選の常連になり、なにかのきっかけで大ブレークした。上には上がいるものです。有名、無名を問わず、表現者であるという気概が元気のモトかも知れません。


田代さんの詩 



閑人帳



●永谷園の「かに玉」をつくる

 何ヶ月か前に試したのは、イオンがどこかのメーカーに作らせた「トップバリュー」商品。今回はCMでおなじみのものを試してみました。いずれの品も「卵3ケ使って二人前」というのが煩わしい。二人前つくって半分こに分けると「あん」がうまく分けられなくて見苦しいことになる。さりとて、一人前のレシピをつくるのも難しそうなことは想像できます。要は、ある程度のボリュウムがないと作りにくいということ。


それはさておき、味はこの永谷園製のほうが優れている。かに玉の調味料と「あん」の味でイオン製より勝っています。インスタント感がないということですか。数回繰り返したら、見栄えも包装袋のようなプロっぽい仕上がりになるかもしれません。



DSCN9498.jpg 


かいたま







犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
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(67)泉州銘菓「村雨餅」「時雨餅」「村時雨」

 いろいろ名が出たがみんな同じものである。店によって名が違うだけの事で或は商標権の絡みかも知れない。銘菓であるかは兎も角、珍しい、それも他に類例のない珍菓と言っても良いと思う。我が家では簡単に「村雨」と言っていたので、以下そういう事にする。製法は想像だが、小豆と糯米の粗い目の粉に砂糖を加えて、大きな蒸籠で蒸しただけのものと思う。こうして 出来上がった御菓子は小豆色のそぼろ状で固めたりしていないから、やわらかく、壊れやすい。


これを手頃な大きさに(丁度 虎屋の羊羹を分厚くした程度)切って、底と上にお菓子と同じ大きさの経木を置き、竹の皮で包み、同じく竹の皮の紐で二三か所を縛って出来上がりである。食べる時は、包を開いた後、上の経木を刃物代わりにして好みの厚さに切って口にする。甘さも控えめでなかなか上品な味だ。ただ生菓子だから余り日持ちがしない。精々二三日が限度である。竹の皮はなかなか風情があるが、今は手に入らないから竹の皮の模様を印刷したビニール紙かなんかでパックされている。味気ない事だ。


和菓子の基本は餡と餅である。餅に餡を塗っただけのものが「赤福」であり、餡を餅で包んだものが「羽二重餅」である。饅頭の皮も餅の一種と見れば、和菓子の九割以上はこれらのヴァリエイションに過ぎない。最初に珍しい菓子と言ったのはこの点で「村雨」は小豆を原料にしているが餡ではない。糯米を使ってはいるが、餅でもない。「村雨」の「村雨」たる所以で、是非、皆様にもお試しをと言いたい所だが、どうも高島屋でも売ってそうもない。かと言って、これだけのためにわざわざ泉州くんだりまでご足労願う訳にも行かず、誠に残念だが、まあ幻の珍菓があるとだけご承知いただければ有難い。


道明 


(68)最中屋(もなかや)

 この記憶はかなりあやふやだが、我が家の西隣の家の角を南へ曲がって半町ぐらいの突き当りにその店はあった。重い障子戸を開けて「ごめん」と入って行くと土間を隔てて向かいの部屋に坐っていたご主人が「よう おこし。お幾らにしまひょ」と、いきなりこれだ。他の菓子を置いてる気配もないので余計な事は聞かない。「30個」と、こちらも子供の使いでぶっきらぼう。「少々お待ちを」と早速作りにかかる。とにかく一種類しかないのだから、あれかこれかと聞く必要もない。左手に最中の皮を持ち、右手に持った箆でさっさっと餡を詰めては表の皮で蓋をしてゆく。30位はあっという間で「お待ち遠さま」と出来上がった最中を箱に詰めて渡してくれる。注文生産だ。


確かにこの時点では最中の皮はパリパリで、じなーっとしけてはいないが、さて食べる時にはどうだろうか。予め作られた最中だとどうしても皮がしけがちだ。しけていないという事がそれ程大事な事かどうか鈍感な私にはどちらでもいいように思えるが。しかし、パリパリの最中を評価する人が多いと見えて 皮と餡とを別にしてお客さんが好きな時に いつでもパリパリの最中が食べられるようにして売り出した近江八幡の「たねや」が大ブレイクで[高島屋]にまで進出するようになった。但しここの最中は丸くなくかなり細い長方形である。


最中の形なんかどうでもいいようなもので、別段気にする訳ではないが、そもそも「最中」は「最中の月」から来ている以上丸いのが原型である。最近はそんな小うるさい事は言わず四角い最中も多くなった。わが町 佐野の菓子屋「むか新」の最中「いろは蔵」も四角で、しかも真ん中に縦の割れ目が入っていて二つに割りやすい。割った半分が二口で食べられる割と小振りな最中だ。それに皮が薄いので、かなりしけている。これに比べると、私の好きな「百楽」は大きな正方形だが皮が厚い所為か出来合いでも しけた感じがない。たまには煎茶で最中もいいものだ。


道明 村雨







プチ・ケチの研究


●知らなかった・・バナナを長持ちさせる方法

 毎日のように食べるのに、保存がきかないため、一房ずつしか買ってなかったバナナ。きれいに長持ちさせる方法はないかとネットで調べたら、ちゃんとありました。もっと早く調べればよかったとハンセー。


