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DHさんの「昔の思い出話」

(92) 社会見学。
 社会見学と称する課外授業があった。その日は通常の授業がなく、一日中町の工場を見学し、鉛筆の一本でも手土産に貰って帰ろうというのだから生徒たちにとってはこんな結構な話はなく、どうか何度でもあって欲しいと願ってもそうは問屋が卸さず、たった2回あったきりだった。
 最初に行ったのは「星スポーク・・会社」。我が家から行けば紀州街道を東へ十丁ほど行くと道は北に向きを変え大きく曲がりながらの下り坂となる。この辺りだけは道幅も広くなり自転車ですっ飛ばすと誠に快適な所だが、その坂の中腹あたりの東側にあった。ここで造っているスポークという鉄線は自転車の車軸と外輪を繋いで外輪がポシャらぬように支える細い鉄線で、簡単に言えば自転車の部品だ。

  次が「・・シャットル・・会社」。ここでは木製の小さなボートのようなものを作っていた。シャットルとは聞きなれない言葉で何の事か分らぬが日本語にすると梭(ひ)であり織機にセットされた経糸(たていと)に横糸を通す器具の事である。どういう仕組みかよく分からぬが これに横糸をつけて経糸の間をガチャンガチャンと往復させると横糸が通り織物になってゆく。機械にやらせるからいいようなものの、これを手仕事でするとなると大変な手間だ。しかし機械になるまでは手でやるしか方法がなく、機(はた)織りは女の大きな仕事だった。一度だけ手機(てばた)の現場を見た事がある。登校の通り道に手機を織っている家があり、ある日、窓が開いていて中で(はた)を織っている姿をチラと見る事ができた。年端もゆかぬガキどもに工場を見せたって、と思うが卒業生の中にはここの職工になる者もあるかも知れず、今風に言えばPR(当時はまだこんな言葉もなかった)を兼ねての会社説明会的意味もあったかも知れない。


手前右の細長いものがシャトル

syatoru




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読書感想文

●ケント・ギルバート著
 「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」を読む

これと同じ趣向の本はすでに何冊も刊行されているのに、アメリカ人が書いたということに新鮮さ?を覚えるのか、よく売れています。(2ヶ月で7刷)読んでみればタイトルの通りでほとんどがすでに知ってることですが、なかには「そうだったのか」と新鮮な知識を得た思いの読者もいるでせう。とても分かりやすい文章なのも好感がもてます。

  悪しき儒教と日本はどう付き合ってきたか。本書の前半はこれを学べばヨシとします。本当に役立つのは後半「第4章 日本は儒教国家ではない」の、いろんな実例をあげての「真の日本人像」の説明です。たくさんの資料を漁って現代史に無知な人に知識を授けるという感じで、なんでアメリカ人に説教されなあかんねん、と、訝りつつ、納得する人が多いのではないか。ここに挙げられたような話は,本来、小中学校の教科書で取り上げるべきだと思います。


平行して、潮匡人著「そして誰もマスコミを信じなくなった」も読む。保守の論者なので、共産党や左翼の思想、行動をボロクソに貶している。共産党の政治活動がどんなにソフトになっても、その本質は暴力革命による独裁政権樹立を目指すことに変わりはないと。これを外してしまったら共産党ではなくなってしまうからです。


・・と、著者は共産党は脅威であると警告するのでありますが、駄目男の見るところ、党はジリ貧を続けて、革命どころか、早晩、今日のメシ代にも困るようなミジメ党に落ちぶれるのでは、と予想します。肝心の若い世代の支持が全くない。唯一の資金源といえる機関誌「赤旗」の読者が減って運営に四苦八苦・・。だから、本当は政党助成金が喉から手が出るくらい欲しいけど、いまさら下さいとは言いにくい・・。政治思想云々より、まず、金がない。この現実の厳しさを幹部は分かってるはずですが、責任をとるのが大嫌いな面々は知らん顔です。


今日、マスコミが信用されなくなった大きな理由は、言うまでも無く偏向報道のせいです。朝日新聞を頭に、朝日の太鼓持ちみたいに同じような論説を書く毎日新聞。そして、TVではTBSの偏向ぶりが一番ひどいと著者はいう。TBSの主犯は岸井成格で、放送法で決められている内容の公平性なんか全く無視して言いたい放題。(彼は毎日新聞の思想的リーダーでもあった)これに天罰が下ったのか、昨年、73歳で亡くなった。但し、TBSにハンセーの気はまるでなし、だそうです。(2016年 飛鳥新社発行)


ケントぎるばーと6


マスコミを・・・

閑人帳

●1人当たりの米消費量、ピークの3分の1に

 DHさんの前回掲載文に、戦前は男性大人は米を一年に一石(150kg)食べていたという記述があります。余りに多いのでホンマか?と調べたところ、ホンマでした。年に150kgの消費です。下のグラフによると、現在は年に50kgくらいだから、実に3分の1に減ってしまいました。ちなみに、駄目男の消費量は年間30~35kgです(外食分は含まず)5kg入りの袋を買えば約2ヶ月使えます。1食あたり0,4合(1,5合を4回に分けて食べる)のだから米屋さんの敵みたいなものですが、そんな人は多いと思います。さりとてご飯が嫌いなわけではない。逆に、三食ともパンや麺類なんて我慢できないタチです。しかし、別の調査によると、一日に一回はご飯が食べたいという人は少しずつ減っていて、5割台になってしまった。若者ほどご飯に魅力を感じない人が多いということでせう。


1人当たりの米消費量の変化。パン食が普及してきた昭和30年代に118kgだから、戦前は120~150kgの消費はあったと推定。


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DHさんの「昔の思い出話」



(91) お米

 父の職業はお米屋さんだった。だから家に入った壁際には米俵が山と積まれて居り、子供の私はその上に登って遊んでは父から「危ないから やめとけ」と叱られたものだ。お米も現今では何キログラムと目方で量られるようになったが、昔は 石(コク)、斗(ト)、升(ショウ),合(ごう)と容積で量られた。石は加賀百万石の石で、一石は十斗、一斗は十升、一升は十合と、完全な十進法であり、普通の成人男子が一年に食べるお米の量が略一石と言われていた。一俵は四斗入りで、目方に換算すると約60キロ。そして体重が60キロになると一人前の成人と見做された。私の体重が60キロになったのは勤め始めて数年後の事である。