方法は簡単、バナナを一本ずつ、ポリ袋にくるんで冷蔵庫の野菜庫で保存する。これだけです。さっそく試してみました。バナナが変色しやすいのは、ナントカというガスを自ら出すためだそうで、これを防いだら長持ちする。説明ではポリ袋又はラップでくるむとありますが、これだと使い捨てにしてしまうかも知れないので、紙(古新聞やチラシ)にくるんで、さらにポリ袋に入れました。新聞の使い道発見です(笑)


結果は下の写真の通り。普通なら3~4日でかなり変色しますが、この方法では10目でもほとんど変色なしです。つまり、二房(8~10本)を買って、一日一本ずつ食べても10日は美味しく食べられます。流通、販売業者で成熟、劣化を防ぐ工夫ができたら、こんな手間はいらないし、
廃棄量はうんと減るでせう。(例えば、包装袋に劣化を遅らせるガスを注入するとか、包装後に袋の空気を吸い出して密閉度を高めるとか)
高級品ならコストアップを吸収できるので、トライする価値はありそう。・・もう、とっくにやってるかも知れませんね。


日ごろ愛用、一房4~5本で98円の安物バナナでテスト
バナナ保存


4日目(購入の翌日を一日目とする)
バナナ


6日目
バナナ


8日目
バナバ


10日目 全然問題ありません
バナナ おわり





犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
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(65)漬物(沢庵)

 漬物屋もあるにはあったが各家庭でも作っていた。我が家も沢庵は自作で、まず大量に買ってきた大根を軒に吊るして十数日陰干しする。いい加減水分が抜けてしわしわになってきた処で、やおら漬物樽を持ち出し、底に糠と塩をたっぷり敷く。菜っ葉を除いた大根をできるだけ隙間の出ないように首と根を交互に組み合わせて底一杯に並べる。これが一番底の段。次にそれらが見えなくなる程度に糠と塩で埋める。その上に二段目の大根をを下の段の大根とは直角になるように並べて又もや糠と塩。これの繰り返しで、全部漬け終ったところで蓋をして重石を置く。


この状態で放っておくと蓋の上にどんどん水が上がってくる。塩と重石でまだ大根に残っていた水分が出てきたものだ。この水を何回か捨てて殆ど水が出なくなれば一応の出来上がりである。但しこの段階ではまだ色も白く味も浅い。日と共にだんだん黄色くなり,やがて黄褐色へと変わり、色も味も濃くなってくる。大根そのものも小さく萎びてくる。そして、食べ終わるころにはまた新たに漬ける季節になっている。

 余談だが私どもの地方では沢庵とは言わず、「こーこ」または 「おこーこ」と言っている。極く希だが「親に孝行(こーこー)、親に孝行」と呼びながら沢庵を売り歩く人を見る事もある。
道明 たくあん


(66)なすび (=水茄子)

 昔からこの辺では「茄子」の事を「なすび」と言い慣わしている。「水なす」なんて聞いた事もなかった。それが いつのまにやら全国版の「泉州名産 水なす」と言われるようになってしまって、何だかその辺がむずむずするような、変な気がする。昔は余程の特産品でない限り流通する事が無かったから、茄子と言えば「なすび」しか知らず、茄子紺と言われるような綺麗な細長い「茄子」の実物は見た事も無く、絵で知るのみだった。その立派な「茄子」と比べると形はずんぐりむっくりで、お世辞にもいい形とは言い難いし 色も良くない 何の取柄もない「なすび」だが皮の薄いのが取柄で「浅漬け」にして食べると誠においしい。


専用の小振りの糠床に、夕方数個の「なすび」を放り込んでおき、翌朝取り出して刃物は使わず指で割いて食べる。この時は醤油ではなく「もろみ(醤油にする前の液状の味噌)」を使う。これまた甚だおいしい食べもので、これだけをおかずにして御飯をたべても、却って食がすすむ程の代物である。そんな訳で「なすび」と言えば浅漬け、浅漬けと言えば「なすび」だが、もう一つ「じゃこごうこ」という食べ方もある。これは「じゃこ」と称する地で獲れた小エビと「なすび」をかなり辛い目に味付けした煮物だが「じゃこ」がいい出汁になって、これまた一倍食のすすむおかずだ。一体に御飯のおかずには塩辛いものが適しているようで、昔は御飯と塩だけで3年過ごした剛の者も居たとか聞いた事もある。 

道明 なすび







大阪日暮綴



●全治三ヶ月の重傷・・・長居植物園

 21号台風の被害が大きくて臨時休業していた植物園が9月15日から営業再開しました。何ヶ月ぶりかで訪ねてみると、園内通路はきれいに掃除も行き届いていますが、敷地の3分の1くらいは「立ち入り禁止」になっています。倒木の片付けがすすんでいないのが理由です。全部で700本くらいが倒れたそうですが、現場で2mくらいに切り、重機で搬出するけど、搬出は遊歩道を使うので休園日しか作業できない。


そんなわけで、3ヶ月くらい・・12月はじめ頃までかかるそうです。風で倒れた樹木のうち、駄目男が一番ショックを受けたのは、大池のほとりにあるセンダンの木が根元近いところで切り捨てられていたことです。(写真参照)池端の風景をつくってきた「絵になる大樹」だったのに、無残な姿になっていました。その東となりのクヌギの大木も枝をほとんで切り落とされて坊主状態です。う~ん、残念ですが、仕方ない。


倒れ方は二つあって、根こそぎ倒れたもの、地上1,5mくらいのところで折れたもの、のいずれかですが、折れたものの方が多いかもしれない。倒れなかったけど、枝をほとんど吹き飛ばされてしまったメタセコイアやラクウショウを見ると、最大風速は50mくらいあったのではと想像します。普通に想像する「強風」では、枝が幹から吹きちぎられるなんてない。折れたのではなく、千切られた、と見えます。そして、枝が無くなってしまうことで、倒れることを免れたのではと考えました。園内では一番多いクスノキがもっとも被害が少ないように見えました。葉もしっかり残しています。なんか「打たれ強い」木なのでせうか。


紅葉が楽しめるナンキンハゼやモミジバフウは7割がた葉っぱを吹き飛ばされてしまい、今年の紅葉見物はアウトです。これも仕方ありません。
・・というわけで、長居植物園は大きなダメージを受けましたが、入園、見物にはなにほどの障害もないので、敬遠する必要はありません。屋内、屋外のカフェも営業しています。(月曜は休園です)

秋は黄葉もきれいだったセンダンですが・・・3年くらい前に撮影
センダン 


あちゃ~・・消えてしまいました。
センダン 


近寄るとこんな感じで、三主幹のうち、二本が根元からカットされた
センダン 


メタセコイアの無残な姿。枝が吹き飛ばされた。
メタセコイア 


山積みされた倒木。園内全部で4トントラックで20台分くらい?と想像。
廃材集積 


死んでたまるか・・はや、再生をはじめた木も。もしやアキニレ?
秋ニレ? 





閑人帳

 

●東山魁夷展鑑賞 ~京都国立近代美術館~

 混雑を想定して午後3時半に入館。以後、客はどんどん減って鑑賞に支障はなかったけど、まあ、この画家の人気ぶりに感心しました。外国人の姿もたくさん目についたのは京都のせいかしら。
 自分のお目当ては唐招提寺御影堂の障壁画。この作品を見るのは四回目で、二回はデパートでの展示展、一回は唐招提寺での特別公開展。正直に感激の度合をいえば、今回がビリでした。その理由の第一は照明を落としていたから。水墨画の「桂林月宵」や「揚州薫風」は暗くても気にならないが、独特のブルーが見せ場の「山雲涛声」は暗さで色が冴えない。完成当時の昭和50年ごろは今ほど照明を落としていなかった(照明による作品劣化への気遣いが少なかった)ので、あの独特のブルーが鮮やかに見られたけど、今回はくすんでしまっている。しかし、それで文句を言っても仕方ない。四回目、恐らく人生最後の鑑賞は少々期待外れにおわりました。


会場を一巡すると、小品を除くほとんどの作品は見覚えがあることに驚きましたが、これは画家のベストヒット作品を網羅するのが企画のコンセプトだったせいかもしれない。あるいは、何度も画集を見ているので、なんとなく覚えてしまっていたのかも。それに、あちこちの美術館巡りをしたさいにもたくさんの東山作品に出会っている。美術館にしたら、人気が落ちないと言う点で無難なコレクションでもあります。


それはさておき、唐招提寺障壁画を見てつくづく思うことは、霧を絵に描くことにおいては日本画の画材が最高であり、リアルに描く腕前では東山魁夷がトップでありませう。西洋の油彩は雲は描けても霧は描けない。霧の絵は、外国人鑑賞者にはかなりのカルチャーショックを与えるのではないでせうか。(10月2日) 本展は10月8日まで。


唐招提寺障壁画 「山雲涛声」
東山 

東山魁夷 


東山



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●プーシキン美術館展 鑑賞 ~国立国際美術館~

 「風景をありのまま描く」なんて、当たり前のことだと思うのは現代人の感覚。16~17世紀頃までの西洋絵画にそんな概念はなかった。風景は主役たる神や聖人の像の背景として、オマケ風に描かれていた。リアルである必要はなく、適当に、画家の想像で描いた・・と解説で述べています。なるほど、そういえば、あの「モナリザ」の絵だって、背後の風景はダ・ビンチが想像で描いたもので、アトリエからあんな風景が見えたということではありません。


プーシキンのコレクションの中から、フランスの風景画に絞って歴史をなぞるのがこの展覧会。なので、最初の数十点の作品は先記したように、リアルに見えても実は想像の風景を描いたものが多い。神殿が水没してる風景なんてのもある。こんな絵、誰が注文したのか、と素朴な疑問が湧きます。しかし、年月を経て風景画は商品価値を獲得します。さらに、印象派なんて新スタイルが広まると、人物画より風景画のほうがもてはやされる時代になる。シスレーやセザンヌやコロー、モネなど、おなじみのブランド画家の作品が並んで、鑑賞者はようやく「そうや、こんなのが見たかってん」と納得、エンディングに至るのであります。ヨカッタ。(本展は10月14日まで)


国立国際美術館の北隣では新しい大阪市立美術館の準備工事が始まった。
プーシキン







犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
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(63)腹立たしい思い出

 思い出と言っても必ずしも懐かしいもの、楽しいものばかりとは限らない。これはその腹立たしいものの一つ。何年生の時の事だったか、何とかの宮が来られるというので、その歓迎のためにみんな日の丸の小旗を持って道路の片側に並んでお迎えした。そこそこ待ち草臥れた頃、やっと宮様が見えたというので一同最敬礼の号令がかかった。頭を下げている我々の前を車が通ったような気配が感じられるまでにも可なりの時間があった。最敬礼が解けたのはそれから大分経ってからの事である。


結局、我々は長い時間を潰して頭を下げただけの事で宮様の来られる所も、また通り過ぎられた後も車の影も形も見ずじまいだった。いくら皇族だって、また、幾らこちらが子供だって、これは余りにも人を馬鹿にしている。あれから約80年も経ったいまだに覚えている位だから、あの時はよっぽど腹がたったのだろう。