お米を量る桝としては一升桝と一合桝が一般的で、一合桝は酒屋の片隅で塩をつまみにキューっと一杯引っかけられた方はお馴染だろう。お酒であろうとお米であろうと一合は一合である。日銭を稼いで帰りにお米をという現金での一升買いのお客さんには桝にお米を山盛りにし、けんど(だったと思う)という小さい丸棒を桝の縁に沿ってさっと掃くと桝の表面が綺麗に水平になる。「はい、正味一升、毎度おおきに」となる。こんな客にはちょっぴり「おまけ」をつける事も忘れない。ほかに斗桝という一斗桝もあるが、こちらは円筒形で滅多に使われない。米俵のような大きな物は量る桝がないので目方で量るしか方法がない。台秤という重量用の秤を使った。


米俵とは別に正面の板の間には朝鮮米(まい)が積まれていて、こちらは20キロと何故か重量建ての木綿の袋入りで、袋には仁川とか木浦とか輸出港の名前が刷りこまれていた事を覚えている。米俵も殆ど見る事がなくなったので、イメージの持てない方には大黒様の絵なり像なりを見て貰おう。大黒様は二俵の米俵の上に乗っている。真に怪しからぬ話で百姓が汗水流して作ったお米を土足で踏みつけるとは何たる事か、罰が当たって足が曲りはせぬか。ま、冗談はさておき、米俵もすっかり死語,死物になりつつあるようだ。


米屋にもいろいろあって、問屋から仕入れた米をお得意さんに配達するだけの店もあるが、我が家の場合は小さいながらも精米所を持っていて、産地から送られてきた俵入りの玄米を7分搗きとか白米とか、お得意さんの希望に合わせてお米を搗いて納めていた。、お米を搗く(精米)とは玄米に磨き砂を混ぜて擦り合わせる事で、お米の表面を削って行く事だ。削り取られたお米が米糠で 糠漬けの材料になる。


お得意さんの殆どが固定客で電話で注文がはいり次第、斗単位で父が配達していた。どの家にも二斗入りの米櫃を常備して居り、留守の時でも戸閉まりもせずに開けっ放しだったようで、不用心極まりない話だが、それだけ平和で治安の良い時代だったのだろう。支払いはすべて付けで月末締めの翌月払いである。月末になると父が「書き付け」(請求書)を作り、それを各家に配るのが私の仕事だった。書き付けには・月・日・斗・円也、とあるが 内容の証しになる受け取りも無ければ通い帳も無い。それでいて揉め事一つ起らないのだから客筋が良いか世の中が良かったのだろう。とはゆうものの きちんと払ってくれるお客ばかりではなく、中には双月、三月と支払いを溜める客もあるし,ごく希だが溜めた挙句に夜逃げした客もあったらしい。やがて戦争が始まり、お米が配給制になると単なる事務だけのような仕事が性に合わなかったものか、長年続けてきた米屋を廃業してしまった。



米俵







閑人帳


●クリームシチュー

 好きなメニューなのに自分で作らなかったのは牛乳を飲む習慣がなかったから。しかし、今どきの牛乳は結構おいしいと今ごろになって気づいて先月から毎朝飲んでいる。・・というわけで、クリームシチューができるようになりました。野菜は、玉ネギ、ニンジン、ブナシメジでジャガイモ抜き(常備しない野菜)。包装箱の説明通りの手順でつくると、まずまず納得の味でできました。納得できないのは、ルー一個で4皿分という説明。これじゃ一人分が少なすぎて物足りない。これを主菜にするなら2皿がテキトーと勝手に決めて、サラダと合わせて一食分のボリュウムにしました。


あとは調理時間の長さ。20分以上かかるものはつくらないと勝手に決めていますが、これはギリギリです。洗い物に洗剤がたくさんいるのも不満だけど、慣れたら気にならないかもしれない。一食分だけつくるのは難しいのでイヤでも二食分できてしまいますが、イヤになるかどうかは味次第でせう。


ブロッコリーとパプリカの温サラダを付け合わせて
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プチ・ケチの研究



●蜃気楼 青果店

 店名が「蜃気楼」なのではなく、商売の仕方が蜃気楼みたいな店が近所にあります。週に三日、月、水、土のそれも、午前10時から12時半までしか営業しない。この変則的商売を自分は覚えられなくて、つい他のスーパーで買ってしまう。一週間で開店してるのはたった7時間半。今どき「お客様第一」のサービス精神が皆無、徹底的に店の都合優先で商売しているように見えます。なのに、なぜ潰れないのか。


いわずもがな、値段が安いからです。営業中は狭い店の陳列台に群がるように客が押し寄せる。ほとんどの商品は一つが単位ではなく、一ザルなんぼの値付けです。かつ、店にはレジがなくて現金の手渡しのみ。当然、レシートはくれません。釣り銭用の大量の硬貨がザルに入ってる光景は昭和30年ごろの市場の雰囲気です。消費税なんか知ったこっちゃない。


間口の大きいレジ袋は有料(2枚で10円)で、ここへザルからどどどとぶち込む。品物別に仕分けしてたら時間がかかるから,とにかくぶち込む。店は1秒でも無駄な時間をつくりたくないのです。こんなに気ぜわしい八百屋さんは見たことがない。そして、12時半になると、そそくさとシャッターを下ろして営業終了。さっきの大賑わい、混雑はなんだったのか・・。蜃気楼と名付けるゆえんです。


Lサイズの見栄えが悪いみかんは12個で200円。
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ブロッコリーは中小6株で220円。
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読書感想文


●有島武郎著「生まれ出づる悩み」ほかを読む

 恥ずかしながら、有島武郎の作品を読んだことがないので、まず首記の作品を読む。先に読んだ泉鏡花よりずっと後の世代で、性格も作品世界もまったく異なり、有島センセはまじめの上にクソを乗せたようなタイプ。常に自分は一流の芸術家たり得るのか、と悩んだ末、45歳で自殺してしまった。ちゃらんぽらんじゃいけないが、完全主義もまた辛い。生活の心配=お金の心配なんか全然ない恵まれた境遇にあっても、悩みは次々湧き出でる。まあ、因果な職業であります。


本作は実在の人物(漁師から画家になる木田金次郎)との交流を描いたもので、半ばドキュメントでありますが、著者は彼を応援する立場で彼の厳しい生活ぶりを描写する。北海道、岩内という小さな漁村の暮らしと漁労の様子を、著者本人は経験していないのに物凄くリアルに書く。小説家たるもの、これほど想像力がないと一流に非ず、といわんばかりの熱気に満ちた文章です。また、なんとかして木田を画家にしてやりたいと精神的支柱の役目もする。同情、友情、応援の気概が伝わります。 おかげで、漁師の木田は晩年になってプロの画家に転向できた。これって極めて珍しい例でせう。そして、著者も名作をものにした。