 小学校時代の話はまだまだ続くが、この辺で一寸一服して目先を変え、当時の生活に話を変えてみたい。


(64) 井戸

 一日の生活は起床、洗顔から始まる。いまなら水道の栓を捻ってジャーだが昔はそうはいかない。まず井戸から水を汲み、一旦それをバケツに溜め、そこから柄杓で水を洗顔用の金盥に移す。これだけの事をしないと顔も洗えない。と、字で書くと大変煩わしいように思えるが、馴れてしまえばさしたる事でもない。


さて、井戸。勿論、釣瓶で水を汲みあげるのだが、その方法も時代と共にどんどん進歩する。最初は多分縄の先に釣瓶を縛り付けてドボンと放り込んだのだろう。次いでは竿の先に釣瓶を縛り付けたもの。千代女の「朝顔に釣瓶とられて貰い水」はこれである。その次は「撥釣瓶(はねつるべ)」。柱の上に横木を渡し、一方の端に重しを もう一方の端に釣瓶を付けたもので これだと余り力が要らずかなり楽になる。


我が家のそれは両端に釣瓶を付けたロープを滑車に掛けたもので、エレベーターのように一方が水に浸かっている時は 他方が上に上がっている式のもので、これも余り力が要らなかった。それに我が家の井戸は近辺では一番深い方で水の涸れた事がなかった。浅い井戸だと雨が降ると水が浸み込んで濁るが、深いからそれもなかった。更に地下水の温度は年中一定しているから夏は冷たく冬は暖かい。水道のように結氷する心配もないし、夏は一種の冷蔵庫となり よく西瓜を冷やしたものだ。この時は容器に入れて吊るさないと直接 水に漬けると味が薄くなる。


井戸にもメンテが必要で、年に一度「井戸替え」と言って 溜まっている水を掻き出し 井戸の底を掃除して新しい綺麗な水が流れるようにしていたが、水道の普及と共に「掻き出す」人足が絶滅職種となりメンテが出来なくなった為、今はモーターで洗濯用と表の植木鉢と撒き水にだけ使っている。


井戸と水道についてこんな話がある。都会の子供が田舎の従兄妹の家に遊びに行った。田舎の子が井戸から水を汲むのを見て、都会の子が街では栓を捻ればいくらでも水が出てくると一寸田舎を馬鹿にする。田舎の子は悔しがるが、その中、水道にはお金がかかると聞いて、なんだ ただじゃないんだと田舎の方がいいように思う。これは大正末期に発行された児童専門誌「赤い鳥」に出ていた話だ。


以上とは違い「釣瓶」のない「手押しポンプ」型の井戸もある。詳しい構造は知らないが、読んで字の如く、把手をギッコンギッコンと上下させると反対側の蛇口から水がジャージャー出てくる式の至って簡便なものだ。ご近所には今もこれを専ら撒水用に使っているお宅がある。


更にその上を行く「掘り抜き井戸」という物もある。言ってみれば人口の泉のようなんもので地下の水脈とパイプで直結して、年中、水が出っ放しという何だか勿体ないような代物だが、地下水はどちらにしろ、何処かへ流れて行くのだから途中で多少汲み上げようが、どうしようがどおって事も無いのだろう。この辺の水には微量ながら鉄分が含まれていると見え、井戸から流れ出る水路は永年のうちに鉄錆色になってしまう。


ずっと昔の話になると、都の随身院の外郭に「小野小町の井戸」と称されている、いかにもインチキ臭い井戸がある。かなり広い長方形の地面を階段状に掘ったもので、その一番底の部分に溜まった水を汲んで壁にくっついた階段のような所を運び上げる式のものだ。


いずれにせよ、何処を掘っても水が湧くという事は、皮膚の何処を突いても血が出るのと同じで、地下一面に水脈があるという事になる。血液は体内を循環するが水は低きにしか流れない。しかし、必ず循環する筈となると、どんな地下水脈もいずれは海水の中に流れ入らねばならないという結論になる。

釣瓶式の井戸
道明 井戸


手押しポンプ式の井戸
道明 井戸



電動ポンプ式の井戸
道明 井戸 






 

閑人帳



●「上陸の恐れがあります」・・・という台風情報

 今月はこの言葉を何回聞いたことか。で、ちょっとイチャモンをつける気になったのであります。台風が陸地から数十キロのところに迫っていても,上陸するとは言わないのですね。台風って図体が大きくて小回りがきかない。まして、日本上空で偏西風につかまれば一層方向転換ができなくなります。室戸岬南方50キロで北東へ進めば、100%の確率で四国か近畿へ上陸します。だったら、キッパリ「上陸します」と言えばいいのに、実際に上陸するまでは「上陸の恐れがあります」という。キッパリ「上陸します」といえば視聴者の感情を害するとでも思ってるのでせうか。


住民(視聴者)にしても、〇〇県〇〇市付近に上陸しますと言われたほうが、キッパリ覚悟ができる(心構えや準備ができる)のではないか。もし、10キロくらい外れても文句を言う人はいない。「恐れがあります」という言い方には、なんとなく責任逃れのイメージがつきまとう。もしや日本人らしい「忖度」? 台風という物理的現象の表現にまで気配りしているのでせうか。キッパリ伝えるより、少しソフトな耳障りのよい言葉で台風の来襲を伝える。これで被害が減るわけでもないのに。