有島の父は高級官僚で権益を使って私財を築く。子供が成人になるころには北海道ニセコで450㏊という広大な農場のオーナーになった。大阪城公園の4倍の広さです。しっかり仕事して、ガッチリ稼ぐタイプの父親でしたが、なんとしたことか、息子たちはみんな軟派。長男、武郎は小説家、次男も作家、里見弴で活躍。武郎の長男は森雅之という俳優になった。父からみれば、みんな裏切り者になったわけだ。おまけに、有島武郎は自分が「金持ち」であることに終生、後ろめたさを感じていた。


「一房の葡萄」は子供の目線で書いた童話の趣の小品。「小さき者へ」は自分の三人の息子(年子である)あてに父親の心情を綴ったエッセイふうの作品で、日本人としては珍しい。作家といえど、ふつうは「照れ」で書きにくいテーマでありませう。同じことを素人が書けるか、というと極めて難しい。読んで清々しい気分になる作品です。
 かくもすてきな子供たちへの愛情に満ちた文を遺して、著者は婦人公論編集部員だった波多野秋子と別荘で首つり自殺する。(武郎の妻は27歳で病死していて武郎が子育てをした)本人は「苦悩に満ちた人生」という認識だったかもしれないが、もう少しゆるく生きてたくさん作品を書いてほしかった、というのが世間の見方ではなかったでせうか。(2009年 集英社文庫・2011年 角川春樹事務所発行)


ニセコにある有島武郎記念館と羊蹄山有島武郎


有島武郎 






DHさんの「昔の思い出話」



(89) 電灯

 昔の童話の挿絵によく出てくるランプは既に無く(僻地ではまだあったかも知れぬが)私の子供の頃はもう電灯の時代になっていた。しかし、当初、電球は球形ではなく、先太の円筒形で、それも透明なガラス製で中身のフィラメントがよく見えた。それで球が切れた時もすぐポイにせず、外れた所を繋ぐべくあれこれいじくっていると10回に1回ぐらいはうまく繋がる事もあるので何でもダメモトでやってみるものだ。また定額灯というのもあった。これは一定の時間になれば勝手に灯が点き、また、消えるもので母の実家も当初はこれだったように思う。何時頃消えるものかは知らないが、日が暮れた後は寝るだけというのが農家の基本形だから余り深夜まで点いていたとは思えない。「燈火親しむの候」と農家では世界が違う。


この後がすりガラスの電球の時代で、私の子供時代はずっとこれだった。電球の字の如く球形である。最初はワットは余り使われず専ら明るさの単位である燭光を使っていた。薄暗い10燭光から100燭光までいろいろあったが100燭光は滅多に使わず、実質的には60燭光ぐらいが限度だったように思う。何しろスイッチを捻る時は出来るだけ右手にせよ、又、できるだけ濡れ手では触らぬようにと言われた原始時代である。左手だと感電した際、心臓に近いから危ないという訳でスイッチに触るのも恐る恐るだった。


中学校の物理の時間 先生が黒板に大きく[断る]と書いて電気の時はこれを「きる」と読んで「ことわる」と読んではいけないと教わった。先ほど電球が切れたと書いた時、この事が一瞬頭に浮かんだが多分切るで良かったのだろう。この後蛍光灯の時代となり、それがLEDになりつつある事はご存知の通り。この分野は日進月歩が目まぐるしく この後どんなテンポでどのように変わるのか見当もつかない


(90) ミシンの思い出

 「わたいの自慢はこれだけや」と言うのが母の一つ話だった。これというのはシンガー・ミシンの事で「嫁入り道具はこれだけでええ、他には何にもいらんと頼んで買うてもろたんや」と。父母が何年に結婚したのかよく知らないが、姉が大正十一年に生まれているから大正十年より以前である事は間違いない。その頃のシンガー・ミシンである。ましてや大阪府でも南のほうのド田舎の事。超舶来品であったろう。取り扱う代理店を探すのも大変だったようで、末っ娘だったればこそ甘える事もできたものと思う。


子供の私にはこのミシンはキリシタンバテレンの摩訶不思議だった。ペダルの足踏み運動がベルトを介して回転運動に変るのも不思議。その右側の回転運動がかなり長い胴を通って左の針の上下運動にどのように結びつくのか理解できない事ばかりだった。糸までが普通の縫い糸と違い、カタン糸と言って迂闊に扱うと指を切る程固い糸でそれがボビンにきっちりと巻かれていた。その糸をボビンから左に引っ張り、あちらに引っかけ、こちらに引っかけしてから漸く針のメドに通す。そしてズブリと布に通した後はカタカタとペダルを踏むだけでどんどん縫ってゆける。日本人は手先が器用だから手縫いの運針も綺麗だし、結構スピードも出るが、速さではやはり機械には及ばない。欧米人は不器用だから機械を造ろうとの発想になる。日本人は器用だから手縫いで充分で、それ以上の発想に飛躍しない。


戦前、父親がシンガーの輸入代理店をしていたという高校の同級生の言によると、ミシンの胴は鋳物だが、造った後、数年は放置しておくのだそうな。すると不良品には歪(ひずみ)が出てくる。それらを撥ねてパスしたものだけで造るから製品が良いのは当然だとの事で、そう言われて見ればこのミシン、母の生涯に亘って一度も故障した事が無かった。
 又、後年私の勤めていた商社がシンガー社に部品を納めていると知った時、こんな細かい物まで扱うのかと呆れもし(まさか今は扱っていまい)懐かしくも思った。代が変わってからは このミシンも使わなくなったが、今でも家の何処かに残っている筈である。
 

昔はたいていの家にあった足踏み式ミシン
ミシン 


ミシン







ウオーキング・観光



●暖かい立春

 立春といえば「春は名のみの風の寒さや・・」と寒い日が多いのですが、今日は本当に春めいた日和りだったので久しぶりに散歩に出かけました。服部緑地から天竺川沿いの歩道を歩き、阪急庄内駅近くの「さくら広場」まで約6キロの道。4月のお花見プランの下見です。さくら広場は安藤忠雄氏が設計した全国4カ所のさくら広場の一つで、一万平米の土地はパナソニックが寄付した。(他の3カ所も寄付でできた)


桜は順調に育ったみたいですが、昨年の台風で枝が折れた木が多く、樹形がいびつになってるのが惜しい。でも、満開になれば、そこそこごまかしも効いてサマになるような気もします。公園の地下には各種の貯水槽が埋められており、大災害時には水の供給源になるよう設計してあります。