「避難命令」というのはなくて「避難指示」とか「避難勧告」というソフトな言葉を使うため、避難せずにいて亡くなった人もいる。指示と勧告の違いを分かって行動する人がどれくらいいるのか。「避難準備」と「避難命令」の二本立てのほうが分かりやすいと思いますけどねえ。人命に関わる重要な情報提供においても、基本に、発信する側の「責任逃れ」の姿勢が見えます。

天気図







たまには外メシ



●売れる予感・・高野槙のジン

 ゆうべ、ココルームへいくと見慣れぬボトルが・・。珍しい和歌山産のクラフトジンで、県特産の高野槙の葉を原料の一部に使っているという。他にレモンやミカンや山椒の種なんかをブレンドしてあるらしい。さっそく、ロックで呑むと、まあ、とてもエレガントな味と香りがして呑みやすい。度数は47度。商品名は「KOZUE」であります。


上等なウイスキーの値段が高騰してバーも商売がしにくくなっているところ、ジンをベースにした酒をすすめる店が増えるのは当然の流れであります。女性には呑みやすさが好まれるというオマケもあります。そこに登場したこのジン、世評は知らないけど、人気高まること期待できます。味の良さとともに、和歌山産というローカル感が新鮮。高野槙なんて想像もしない樹木のエッセンスを愉しめるなんて想定外でした。まずは、苦労して開発した職人さんたちに敬意を表します。

参考資料
http://www.nakano-group.co.jp/product/spirits/kozue/


和歌山ジン 


            コウヤマキ

和歌山ジン








たなかよしゆきさんの古道紀行



古道紀行 おおばこの会 予定表
(2018年11月~2019年4月)

おおばこ2019 





犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
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(62)1900年(明治33年)

 1900年は単に切がいいというだけでなく、私にとっては一寸特異な年でもある。その第一は母の生年だという事で、しかも3月10日(陸軍記念日)生まれとくれば何となく作為的な匂いがする。事実どうやらそうだったようで、ある時母が「私は子年生まれという事になっているけれど本当は亥年なんよ」と言ってるのを聞いた覚えがある。当時の戸籍は今ほど正確なものではなく、出生届けにしても医師の出生証明書を付ける事もなかったようだから、(第一、分娩は殆どが産婆さんの仕事で、産院でのお産なんか滅多になかった)出生日を早める事は無理にしても、少しぐらい遅くする分には簡単にできたのではなかろうか。


それはともかく、1900年生まれと言うのは暦年と生年が同じという事で誠に便利なのだ。つまり1920年なら20歳、50年なら50歳で紛れがない。88歳で亡くなったから1988年と没年が瞬時に分かる。他の年だとこうはいかない。父は85歳で亡くなったが、その没年となると、えーっと明治29年は西暦では・・・と、よく計算しないとなかなか正確な答えが出てこない。それと もう一つ、1900年は19世紀の最後の年だから、母がもし、もう13年ながらえて2001年まで生きたとすると、実に3世紀に亘って生きた事になり、これ亦一つの記録になったろう。今ほど長寿大国でなかったにしても、そんな人も何名かは居たに違いないと思っている。


もう一つは私の母校、第六高等学校(略称・六高)が創立されたのも明治33年、1900年だったという事。残念な事に、六高は昭和25年(1950年)にGHQ(占領軍総司令部・長官マッカーサー将軍)の方針で廃校になってしまった。丁度50年の寿命だったという事になる。敗戦後のゴタゴタも漸く治まり、同窓会の発足したのが昭和36年。多くの資料が散逸していて名簿一つ作るのも大変だったようだ。ともあれ、こちらの方も2000年が創立100周年と非常に分り易い。2010年の110周年はいいとしても、120周年はとてもできまいとあって半端になるが、115周年を強行。おそらく総会としては これが最後となろう。大阪支部も結成当時は略2000人ほど居たらしいが、年々減る一方で今年現在のメムバーは約100名、内、同窓会に出てきたのが20名余りという事で今年を最後とする事にした。何しろ一番若いのが87歳という超高齢者集団とあっては「老兵は消えるのみ」である。

六校の校歌「山紫に」
https://www.youtube.com/watch?v=2sHYc1ED4MY

同 寮歌
https://www.youtube.com/watch?v=YLbse44o80A


六校の在りし日の姿
道明 六校 



道明六校

 









犬町・猫町情報



●10月例会 ご案内
 イラスト 梅本三郎


青春81きっぷ シリーズ
若者よ、メールは短し レールは長く 旅に出よ!!


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●くちまめ 10月例会 ご案内    ~担当 藤家~

10/11(木)秋景色を探そう 約5,5㎞
どこへ行っても台風21号の影響か 公園の木々も紅葉?枝葉もすっきりしてます。さーて皆さんゆっくり歩き始めましょう!!