服部緑地の早咲きの梅
服部緑地 


天竺川沿いの松並木の道
服部







閑人帳



●恵方巻き大合戦

 味や値段より食品ロスが話題になる恵方巻き。日本中で5人に1人が食べたとして2500万本。ものすごい数であります。売り切れるのならいいが、1000万本売れ残った・・なんてことになればたまらん無駄です。材料、手間賃、一本300円として30億円がパーになります。
 売るほうも、買って食べるほうも、だんだんアホらしくなって人気は下火になりそう・・とは駄目男の勝手な予想、といいながら、夕方、698円→498円に値下げした恵方巻を食べました。


昨日の近在スーパー8社の恵方巻き折り込みチラシ。イズミヤ、ダイエー、阪急オアシス、関西スーパー、ライフ、万代、サンコー、サンディ・・チラシ合戦に唯一参加しなかったのは苦境のスーパー玉出。売れ残りロスを案じての不参加なら正しい判断かもしれない。

恵方巻き






DHさんの「昔の思い出話」



(88)せいもん(誓文)払い

 冬になると「せいもん払い」が始まる。もはや死語に近い言葉だが ありようは呉服屋さんの年に一度の大安売り(バーゲン・セール)である。私の子供の頃は 女の人はまだ殆どが和服だったから呉服屋さんは何と言っても小売業の王様だった。我が家のお向かいは「キシヨ」という屋号の呉服屋さんで、この時期になると例年我が家の軒先を借りにくる。少しでも売り場面積を増やそうという事で大きな台を二つ我が家の軒下に据え、その上に足袋、紐、半襟などと言った小物を目一杯広げる。お向かいのご主人は平素はお店を奥さんと番頭さんに任せて自分は外回りで殆ど店に居なかった。多分、伝手を辿って嫁入り道具の売り込みに走り廻っているようだった。


何しろお得意さんを一人でもつかめば少なくとも箪笥一竿ほどの着物が売れるのだから、こんなおいしい商売はない。それがこの時期だけはお店に戻って自ら陣頭指揮で張り切っていた。コーきっとん とソーきっとんという二人の番頭さんが道路をまたいであっちへ行ったり こっちへ来たりしてお客さんに当たっていた。景気づけに鈴をジャラジャラ鳴らしたりしてお客を呼んでいたように思う。何しろ近郷近在の農家からおかみさんや娘さんがわっと押し寄せるので、その人出たるや大変なもので、何の関係もない子供の私までその熱気に煽られて気分がウキウキしてはしゃいだりした程だ。


今にして思えばこの頃、昭和一桁の終り頃が最盛期だったようで、南大阪一の商店街と言われていたそうだ。晩年、施設に入っていた母方の従姉弟(私より五つ年上)を訪ねると決まって「あの時分は良かったなー」とそればかり繰り返した。他の事は殆ど覚えていないのに楽しい思い出だけが記憶に残っているとは幸せな事だ。一年中殆ど家から出る事のない農家の主婦たちにとっては賑やかな人混みに揉まれる「せいもん払い」は盆と正月以上に楽しい行事だったらしい。


誓文払いで賑わう商店街(福岡市)
せいもん払い



誓文払いは江戸時代からあった
誓文払い 





閑人帳


●昔・懐中時計・・今・ナースウオッチやて

 数年使ったレトロなデザインの懐中時計は文字盤が見にくいのが欠点で不便でした。重くてかさばるのも煩わしい。さらに、昨年、落として裏面のパネルが壊れてしまった。さりとて、今さら腕時計はなんだし・・ということで、懐中時計の現代版?といえるナースウオッチを購入。看護士さんが愛用するからこの名になってるらしいけど、要するに懐中時計のスモール化商品です。重さは17,5gと懐中時計の3分の1以下、小さいわりに文字盤が見やすいのでオジンにはありがたい。


値段は2980円。「電池は自分で交換できます」とあるが、特殊な工具が必要で、かつ、電池の品番が書いてない。まあ、2年もてばええかと、そんな感じで買う人が多いでせう。ブランドは「リトル・マジック」楽天で購入。(アマゾンでも買えます)


ナースウオッチは文字盤が逆さまになっている。
ウオッチ 

ウオッチ








private のらくろ会情報



●private のらくろ会情報

イヤな予感・・・・イラスト 梅本三郎
2月イラスト

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1・くちまめ例会 ご案内  ~藤家さん~
  
2/14(木)雛飾りの見歩き
  コース:長浜の街あちこち
  集 合:JR大阪駅9番ホーム 
      8:59 長浜行に乗車、長浜駅に下車
      *昼外食にしましょ
    3月は14日(木)の予定です。

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2・ 「梅田でランチ会」  ~南さん~

 すでにご承知のように、日頃のらくろ会でお世話になっている梅本さん、小西会長が昨年末急遽入院されましたが、無事回復退院されました。そこで今年の初例会として下記ランチ会を計画しました。参加ご希望の方は南まで連絡ください。

なお、本企画にあたり、山本さん、辻さん、梅本さん、小西さんにご協力いただきました。

日時・・2月28日(木)
集合・・11時40分  JR大阪駅中央改札口
店・・・阪急グランドビル27階 中華料理店「白楽天」
https://tabelog.com/osaka/A2701/A270101/27001968/
費用・・5、000円

参加ご希望の方は2月10日までに南までご連絡ください。                       

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予告・・3月には恒例の豚汁会を企画
 今回はたなかさんにお世話いただき、関屋の近く「竹の杜茶論」という旧宅の庭を借りて行います。鍋とか調理道具類は現地で借りることができるため、食材のみ持参すればOKです。予定日は3月21日(休日)です。詳細は追ってお知らせします

******************* 以上


DHさんの「昔の思い出話」

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DHさんの「昔の思い出話」
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(87)釜風呂(五右衛門風呂)

 今でこそバスのない家の方が珍しくなったが、内湯(家の中の風呂)があるのはかなりのお邸で、普通の人はみんな風呂屋に通っていた時代の事である。母の実家は百姓家ながら風呂があった。と言っても桧を使った立派なものではなく、釜風呂とか据え風呂とか言うチャチなもので母屋に隣接する別棟の薄暗い部屋がそれだった。名前の通りご飯を炊くお釜の大きいものと思えばいい。鉄釜だからそのまま入ると火傷する。蓋を取ると湯の上に中板が浮かんでいて、これをバランスを崩さぬよう水平のまま、ゆっくり底まで押し下げ、その上に坐って湯につかる。勿論最初に水を張って下から焚くのだが、よく出来ていて、風呂の隣りが母屋の井戸で仕切りの壁に穴を開けて樋を通してある。井戸から汲んだ水をこの樋を通して直接風呂に流し込めるからいちいち桶で水を運ぶ必要がない。またお湯が熱ければ風呂の中から「うめてーっ」と怒鳴ると、それを聞いた母屋の誰かが井戸から水を汲んで流し込んでくれる。さながら人力水道でよく考えたものだ。