■ 集 合:JR阪和線和歌山で和歌山線に乗り換え、岩出駅 11時
■ コース:JR岩出駅=南根来BS~根来寺 植物公園緑化センター~国分寺跡~下井阪駅着 ⁂弁当持参の事

11月例会 ⁂11月8日を予定してます 

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●10月例会 ご案内

 西除川遡行 第1回  ~担当 小西~
 南海高野線 浅香山駅~松原市民運動広場まで 
 
■10月18日 (木) <雨天19日(金)>
■集合・・10時30分 高野線浅香山駅集合
  参考ダイヤ 各停 難波発10:03~浅香山10:21着(260円)
■コース・・浅香山駅~つつじ公園(T)~JR浅香駅~大和川合流点~天美西公園(昼食・T)~北新町大池公園(T)~布忍神社~市民運動広場(T)~バスで近鉄河内松原駅へ(弁当持参要)  9km 平坦路
※第2回は11月1日の予定です。(全4回 11月中に終了予定)

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■ご案内
 たなかさんの古道紀行「おおばこの会こばこの部」では、大和川本流の河口から水源までフルコースを歩くプランがあります。第1回は来年3月3日(日)南港河口からJR杉本町駅 9kmコースです。

予定表

http://oskjk.blog107.fc2.com/blog-category-17.html







犬町・猫町情報


小学生時代の思い出    作:DH
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(61)日露戦争余話・・前項 海軍記念日の続き

 日本海海戦の完勝によって海の戦いは終わった。残るは陸である。折からシベリヤ鉄道の輸送能力のアップもあって、日とともにロシア側の兵力は増強される。日本側は現状で精一杯という困った状況下にあった。所がロシア皇帝を頂点とする貴族制度に対し、明石少佐の諜報活動もあって、農民・労働者の不満が高じ、楫の取り方を誤れば 革命にもなりかねまじく、遠い遠い極東の戦争に全力を投入できるような状況ではなくなった。という訳で日本側にとっては絶妙のタイミング,且つ好条件で講和が成立したが、真相を知らされず、日本が一方的に勝ったと信じている国民は講和条件に納得せず、全権大使の小村寿太郎に弱腰過ぎるとの非難が集中する。勝ったと思っている日本側は講和条件を生ぬるいとする不満。戦争はまだこれからで、負けたとは思っていないロシア側はなぜ講和せねばならぬのかとの不満。で、双方に不満の残る幕引きであった。


伊藤博文暗殺事件の真相
 これが尾を引いて数年後のハルビンでの伊藤博文暗殺事件となる。えーっ。どうしてそんな事になるの?我々の教わった歴史では伊藤は朝鮮人の安重根に殺された事になっている。そうではないと木村毅氏がいろいろの証拠を挙げて説明している。

1)閲兵式は当初の予定になかったが、ロシア側からの強請で急遽伊藤が出ねばならなくさせられた事。
2)伊藤を殺した弾丸はロシアの制式銃であるカービン銃の弾丸である事。
3)その弾丸は水平方向からではなく斜め上方から伊藤の体を貫通しており、発射方向にロシアの兵舎があって、その二階から撃てば丁度角度が一致する 。

 と、暗殺の真犯人はロシア軍だと断定している。その一方、犯人とされた安重根については、
1)安重根が拳銃を入手したのは事件の数日前であり、それから射撃練習を始めた(裁判所における被告の供述)
2)立ち並んでいる衛兵達の間から撃ったというが、そんなにうまく撃てるものか?
3)第一閲兵式場に安重根のような関係のない人間がうろちょろできるものかどうか。
という事で これまた安重根は暗殺の本人ではないと論じている。このように言われると全くその通りと思わざるを得ない。


 では何故、日本側は安重根を犯人と断じ、ろくすっぽ裁判もせずにさっさと処刑してしまったのか? もし木村氏の言うように犯人がロシア軍だという事がはっきりすれば これは日露再戦とならざるを得ないが それこそロシア側の思う壺で 彼らは中途半端に終わった前回の戦争を蒸し返し今度こそ本当に決着を着けたいと思っており これはその為の挑発である。だが日本側には それを受けて立つ余力無く ここは何が何でも安重根を犯人に仕立てて 事を大事に至らぬように納める事がロシアとの戦争を避ける為の止むを得ない処置だった。と言うのが伊藤博文暗殺事件の真相だったようだ。


伊藤博文
伊藤博文  



安重根
安重根 




閑人帳



●そろばん並みに長持ちする電卓

 家で一番長持ちしている家電は炊飯器か扇風機だと思っていました。いずれもただ今28年目です。ところが、もっと長生きしてるのが電卓だと気づきました。たぶん1975年くらいの製造で、ならば、43年になります。ほぼ毎日のようにちょこっと使ってるだけですが、不具合なし。ソーラー電池だから維持費はゼロ円です。

型番はシャープのEL-361 。LSIが普及しはじめた頃の商品ではと思います。電卓より単純なそろばんだって40年使えばガタがくるかもしれないのに、ずいぶんタフな商品です。表示は8桁、購入価格は不明。   電卓(電子式卓上計算機)の第一号は1964年に発売されたが、重さは20kgあり、値段は50万円もした。それがわずか10年で重さは200分の1、値段も推定200分の1に下がった。それを40年も使われたらメーカーはたまりませんです。しかし、加減乗除とパーセント計算だけなら、これで十分役にたちます。電卓が一生道具になるなんて・・電卓より、電子そろばんという名前のほうがふさわしい。


43年使ってる電卓。 重さは89gと軽い。
電卓 

1964年発売 電卓第一号 重さは20kgもあった。
電卓 









たなかよしゆきさんの古道紀行 予定案内



古道紀行おおばこの会 こばこの部予定表
(2018年11月~2019年4月まで)


主宰はたなかよしゆきさんです。参加費500円
お問い合わせは電話・ファクス 0745-79-6452
ケータイ 090-3485-6452 田中へお願いします。
(注)文字が小さいので拡大してご覧下さい。

こばこの会 2019プラン 






犬町・猫町情報


●久しぶりにオリジナルコースを企画 ~担当 KJ~

 猛暑の真夏は全く運動をしなかったせいで脚力が著しく衰えてるのを実感、なんとかせにゃ~、と、手間のかかるオリジナルコースを企画しました。下見と本番、二度歩かねばならない分、運動量が増えます。