この部屋には電燈がないから薄暗い。ランプと言っても電燈になる前の大きな石油ランプではなく、菜種油(?)の入った小さい壜に灯心を入れて火を点けたもので、丁度小さい蝋燭ぐらいの明るさのものが風呂の片隅に置かれて居た。燃料は専らもみ殻で これは農家だから幾らでもあり、納屋の壁際にうずたかく積まれていた。お湯がぬるい時には風呂に入ったままで「焚いてーっ」と怒鳴る。うめる時と同様 誰かが聞いて「よっしゃー」ともみ殻を足してくれる。何もかも人力とは言いながらもなかなかうまくできていた風呂だった。


五右衛門風呂
五右衛門風呂


五右衛門風呂の断面図
五右衛門風呂







プチ・ケチの研究


●今回はプチ・ゼータクの研究

1斤400円・・「乃が美」の食パン

 たまにはケチと真逆、ゼータクの研究であります。入院中はほぼ絶食と栄養剤入りジュースだけの食生活だったので、その反動で、なんぞ美味しいもん、と欲が出、巷で話題の「乃が美」の食パンを買いました。きっかけは、図書館でオーナーさんの書いた本を10分くらいチラ見したから。例によって開発の苦労話が綴られているのですが、上等の食パン1種類のみをつくって商売になるのか、という誰もが抱く疑問には、自信と不安が半々ながら、あとは突撃精神でコトを進める。これにスタッフがついてきたのはオーナーの人柄のよさが幸いしていると思います。ただ、余りに急展開の「成功物語」に、オジンは不安を覚えます。


商品は食パン一種類だけ。標準は800円(2斤)で、400円の「ハーフ」もあります。(税別)食パンと言えば、4枚とか5枚にスライスしたものが普通ですが、このスライスサービスはありません。理由は二つ、出来たては柔らかすぎてスライス出来ないこと、もう一つは「ちぎって食べるのが一番美味しい」をウリにしているからです。これは納得できます。スライスしてトーストして食べる食パンの常識をひっくり返すところに商品価値があるのだから、気に入らない人は買わなければよいだけの話です。


パン自体が美味しければ、バターもジャムも要らない。別に感激するほどの美味しさではないけれど、普通、食パンをナマで食べるという発想がないだけに、この味の差はくっきりついている。(レンジで10~20秒チンして、温かくするといっそう美味しい)今まで、こんな食パンを食べたことがあるか、と頭を廻らせても思い出さない。1斤400円のネウチありです。しかし、値段が普通品の3倍なら美味しくて当然か。


「乃が美」というブランドのロゴタイプ(書体)をデザインしたのは書道家の宮田天風さんだという。この人、自宅から100mほどのところで書道教室をひらいていて、この業界ではそこそこ有名人?らしい。生徒に教えて授業料を稼ぐより、広告業界で名を売るほうがビジネスとして優れている。しかし、そのためには自らのキャラづくり(タレント性)と実績を積む努力が必要です。一見、生真面目ふうに見える書道界でも、うまく立ち回る人と、それが出来ない人、くっきり分かれてるみたいです。

店の案内はこちら・・・
http://nogaminopan.com/


目方は市販標準品よりやや重い。(標準は340~350g)
乃

宮田天風氏がデザインした書体 なかなかお洒落です。
乃 



戎橋筋の一等地にある「なんば店」
乃が美 






読書と音楽の愉しみ



●泉鏡花著「高野聖」を読む

 恥ずかしながら、泉鏡花の作品をよんだことがなかったので、文庫本を借りて「高野聖」と「義血侠血」の代表二作を読む。明治時代の作品だから、当時の常として全文ルビつき、但し、本書は、かな遣いは現代という編集であります。ルビ付きにすると、なんだか目がチラチラして読みにくいけど、それでも「まんま現代文」で読むよりずっと味わい深い。


読む前は、単純に泉鏡花の作風はロマンチック・・と思い込んでいたけど、読めば、二作品ともロマンチックを通り越しておどろおどろしく、中身の濃ゆ~い幻想文学作品でありました。当時にこんな強烈な個性をもった作家がいたことに驚いた次第です。この作風を駄目男は支持しますが、純粋に文学の見地からみれば、ややキワモノ的な見方をされるかもしれません。


「高野聖」 
 修行中の僧が飛騨の山奥の滅多に人が通らない難路を進むと、待ってましたとばかりに大量の山蛭が僧を襲う。まるで雨が降るように蛭が降ってきて彼の全身にまといつき血を吸う。その描写がすごくリアルで、蛭にやられた経験がある人ならもうムズムズ、チクチク、たまらん不快さを思い出すでせう。僧は必死のパッチで通り過ぎ、命拾いした。その先で一軒家を見つけた。そこにはこんな山奥にはありえない妖艶な美女と白痴の男がいた・・。ここからが本筋で、幻覚なのか、リアルなのか、なんともいえない、わやわや風の展開になるのであります。


「義血侠血」
 そうだったのか、この作品は・・。なんだか東映映画みたいなヤクザっぽいタイトルでありますが、これぞ、あの新派の代表作「滝の白糸」の原作です。これを書いた当時、泉鏡花は尾崎紅葉の門下生だったため、紅葉は「ここはあかん、ここも変えな」といっぱい添削をして原作のイメージと違う作品になってしまった。ゆえに、世間では、尾崎紅葉作「滝の白糸」で知られる作品になった。さらに、この「滝の白糸」というタイトルは当時、有名だったエンタテイナー、川上音二郎が勝手につけたもので、これで芝居化し、大ヒットしたので世間に定着してしまった。尾崎センセは川上にイチャモンつけたけど、まあ、どっちもどっちです。(滝の白糸は、水芸人の芸名)


本書は原題である「義血侠血」で書かれているので内容もオリジナルのままかと思いきゃ、そうでもないらしい。ラストシーン、検事の村越欣弥が自殺する場面で、泉鏡花の原作はあまりに凄惨で舞台上演が難しい?ため、ごく普通の自殺に変えられた。その文章で描かれているので、これは尾崎紅葉が書き換えた文になります。なんか、ややこしいなあ。(文庫版 昭和29年 角川書店発行)

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本文のはじめに、この時代の作品はルビつきの古い文章を読んだほうが味わい深いとかきましたが、本書の一頁を紹介します。滝の白糸が金持ちの老夫婦を出刃包丁で殺害する場面です。ルビがなければ読めない単語がたくさんあります。
 3行目の頭の「渠」は「彼(かれ)」と読みます。男女共通で「かれ」です。5行目の「こはそもいかに」の漢字表現は生まれてはじめて見ました。こんな難しい字をつかうのか、と感心。


泉鏡花


泉鏡花本 








DHさんの「昔の思い出話」


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DHさんの「昔の思い出話」
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(86)雑誌「少年倶楽部」 ~その2~

 日本SFの父と言われる海野十三氏は「浮かぶ飛行島」。某国が南シナ海に海上空港を建設する。関空のような埋め立てではなく浮かぶ空港だ。ここにシナ人の苦力として潜入した日本の軍事探偵(スパイ)の正体がバレ、追いつめられた挙句、窓を破って海中にドボンとなるが、この方法が秀逸で二本の棒を小脇に抱えて窓ガラスの中へ飛び込むのだ。この二本棒のお蔭で頭を傷つけずにガラスを破れたという訳でこのシーンだけが鮮明に記憶に残っている。さて海中に逃れたスパイが目にしたのはそれまで島だとばかり思っていた空港が動きだした、即ち飛行島は実は超巨大航空母艦だったという事で話は終わる。この後「太平洋魔城」「怪鳥艇」と続いて「怪鳥艇」の途中で「少ク」におさらばした。


山中峯太郎氏は「亜細亜の曙」「大東の鉄人」でスーパー・ヒーロー本郷義昭を活躍させ、満天下、少年の血を沸せたが、それらは既に終り、私の時は「黒将軍快快談」だったと思う。日本人が顔を洗う時には顔を動かさずに手を動かす。シナ人は逆に手を固定して顔の方を動かす。日本の軍事探偵が永年の習慣でついうっかりと手を動かして顔を洗ったところを人に見られて、そんな所から身元を怪しまれてしまう。高垣眸氏の「まぼろし城」。髑髏の覆面をした馬上軍団が日本アルプスの何処かにある山砦から一番隊、二番隊と粛々と出てくる。その一種異様な不気味さの漂うシーンが忘れられない。「怪傑 黒頭巾」は「少ク」で読んだか、それとも単行本でだったか、今一つ定かではない。


江戸川乱歩氏は「少年探偵団」の時だった・・と書いてしまってから勘違いに気付いた。「少年探偵団」はとっくの昔に終わって居り、私が読んだのは「妖怪博士」だった。「ボ、ボ、僕らは少年探偵団・・・」とか「出た、出た月が・・・」をひっくり返した「タテ、タテ カキツ。イルンマ、イルンマ、イルマンマ・・」の歌をラジオで聞いた覚えがある。ドイルのシャーロック・ホームズ物を読んだ今では、これがホームズのベイカー・ストリート・イレギュラーズをネタにしたものと分かるが、日本式に上手に作り変えられているから、氏独自の作品と言ってしまってもいいだろう。これより前の「怪人二十面相」の方が有名で、こちらはその続編。二十面相はホームズ対ルパンの日本版・乱歩版と言えようか。


南洋一郎氏の「大鬼賊」。頭に残っているのは潜水服姿の主人公らが海中の洞窟の中で鉄の扉を必死になって開けようとしている挿絵のシーンだけ。代表作は「吼える密林」。
 おっと佐藤紅緑氏を忘れてはいけない。大ヒットした「ああ玉杯に花うけて」は今は昔。この時は「街の太陽」だったかな。貧しい豆腐屋の少年と裕福な少年との友情物語だったように思う。「90歳。何がめでたい!」で今なお快気炎を上げている佐藤愛子さんのお父さんである。以上の他にもあるかも知れぬが、一応思い出せる限りは列挙したつもりである。結局、当時の読書と言えば「少ク」もしくは「少ク」に連載後、単行本になったものが殆どだったように思う。「少ク」が僕たちに及ぼした影響は実に大きかった。

浮かぶ飛行島
道明 少年倶楽部



妖怪博士
道明 少年倶楽部 





犬町・猫町情報



小学生時代の思い出    作:DH
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(86)雑誌「少年倶楽部」 ~その1~

 少年時代の思い出となれば少年倶楽部(少ク)は絶対欠かせない。雑誌と言えばそれしか知らなかった。定価1円。当時としては結構高価なものだったらしく、新本では買って貰えなかった。一か月待つと「月遅れ」と称する新本同様の古本が50銭で手にはいる。しかし、当然ながらこちらには付録がない。どうしても付録が欲しくて、ねだりにねだって新本を買って貰ったのは、多分昭和13年の正月号だったと思う。欲しかった付録というのは「渡洋爆撃機」の模型だった。ボール紙を図面通りに切り取り、折線の所は折り、のりしろには糊を着けて組み立てて行く。素材は違うが、これこそプラモの原型だろう。「渡洋爆撃機」についても説明が要りそうだ。九州の基地から東シナ海を越えて、上海辺りを爆撃して帰ってくる、当時としては最も長距離を飛べる飛行機の事で、完成した模型は天井から吊り下げて得意になっていた。


いつごろからいつごろまで「少ク」を読んだかはっきりしないが、兎に角「少ク」と言えば「のらくろ」。「のらくろ」と言えば「少ク」と言う程「のらくろ」の人気は抜群で「少ク」を手にしたら真っ先に読むのが「のらくろ」だった。その「のらくろ」も「国家非常時の折から、マンガ如きフザケたものに貴重な紙を廻せるか」との軍部からの圧力で昭和16年10月号で無理矢理やめさせられてしまった。著者の田河水泡氏にとってはさぞかし断腸の思いだった事と思う。勿論こんな真相が分ったのは戦後の事で、当時はすべて闇の中だった。今はマンガの専門誌まで出て、その発売日には書店だけでなく、駅の売店までその新刊で山ができる程マンガの氾濫する時代だが、当時のマンガは非常に希少な存在で、それだけに少年たちの楽しみのタネだった。その僅かの楽しみさえ許さないのだから、軍部とは本当に視野の狭い所だ。


余談だが、戦後マンガの超ロングセラーとなった「サザエさん」の著者の長谷川町子さんは田河氏のお弟子さんである。以下私が「少ク」で読んだ諸氏とその作品について述べて見たい。
 まず吉川英治氏の「天兵童子」。これは筏に縛りつけられた「天兵童子」が青海島に流れ着く冒頭の部分だけが鮮明で、あとはゴチャゴチャとしてはっきり覚えていない。後年、吉川氏が自らの生涯を省みて、結局「宮本武蔵」と「神州天馬峡」かと語ったと聞いて、早速 図書館から「神州天馬峡」を借りてきたが、これは寧ろ国枝史郎氏の作品と見紛うような波乱万丈の伝奇小説だった。