西除川遡行 浅香山~天野山金剛寺 約32キロ
 ・・を、調査中です。大和川の支流、西除川(にしよけがわ)という地味な川に沿って、堺市・南海高野線浅香山駅から河内長野市の天野山金剛寺まで4区分して歩く計画、何年ぶりかで、地形図「古市」「富田林」を買いました。この川沿いに「快道」なんて無さそうですが、そこをなんとかゴマカシて?、案内します。河岸に道のない区間もあるので、そこは別の道を探します。途中、第三区分では「狭山池博物館」を見学します。第4区分の後半は、いつか例会で歩いた「天野街道」を予定しています。

予定区分(変わる場合があります)
第1回 南海高野線・浅香山駅~松原市市民運動広場 9キロ
第2回 市民運動広場~南海・北野田駅 7キロ
第3回 北野田駅~滝谷駅 8キロ
第4回 滝谷駅~天野山金剛寺 8キロ
       (調査中なので各回の距離は±1キロくらい変動します)

第1回は、10月18日を予定しています。11月中に終了の予定。
詳しいことは、近日「10月例会案内」でお知らせします。

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●9月 お楽しみ食事会

 TMさんの案内で、道頓堀「銀平」でランチ。刺身から焼き物まで、お魚メニューを堪能しました。食後は、近くの高級カフェ「カフェ・ド・ラ・ペ」へ。大阪クラシックの演奏会会場にもなった店です。参加13名(9月20日)



9月食事会







犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
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(60)祝日:祭日:記念日

 今は○○の日として何もかも一緒だが、当時ははっきり分かれていた。学校が休みになるのは祝日(式日)だけで、それらは以下のとおり。

四方拝―1月1日。勿論、元日で学校はもともと休みである。
紀元節―2月11日。神武天皇の即位の日とされ、今の建国記念日。
春季皇霊祭―3月の春分の日。今の春分の日。
天長節―4月29日。昭和天皇の誕生日で今は昭和の日。
秋季皇霊祭―9月の秋分の日。今の秋分の日。
明治節―11月3日。明治天皇の誕生日。今は文化の日。


これらの日には各家とも軒ごとに「日の丸」の旗を立てるので「旗日」とも言った。我が家にも旗も竿も竿の先につける金の球もあったが、何時の間にか見当たらなくなっている。今でも時々「日の丸」を立てている家を見かける事もあり、懐かしい思いがする。これらの他に休日にはならないが、
3月6日―-地久節。皇后陛下の誕生日である。行事としては何もない。これは「天長地久」という成句による言葉だが白楽天の「長恨歌」から説明していると長くなる。ちきゅう節というと、まず大方は地球節を思い浮かべ、天皇が太陽で皇后が地球だろうと勝手に納得してくれる。
3月10日―陸軍記念日。日露戦争の奉天入城式のあった日。奉天は現在の瀋陽。
5月27日―海軍記念日。同じく日露戦争で日本の連合艦隊がロシアのバルティック艦隊に完勝した日本海海戦を記念する日。
10月17日―神嘗祭(かんなめさい)。新穀を神に献上する日。
11月23日―新嘗祭(にいなめさい)。新穀を天皇陛下が始めて召しあがる日。
12月25日―大正天皇崩御の日。

 などがあって、一見して、今に比べ、いかに休日が少なかったか瞭然である。現行は何とかの日、かんとかの日と休みだらけ、恐らく世界一休日の多い国ではないか。ただ残念な事はバラバラで纏まっていない事。年末年始にしろ、ゴールデン・ウィークにしろ、目一杯休んでも10日前後である。毎年この時期になると民族の大移動となるが、休みが短いと移動だけで草臥れてしまいそうである。欧米では休日が少ない代り各人の都合に合わせてヴァケイションという一か月前後に亘る長期休暇を取り、ゆっくり休暇を楽しんでいる。文化の相違と言ってしまえば それまでだが。

昭和7年の暦
道明 昭和7年の暦 






閑人帳



●LGBT問題

 自民党の議員が雑誌に「LGBTは生産性が無い」と書いたのが人権屋さんの立腹を招き、ボコボコにされてるようでありますが、生産性がないというのは事実でウソを言ってるわけではない。それより、生産性が無いイコール世間の役に立たないという解釈が人権屋さんのツッコミどころでせう。幸か不幸か,自分のまわりにそのような人はいないので、感覚的に分かりにくいのですが、もし、身内や知り合いに、LさんやGさんがいたら、と想像すると、正直、理解や共感はしにくいかもしれない。BさんやTさんのほうが付き合いやすいかもしれない・・あくまで、想像ですが。BさんやTさんの大方がLとかGの関係に至るのかどうかも分からない。なんか、頭がこんがらがってきた。


CMで見るマツコさんは、BかTではないかと思うのですが、生産性を広義に考えれば、彼の活動はものすごく生産性が高い。もし、彼がただのデブ男だったら、あんなに経済効果は生まないはずです。彼の活動により、商品の売上げやCM制作でン十億円、あるいはもっと多くの金が動いてる。彼自身も年収ン億円は稼いでるでせう。マツコがLGBT問題で世間から批判されてるのかどうか知らないけど、もし、白い目で見られるような存在ならTV界で活躍できないはずです。


いや、問題の本質はそんなところにあるのではない、と人権屋さんは言う。LGBT個人の懊悩に思い至れという。それはその通りだけど、一般人はLGBTに関して、なんの教育も受けてこなかった。Gってオカマのことやろ? このレベルです。そもそも、これって頭で考え、理解できる問題では無い。論理より、倫理や生理のビミョーな問題です。当人の苦悩を理解せよと言われてもできない。しかし、一般人はそんな低レベルでもマツコさんを排斥しない程度の度量は持ち合わせている。LGBTさんより、人権屋のほうがよほど憎たらしい。




マツコ 









読書と音楽の愉しみ



●高橋輝次(編)「誤植読本」を読む

 誤植についての自分のイメージは、年中ドタバタの原稿作りをしている新聞や週刊誌に意外と誤植が無い(少ない)ことで、これは誉めてもいいと思います。なのに、少しは時間的余裕があるはずの一般の出版物に誤植がよく見つかる。特に、文学作品での誤植は、著者と編集者には大ショックで、見つけた日には眠れないほど気に病む。やけ酒飲んでも醒めたらジンジンと心が痛む。とても「ま、ええがな」気分にはなれない。


本書には、作家や編集者、のべ42名が誤植体験を綴っていて、その半分くらいは、ニヤリ、ガハハと笑える文章なのが楽しい。ガハハと笑える誤植例の一つが林真理子サン。まだ若かりし独身時代のエッセイで大ミスが発生した。原稿で「こういうふうな言い方をすれば、女性の心を動かすことができて」に続いて「イッパツできまる」と書いた。それが、本ではなんと「イッパツできる」となっていたのだ。うら若き乙女?にあるまじきエロ作文ではないか。カーッと頭に血が上った林サン、出版社に駆けつけて猛抗議したが・・。


作家、中村真一郎センセの話。尊敬する哲学者が翻訳本を出版され、中村センセにも一冊恵送された。その「あとがき」に哲学者は出版が遅れた理由を書いていて、それが「或る情事のため」となっていたのだ。「事情」を「情事」と誤植してしまった。著者も編集者も真っ青・・この本、どうなったのかしら。


外山滋比古センセの話。明治32年、歴史的誤植事件が起きた。読売新聞がロシア皇帝について社説に書いた文に「無能無智と称せられる露国皇帝」なる字句があって大騒ぎになった。原稿は全能全智であったが、原稿文字の崩し方がヘタで、文選工が全を無とまちがって拾ってしまった。それはともかく、国際的大事件だ。どうしたか。空前絶後の「訂正号外」を発行して、なんとか事なきを得た。はじめに、新聞は誤植が少ないと書いたけど、この大誤植事件の教訓が今でも生きてると好意的に考えたい。


誤植は絶対許さない、という印刷物がある。印刷と同じ歴史を有する聖書であります。それでも不幸なことにミスは生まれる。聖書の印刷でチョンボしたらどうなるか。関わった人は死刑になった。聖書に「人は誰でも過ちを犯す」という文言があったように思いますけどねえ。神は許すけど、人は人の過ちを許さなかったということです。


とても悩ましい誤植があると書くのは詩人の長田弘センセ。人一倍感受性が強く、一字一句にこだわる詩作に誤植なんてあり得ないはずですが、それが・・ある。あった。センセの「貝殻」という作品の一行・・・

涙が洗ったきみやぼくの苦い指は

しかし、印刷された詩集では次のようになっていた。

涙が洗ったきみやぼくの若い指は

 苦い指が若い指に誤植されていた。許せる? 絶対許せない。地図で言えば、北海道と九州の位置を逆にしたくらいの大間違いだ。センセは即、編集部にミスを指摘し、友人知己には「若い指は苦い指の誤植です」と触れ回った。ところが、である。詩に造詣の深い友人知己の反応が意外だった。みんな「苦い指より、若い指のほうがいいじゃないか。苦い指では感興が浅くなる」というのだ。センセは誤植だけでもどーんと気分が落ち込んでいるのに「誤植のほうが良い」なんて言われて、さらにどどどどど~んと落ち込み、詩人のプライドはぐわらぐわらと崩壊した。


で、どうなった?。長田センセ、誤植を是としたのであります。何百回も苦い、若い、のあいだを彷徨しているうちに、誤植の「若い」指のほうが詩的に優れていることを認めた。たった一字の違いにどれだけ悶々と思い悩んだか・・ご本人しか分からない苦悩であります。誤植は悪である。しかし、万にひとつ、こういう想定外のどんでん返しもあります。


複数の作家が誤植について同じ悩みを書いている。熱心なファンがいることはとても有り難いけど、なかには誤植探しに熱心なファンもいるというのだ。新刊が発行された。著者が最初に目を通して不幸にも誤植を見つけてしまった。十分に落ち込んでるとしばらくして「熱心な読者」から手紙が届く。「先生におかれましては既にご存じのことと拝察しておりますが・・」と丁寧な文章に〇〇頁の何行目、〇〇頁のどこそこに誤植があります、と指摘してくる。著者は読者より先に目を通して誤植を見つけ、ガックリきているところへ読者に追い打ちされる。傷口に塩を擦り込まれるってこのことだ。しかし、その読者には御礼と感謝の言葉を連ねて返事を書かねばならない。嗚呼・・・。


と、他人の誤植話を楽しみながら、ならば、駄目男の文の誤植(誤字・脱字)はどないやねん、と言われると、無論「あり」としか言えない。掲載前に読み直し、掲載後でも気づいたら訂正しているけど、ゼロにはならない。なのに他人の作文(ブログ)のミスは気づいたりして・・。もしや、人間には「誤植病」という不治のビョーキがあるのではないか。(2013年 筑摩書房発行)

 誤植読本