次いで佐々木邦氏の「トム君、サム君」。お茶目な双子が活躍する内容はともかくとして、ここに出てくる久米鵬という書生の「鵬」という名の説明が凄い。「鵬」も今では「大鵬」「白鵬」という二人の大横綱のお蔭で珍しくもないが、当時は滅多に見ない字だった。で「北溟に魚あり、その名を鯤となす・・・化して鵬となる。その翼 三千里・・・」と[荘子]から引用されると少年としてはただただ呆れるばかりである。


同氏については逸話がある。彼は大のヘヴィスモーカーで、当時、日本の植民地だった釜山から岡山の第六高等学校の教授に転任してきた所、それまで安く手に入っていた洋モクの値段がベラボウに高くなって家計が赤字になった。そこで家計を補うべく内職に洋書の翻訳を始めたところ、それが軍人上がりの校長の忌諱に触れ「苟も官立校の教授ともあろう者が内職をするとは何事か」と大目玉。しかし、氏はそれで恐れ入るような玉ではなく「じゃ官立でなければいいのでしょう」とさっさと東京の私大に転職してしまったという話だ。佐々木氏はわが国では殆どただ一人のユーモア小説作家でその意味でも特異な存在と言えよう。


少年倶楽部の人気漫画「のらくろ」から「のらくら出世物語」
少年倶楽部 



渡洋爆撃機 形式不詳
少年倶楽部





閑人帳



●気になる・・他人の「ブログ更新停止」

 このたびは自分が病気のため、ブログ更新停止を余儀なくされました。だれだって病気や怪我、その他の理由で一時停止は仕方ないのですが、ある日、突然、更新が止まり、コメントがないまま停止期間が長びくと「なんで?」と気になります。十数年前にお会いしたKMさんは大変なヘヴィーウオーカーで、ブログの自己紹介では「歩くことが三度の飯より大好きで休みの日にはデジカメ片手に電車で東奔西歩し、写真撮影を楽しんでいます。『日本列島縦断歩く旅』と『ふるさとの富士登頂』をライフワークとして楽しんでいます」。とあります。住所は富士市。


そんなKMさんのブログが、昨年8月、仲間と加賀白山へ登頂した写真の掲載を最後に更新されなくなりました。すでに5ヶ月たっています。休日は全部、歩きに出かける人がどうしたのか。

(1)重い病気か怪我のため、パソコンを使えなくなった。
(2)転職など生活の激変でブログどころではなくなった。
(3)ある日突然、この趣味がバカらしくなって放棄した。
(4)親の介護のため、歩き趣味もパソコンもできなくなった。

上記以外にどんな理由が考えられるでせうか。(4)の可能性が高いけど、それなら、ブログに何らかのコメントを書き込むと思います。記憶違いでなければ、KMさんは十数年前は一人暮らしだったはずです。自分の場合は、更新停止後、3週間で再開、途中で「停止しています」とお知らせもできたので「孤独死」をイメージされることはなかったと思いますが、突然、停止して音信不通になると、やはりマイナスの想像をしてしまいます。


東奔西歩の 『出路迦芽』 写真館 (最後の掲載記事)
https://blog.goo.ne.jp/michioaruku/e/4bbad170ada521daf22e66817eeb774c


<追記>
 もし、KMさんの身辺にトラブルがあってブログの更新が止まったら、まず、加賀白山登山に同行した山歩き仲間が真っ先に気づくと思います。KMさんはスマホを使ってるから通信環境は良い。それで一件落着した上での「更新停止」なら心配はなくなります。それにしても・・5ヶ月もの更新停止は長い。(1月15日)






お知らせ・ニュース



●ブログ再開・・ぼちぼち始めます

 約3週間ぶりの更新です。心配をかけてすみませんでした。入院中、ブログを継続するか、廃止するか、考えましたが、大巾に縮小して継続することにしました。不人気でも、履歴だけは「老舗」で、記事の数は約3800(下書き・非公開も含む)写真の数はおそらく1万点くらいあり、いちいち取捨選択するのは大変なので、一部のカテゴリーを除いては「継続する」「廃止する」のどちらかにします。名前を変えたり、新設するカテゴリーもあります。タイトルは未定です。再編集が終わるまで、一ヶ月くらいかかると思います。
 もし、病気をしなかったら、今までの調子でズルズル続けたと思うので、リニューアルの良い機会になりました。病気に感謝?!?!。


二回目の入院で泊まった部屋からの眺め。病院のアドレスが想定できます。自分が患った病名は「総胆管結石・急性膵炎」高齢者に増えているそうです。ご用心。
DSCN9922_20190112215243461.jpg

同じフロアの西側、談話室からの眺め。川は尻無川です。
DSCN9930.jpg









お知らせ




●お知らせ

ただ今、ブログ更新を停止しています。

管理人が病気のため、更新を停止しています。
再開は、1月中旬を予定しています。再開後、日をおいて、タイトル、内容とも大巾に変えるか、又は、閉鎖するか、考え中です。

10年を超える長い履歴のなか「快道ウオーキング」を訪問して下さった皆様方に厚く御礼申しあげます。平成最後の新年が明るい年になりますようお祈りします。 ~駄目男~


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犬町・猫町情報


1月例会ご案内
イラスト  梅本三郎


例会も神社仏閣神だのみ

入らすと0191月号

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●1月くちまめ例会 ご案内 ~担当 藤家さん~

13日は 快晴の宇治川べりを歩いてきました。

約14KM気持よく歩き、中書島到着でした。

新年早々は千里方面の散歩コースです

1/10(木)約5.4㎞ 水鳥いるかしら?

集 合:北大阪急行線 桃山台駅 10:00

コース:駅~春日大池~ぼだい池~牛ヶ首池~桃山台駅着





閑人帳



●すぐバレる「フェイクニュース」

 coffeeさんの面白い映像を拝借。ニュースカメラマンはとても仕事がやりづらい時代になりました。まわりにスマホをもった人がうじゃうじゃいるからです。彼らはニュース撮影の現場でそれを見物しています。「あっち行け」とも言えず、そのまま撮影して放送でONすると、下の画像のような投稿をして,インチキ、誇張をばらしてしまう。プロカメラマンがインチキ映像をつくり、素人がリアルな映像を伝える。これって、逆さまじゃありませんか。ニュース番組の映像って本物と思いがちですが、こんなコトが普通に行われている。ドキュメンタリー作品と称する番組も本当にドキュメントなのか分からない。真実度は5割引き、のつもりで見ませう。


青森県酸ヶ湯温泉で撮影された大雪のニュース。「大雪で腰まで埋まっています」とリポーターが言うも、実は道路の雪をかき寄せて積んだだけの大雪。そばで見ていた人が投稿したらしい。(NHK)
フェイク 


フェイクニュース



局の不注意で一つの画面でウソがばれてしまった例。9月、台風が大阪を襲い、道頓堀?から中継した場面。リポーターは「風で一歩も進めません」を伝えたかったらしいけど、後を歩く人は傘もささずに普通に歩いてる・・というリアルな映像になってしまった。台風の現場中継映像は大方が誇張、インチキでせう。だからといって「平穏な風景」を映しては仕事にならないので、クルーも苦労します。(フジテレビ)
フェイク


パリが燃えている・・何度も放映された凱旋門付近の映像です。燃えているのは1m四方くらいの焚き火のような火。これって、カメラマンのアイデアで焚き火したのでは?と疑いたくなります。そうでなくても、ばらけた小さな火をまとめて撮影しやすくしたのは彼らでないか。こんな小さな火でも、長焦点レンズでアップし、バックに凱旋門を入れると、パリは燃えている、の絵ができます。アホクサ。
フェイク



フェイク

http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-7324.html


犬町・猫町情報

 

小学生時代の思い出    作:DH
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(82)水泳

 水泳と自転車は一度覚えたら一生忘れないと聞く。どちらが先だったかとなると泳ぎだろう。自転車はある程度大きくならないとペダルに足が届かない。泳ぎをいつ覚えたかは定かではないが、場所ははっきりしている。従姉弟の家から一~二町北への海苔拾いをした海岸で、まずは背の立つ所で両手を持って貰い、息を詰めてうつ伏せになる所から始める。バランスのとり方が問題で、これを崩すといやでもガブリとやって泣きをみる。また、海水というやつはしょっぱいだけではなく、苦いんだ。何はともあれ浮く事が第一歩で、次は顔を上げる事。この後はいろいろな泳ぎの型を覚えるだけでさしたる事もない。


まず平泳ぎ。これは両手で水を掻くし、足は蛙型で一番覚えやすい。これの欠点は正面から波の抵抗を受けてスピードも出ない上に結構シンドい事だ。中学校の遠泳では全員これだったが、泳ぎ終わって浜に辿り着いた時には足が草臥れ、膝がガクガクになって立つのもやっとだった。横泳ぎはこれに比べるとぐっと楽になるが、一番楽なのは何と言っても背泳ぎだろう。プールでスピードを競うならともかく、泳がずにただ浮いている事もできる。夏休みなんか一人で海に出ては波の上によく大の字になって寝たものだ。こんな事も浮力の強い海水なればこそで、極端な場合、体は直立でも、頭を後ろに倒して鼻だけを水の上に出して浮いている事もできる。

淡水だとこうは行かない。高校の時、徹マンで火照った頭を冷やすつもりで川にはいった所、それまでの海で泳いでいた感覚とはまるで勝手が違い、体は沈むは流れがあるはで、これはヤバイ事になった、ひょっとすると溺れるかも知れぬと泡をくった。水泳競技でスピードを競うとなればクロールだが、あれには遂に馴染まなかった。あのバタ足がどうも性に合わぬようだ。クロールなんて所詮プール用のものだと、これは使えぬ者の負け惜しみである。


学校行事の一つ、遠泳
道明 水泳 


 

読書と音楽の愉しみ



●加地伸行著「マスコミ偽善者列伝」を読む

 雑誌などに掲載したコラムをまとめた辛口の評論集。著者は中国哲学史研究者で保守の言論人だから、標的にされたのは左翼やリベラルの人物が大半で、こんなに露骨に悪口書いて委員会?と心配するくらいであります。しかし、名誉毀損などで訴えられたケースはなかった。なぜ訴えないのか。それは書いてあることが事実だから、と加地センセは涼しい顔してる。馬鹿呼ばわりされた人は自ら馬鹿を認めるしかないと。


主な被害者(?)は下の写真のような方々。多くは朝日や毎日と仲の良い面々でありますが、今年、文化勲章を受賞した山崎正和氏が入ってるのに驚きます。どんな文言がバッシングの対象にされたのか。 雑誌「潮」平成25年11月号に掲載した文、中国や韓国に対する日本国民のとるべき態度としてこう書いている。「日本人にとってとるべき態度は一つしかない。たとえ個人的には身に覚えがなくとも、全国民を挙げて、かつての被害国に対して謝罪を続けることである」と。全国民挙げて、永久に、中国、韓国に謝罪を続けよというのである。つまり、山崎氏は日本国民の思想、言論の自由を認めない。全国民が謝罪せよ、というのだから謝罪しない人は非国民である。これって、ファシズムの最たるものではないか。加地センセならずとも、山崎はアホかと言いたくなるでせう。文化勲章を受章した、インテリの見本みたいな人でもこの程度の浅はかな考えをもっている。


東京慈恵医大教授の小沢隆一氏は、新聞の討論記事で、近ごろはやりの立憲主義の解釈として、憲法は国家が国民を縛るものではなく、国民が国家を縛るものだ、という論を述べ、これがエスカレートして「公務員以外の国民は憲法を順守する義務はない」と言い切った。そこで加地センセがガツンと一発、だったら、憲法第三十条「国民は法律の定めにより、納税の義務を負う」はどうなるのだ。憲法を守る義務がないなら税金を払わなくても良いというのか。大学教授ともあろう者がこんなレベルの物言いしかできない。これが、左翼、リベラル言論人の知的レベルであります。


本書の中で一番厳しく馬鹿呼ばわりされてるのは、同志社大学大学院教授、浜矩子サンでありませう。安倍政権のやることは何でも反対と訴え続けた末に、アベノミクスをもじって「どアホノミクス」なる言葉までつくって反安倍論に情熱を燃やしたのでありますが、加地センセに言わせれば、すべて安っぽい感情論であって全く論理的でない。大学院教授にしてはあまりにレベルが低い言説にあきれてしまう・・そうであります。もとは経済評論家であり、それなりのポジションは得ていたと思うのですが、そこに留まらず、スキルアップしてなんとか教授の椅子を手に入れたものの、もともと学者のとしての資質がないから素人みたいな感情論しか言えない。本人もアホだけど、彼女を召し入れた大学も人を見る目がなさ過ぎる。もし、浜センセが本書を読んだら、ものすごく傷つくでせう。なんせ、学者としての価値を全否定されてるのですからね。(2018年 飛鳥新社発行)

偽善者列伝

偽善者